第8話「神を討つ刃」金海怨神篇
金海神社の歴史は古い。
一説には和銅元年、即ち700年代に創設されたと言われている。金海市の北部を流れる金海河の氾濫による水難事故と河の神を結びつけたのが起源とされている。学業成就などのお守りは売ってはいるが、それが主要ではなく金海河の鎮護の神として崇められているのが主である。河の神が何故、金魚という品種改良された魚を御神体とすることになったかは諸説あり、偉大な河の神をそのまま形にすることはできず、様々な偶像が作られた末に、デフォルメされたのが金魚という説が有力である。金魚はしかし、野生ではほとんど存在せず、この街にあるのは金魚を象ったモニュメントや提灯ばかりである。
金海神社にも金魚の提灯はあり、闇の中で赤い光がぼうと浮き上がっていた。参道に並び立つ光を受けながらレンは歩いていた。時折、その輪郭を血のように赤い光が浮き彫りにする。レンの顔からは一切の表情が抜け落ちている。参拝客はこの季節でしかもこの時間となれば一人としていない。参道から鳥居を抜け、広い境内に入ると、社殿のある場所とは反対側の中央の広い場所に新山がいた。新山の周囲にも金魚の提灯があり、輪郭を赤く染めている。月明かりの下、その全貌が明らかにはなったが、レンは本当の彼ではないような気がしていた。そこに人間が立っているというよりかは、むしろ、彼と並ぶ金魚の提灯と区別するのが難しい。新山は、今は人間の姿だったが、昼間に見たあの異形の姿が鮮烈でその像が嫌でもちらつく。
「やぁ、帷君。来てくれたね」
レンの姿がちょうど影になって見えないので、新山は少し前傾姿勢になって言った。レンは無表情の相貌を崩すことなく、黙って立っている。
「連れてきてくれたかい?」
新山はレンの背後の空間が盛り上がっているのを確認する。布を被せられているようだったが、背丈はレンよりも高い。新山は俄かに期待した。
「ああ、約束は――」
レンが背後の布を剥ぎ取る。紫色の布が舞い上がり、そこにあったのは、果たして不良の頭ではなく、薙刀の切っ先だった。レンより高く見えたのは、レンが担いでいる薙刀に被せられた布だった。その事実に新山が呆気に取られていると、レンは薙刀を袋から出し、それを構えた。身長よりも長い薙刀を両の手で握り、新山へと丸まった切っ先を突き出す。うろたえる新山へとレンは言い放った。
「破棄だ。俺はお前には従わない」
「何だと……。帷君。君は賢い。だったら、どうするのが正解か判るはずだよ……」
押し殺した声で発する新山に、レンは静かに返した。
「かもな。でも、お前、読み違えてんだよ」
「何がだい? 僕に読み違えなんてないさ。これほどの力を手に入れれば、それより下位の人間は従うのが当然だろう」
「そういうことじゃねぇんだ。新山。答えはこうだ。お前は自分が思っているよりも愚かで、そんで俺はお前が買ってくれているよりも馬鹿だったってことさ」
その言葉で新山は全てを悟ったように目を見開き、奥歯を噛み締めた。
「……そうかい。君もそういう人種だってことか。だったら、いいさ。粛清する!」
新山の前髪から額にかけてがどろどろと溶け出す。皮膚の下から眼球が現れ、唇が厚ぼったく変化する。鈴の音がどこからともなく鳴り響き、レンの鼓動と同期する。早鐘を打つ鼓動を抑えるように、レンは左胸に手をやった。
裂けた口角から泡を飛ばし、新山は叫ぶ。
「今まで散々我慢してきたんだ! どうして僕が愚か者でなくちゃいけない!」
「そういうのが愚かだって言ってんだよ。いいか、新山。思い上がりってのは何も見えなくするんだ。でかい眼持っていてもそれは変わらねぇ」
「偉そうなことを!」
新山が鱗の浮いた両手を開き、口から長い息を吐き出す。レンも同じように息を吐いた。肺の中の空気を入れ替え、ぐっと息を止めた。
瞬間、新山が走り出した。頭部は人間の身体に不釣合いな大きさだが、四足で進む新山にとってしてみればそれは大した問題ではなかった。レンは短く息を吐き、すり足で間合いに入ると先制の打突を繰り出した。新山が横に転がるように避ける。全身を使っているために、まるで獣のような動きだった。レンは頭上で薙刀を回転させ、すかさず左手に持ち替え片手で薙ぎ払った。
しかし、その一撃は予期していたかのように新山は僅かに身を沈ませる。頭上を行き過ぎた切っ先をぎょろりとした眼で確認してから、新山は頭から突っ込んできた。レンは咄嗟に地を蹴って後退するが、新山は猛虎のように大口を開いてレンへと飛び掛ってきた。新山の体重を受け、レンは背中から倒れ込む。新山がレンを頭から食らおうとしてくるのを、薙刀で必死に押し返しながら、レンは顔をしかめた。新山の口から漂ってくる臭いが、どぶ川のような醜悪なものだったからだ。薙刀を新山が掴んでくる。新山のほうが力は上だった。薙刀を引っ張り込まれかける。レンは咄嗟に足を振り上げ、新山の腹を蹴り上げた。新山が呻きを上げ、力が僅かに緩んだ隙をついて渾身の力を込め、薙刀で払う。
レンは逃れた途端、片手を地面についた。今、組み付かれただけでもう消耗している。長引かせてはまずいと感じたレンは、すぐさま攻撃に転じた。振るい上げた薙刀を、新山の頭頂部に向けて全力で打ち下ろす。死にはしないが昏倒はするであろうという一撃を、新山は地面を蹴って僅かな体重移動だけで避けた。空を切った切っ先を新山は手で押さえつける。レンが歯を食いしばって逃れようとするが、押さえ込まれた切っ先は地面に食い込み新山の手から抜け出ることはできない。新山はそのままの姿勢で言葉を発した。
「帷君。本当に残念だ。こんなにも君は強いのに、一時の迷いで永久に道を閉ざすことになるなんて」
「ふざけろ。お前の言っていることは穴だらけだ。気の迷いで選んだわけじゃねぇ」
「そうかな」
新山は口元に笑みを浮かべた。ぎょろりと眼球が動き、レンを視界に捉える。レンは一瞬、射抜かれたように息ができなくなった。
「たとえば僕が日下部さんをこれから食らうと言えば、君の考えも変わるかもしれないだろう」
レンはその言葉で、思考が白熱化したのを感じた。奥歯を噛み締め、レンは薙刀を握る手にさらに力を込める。
「日下部は関係ねぇ」
「それは知らないな。約束を反故にした君が悪いんだ。僕が何をしても文句は言えないはずだろう?」
「ふざけんな」
レンが薙刀を振るい上げようとする。新山は呆れたようにため息をつき、もう一方の手を薙刀の表面に当てた。瞬間、レンは前につんのめった。辛うじて体勢を整えるが、振るい上げた薙刀は新山の触れた箇所で折れていた。新山は切っ先部分を掴んで、興味なさげに放り投げる。
「僕が本気を出せば君の足掻きなど、児戯に等しい。玩具で僕に勝てると思っていたのかい?」
レンは折れた薙刀を見やる。これで戦えるか、と自問する。リーチは確実に短くなった。加えて、相手は触れれば薙刀程度は折ることができる。勝てるのか、という疑問にレンは唾を飲み下した。
「やめておこうよ」という言葉に、レンはハッとして顔を上げた。新山が肩を竦める。
「これ以上やっても君は勝てない。さっきの無礼は許そう。迷うこともあるさ。でも、君だって分かっているはずなんだ。何が最善か、くらいはね。そこまで馬鹿じゃないだろう。帷君」
新山が踏み出す。レンは一歩後ずさった。どうすればいいのか。答えが闇の中を彷徨う。新山が身体を開き、レンへと手を差し伸べる。レンは虚空に向けていた眼差しを、再び新山へと据え直した。
「……何をするんだい?」
新山が尋ねる。レンは無意識のうちに新山の手を折れた薙刀で払いのけていた。鱗の浮いた新山の手から血が滴る。折れた部分が尖っていたために切ったのだろう。レンは喉の奥から声を搾り出した。
「俺は、お前には従わない」
その言葉に暫時、沈黙が流れた。新山は顔を伏せているようだった。レンは薙刀を突き出したまま、硬直していた。永遠のような一瞬の時間がぬるい風の吹き抜ける境内に降り立つ。その沈黙を破ったのは新山だった。
「……度し難い」
その声が聞こえ終わらぬうちに、新山の手がレンへと伸びた。不意打ちに、一拍遅れたレンは薙刀を振り回して手を払おうとするも、掌に全て弾かれる。後ずさるが、相手の速度のほうが速い。薙刀を掴まれ、引っ張り込まれる。レンがそれを認識した瞬間には、鳩尾へと深い掌底が食い込んでいた。レンの身体が突き飛ばされ、宙を舞ったのも一瞬、地面に強く叩きつけられる。鳩尾から広がる痛みがレンの意識を暗色に塗り潰そうとする。咳き込みながら、澱む視界でレンは新山を見た。新山は薙刀を真っ二つに折って、投げ捨てた。ゆっくりと近づき、その口から叫びが迸る。
「度し難い悪だ、君は! 従わないだと? 君だって僕の痛みは分かるはずなのに、一人だけ正義を気取るつもりか! そんなことは許されない!」
今にも閉じそうな意識を叩きつけるかのような叫びに、レンは立ち上がろうとした。しかし、痛みが尾を引いてなかなか身体が言うことを聞いてくれない。そうこうしている間にも新山の影が迫ってくる。ぐっと奥歯を噛んで、レンは新山を睨んだ。彼に屈服する姿だけは見せてはならないと思ったのだ。たとえこの場で食われようとも、心の敗北だけはあってはならないと。
新山が大口を広げる。口の端からは唾液が垂れ下がっていた。唾液が地面に触れた瞬間、じうじうと地面が焼け爛れる。レンは思わず目を閉じそうになったが、無理やりにでも新山を見据えた。
その時、靴音が境内に響き渡った。レンが先に反応し、新山が周囲を見渡す。ぎょろりとした眼が音源を捉え、見つめた。レンもそちらへと目を向ける。
提灯と月明かりの照らす参道から、一人の男が歩いてきていた。ボーダーのシャツに、ジーンズという井出達で、平均的な体躯をしている。提灯の光が眼鏡に反射しており、レンはようやくその人物が誰なのか判った。
「春日、か……?」
その言葉に応じるように、男――春日は足を止めた。鞄を手に提げている。そこからプラスチックのファイルを取り出し、没個性的な声で喋り始めた。
「金海神社、だと特定するのは難しかったです。金魚を御神体とする神社は三つありますから。しかし最も規模の大きい神社だとは。厄介な相手になりそうだという予感は当たっていたようですね」
プラスチックのファイルを開き、春日はふぅと息をついた。レンと新山を交互に見やってから、レンに向けて微笑んだ。
「一人でやろうという気概はさすがと言いましょう。でも、レン君。僕は初めから君を助けるつもりでした。その厚意まで無下にする必要はないでしょう」
レンが言葉を発せずにいると、新山は春日へと身体を向けた。この場での目撃者を消そうと思ったのだろう。春日は新山を認めると、ふむと顎に手を添えた。
「御神体との融合。いや、君の身体を一時的に借りているのですから憑依でしょうか。どちらにせよ、そのままでは自我が持たない。無理をしないことをお勧めします」
「何を分からないことを」
新山が春日に飛びかかろうと両手を地面につける。春日は顎にやっていた手をファイルに触れさせた。
「――奔れ」
新山が駆け出すのと同時に発せられた声に、春日の手のファイルから何かが飛び出した。空気を裂いて新山にその何かが張り付く。見る見る間に、春日のファイルから飛び出したものが新山の顔を埋め尽くしていく。新山は怯んでその場から後ずさった。ひらひらと漂って、それは新山の足元に落ちた。レンが目を凝らすと、それは紙だった。矢じりのような形をした紙に赤い文字が刻まれている。
新山が呻き声を漏らす。紙は新山の鱗に食い込んでいた。むき出しの眼球を紙で作られた矢じりが突き刺す。新山は顔を押さえて仰け反り、叫び声を上げた。
レンが呆気に取られていると、春日はレンへと歩み寄った。もう矢じりの紙はないのか、ファイルからは何も発射されない。春日は鞄を下ろし、中をまさぐった。レンが何も言えずにいると、春日が先に口を開いた。
「何も言う必要はありません。レン君は自ら考え、行動した。そのことに対して、僕が言えることは少ない。恨み言があるとすれば、少しくらいは頼りにして欲しかった、という程度です」
その言葉にレンが返そうとすると、春日は鞄から布に包まれた何かを取り出した。布を解くと、拳二つ分ほどの長さの石の棒が現れた。両端に自身の尾を噛む円環の龍の図柄がある。石の棒を差し出し、春日が告げる。
「これは如意棒です。伝承のものとは少し違いますが、ほとんど同じ強さと言ってもいいでしょう。レン君の法力に反応します」
「法力、だって。俺にはそんなものは――」
「あるでしょう。右手の数珠がそれを証明しています」
その言葉にレンは初めて右手首へと目を向けた。数珠同士が擦れ合い、鈴のような音を発している。先ほどから聞こえる鈴の音はこれだったのか、と合点すると同時に、数珠に刻み込まれた金色の文様が薄く光を放っていることに気づいた。
「これ、は?」
「見える人間には少なからず法力があります。普段は霧散しているレン君の力を数珠が一点に集約してくれているんです。その力を如意棒の力へと変換します。これを」
春日が如意棒をレンへと差し出す。その時、新山の声が響き渡った。ほとんど獣同然とも言える叫びに、春日は僅かに振り返る。
「僕の術では足止め程度にしかなりません。彼を本当にどうにかしたければ、レン君がやるしかないんです」
レンは新山へと目を向けた。新山は身体を震わせて紙の矢じりを振り落とし、体勢を沈めて飛びかかろうとしている。肩を荒立て、節々から血が滲んでいるが、傷口が泡立ったかと思うとすぐに修復した。
「憑依とはいえ神です。大抵の傷は治してしまう」
新山は喉から呻き声を発する。その姿を見て、レンはもう目の前の相手は人間ではないと改めて知った。これ以上、後戻りのできない道に踏み込ませるわけにはいかない。
レンは春日の差し出した如意棒を手に取った。立ち上がり様、春日が頷く。新山がレンへと目を向ける。レンは右手で如意棒を握り、肩の高さまで持ち上げた。深く息を吸い込み、瞳を閉じる。春日の言っていることがどこまで本当か分からない。こんなものを使っても、何も変わらないかもしれない。
――それでも。
レンは目を開くと同時に、右手に思惟を流し込むイメージを視た。黄金の光が迸り、血脈のように如意棒に文字が刻み込まれる。新山が駆け出す。レンは如意棒を振るい上げた。喉が裂けんばかりの雄叫びと共に如意棒を打ち下ろす。
飛び掛った新山の頭部へと、黄金の光を纏った一撃が振るい落とされた。迫っていた新山の姿がレンの眼前で沈み込み、頭を垂れる。レンの目の前で光がパッと弾け飛んだ。身の丈ほどに長くなった如意棒が新山の頭部に打ち込まれていた。手応えが指先に伝わる。しかし、まだ新山は健在だった。ぎょろりと眼球が動いたのを本能的に感じたレンは地を蹴ってその場から飛び退く。横合いから入った新山の手が先ほどまでレンの首筋があった場所を掻いていた。反応が一拍遅れていれば、頚動脈を掻っ切られていただろう。
レンは右手の如意棒に目をやる。血脈の文字が生命の灯火のように熱く滾っている。新山がよろめきながら頭を上げた。鼻先から頭頂部にかけて真一文字の焦げ痕がある。その焦げ痕こそが如意棒の一撃の証だった。
「如意棒は魔を払い、持ち主の意思で大きさも長さも変化する。レン君の意志の力が強ければ強いほど、如意棒はそれに反応して浄の力を示す」
春日の言葉に背中を押されたように、レンは如意棒を強く握った。光が瞬き、如意棒から流れ込んでくる意思が告げる。
――魔を討て、と。
「言われなくても」
レンは頭上で如意棒を回転させ、光を周囲に払った。燐光が煌き、火の粉のように舞い散る。右手で主として構え、左手を添える。柄を真っ直ぐに新山へと向けた。それは明確な敵意の表れだった。それに呼応するように新山がぎょろりとした眼を向け、大口を開いて咆哮した。焦げ痕の上に赤い表皮が泡立ち、傷を修復していく。法力で受けた傷でも修復するのか、とレンは息を詰めた。新山が身体を沈みこませる。レンは構えの姿勢を取り、新山の動きに意識を集中した。春日は何も言わなかった。この戦いにもう自分の介入するものはないと思っているのだろう。事実、この戦いはレンと新山のものとなっていた。レンは長く息を吐き出す。新山が鱗の浮いた指を動かした。
息を止めた、刹那、新山とレンは同時に動いた。新山が獣のように駆け出す。レンは柄を突き出して新山へと真正面から迫った。二つの影が重なり合うかに見えた瞬間、レンは鋭い打突を繰り出した。しかし、新山はそれを先読みしているかのような素早さで地を蹴って横に避ける。レンは追い立てるように如意棒を薙ぎ払った。軌跡を描くように黄金の一閃が煌く。新山は身体を一瞬沈みこませると、如意棒の攻撃を跨ぐように跳躍した。頭上を行き過ぎる新山の姿をレンは一拍遅れて目にする。空中にいる新山の眼球がレンを見下ろし、視線が交錯する。レンは如意棒を地面に突き立てて制動をかけ、即座に反転した。地面に着地した新山が振り返り様に鱗の浮いた手を放つ。制動に使っている武器は普通ならば間に合わない。しかし、レンは春日の言葉を覚えていた。如意棒は持ち主の意思で大きさも長さも変化すると。ならば、とレンは叫ぶ。
「縮め!」
その言葉で如意棒が光を纏いながら、その長さを変化させる。振り翳した如意棒はナイフ程度の長さだった。新山の手と振るった如意棒がぶつかり、黄金の火花が散ると同時にお互い僅かに後退する。レンは両手で如意棒を握り、後ろへと引いて叫んだ。
「伸びろ!」
その言葉で如意棒が今度はレンの身の丈よりも長く、三メートル近くの長さへと変化する。レンはそれを思い切り薙ぎ払った。新山との間合いは二メートルあるかないか。この長さならば充分に通用する、と思ったのだ。如意棒から黄金の文字の血脈が迸り、軌道上の闇を切り払う。突如として横合いから切り込まれる形で迫ってきた如意棒の一撃を、新山は避けることができなかった。横っ面に叩き込まれた一撃に確かな手応えを感じた直後、新山の異形の身体が吹き飛ばされる。新山は絵馬掛けへと背中から突っ込んだ。ガラガラという音と共に粉塵が舞い散る。レンは肩で息をしながら如意棒を最適な長さに戻した。今の一撃は確かに顔面を捉えた。少なくとも昏倒はするはずだ。レンはしばらく新山が倒れているはずの場所を見ていたが、立ち上がってくる気配がない。
「……終わったのか」
レンは緊張を解いた。右手の如意棒に視線を落とす。初めてだというのに、自分の意思にちゃんとついてきてくれていた。突然渡された武器にも関わらず、初めて使ったという感覚がしない。その不思議さにレンが如意棒を持ち上げて観察の目を注いでいると、春日が叫んだ。
「レン君! まだです!」
その言葉に反応して新山のいた場所へと視線を戻す。次の瞬間、粉塵を縫って一直線に飛んできた手がレンの首筋を掴んだ。喉が圧迫され、痛みにレンは左手でそれを掴む。表面が鱗でざらざらとしている。砂埃が消え、手の主が視界の中で立ち上がる。新山だった。右手を突き出しており、それがレンの首にかかっている。新山は顔の右半分が焼け爛れていた。黄金の文字が浮かび上がり、焼きごてでも押し付けられたかのようになっている。新山は左手で傷跡に触れながら、「ああ」と喉から呻き声を発した。
「君は酷い奴だ。なんてったって神様に傷をつけたんだからね。そして同類である僕にも傷をつけた。許されないよ」
レンは徐々に気道が狭まっていくのを感じた。酸素を求めるように口を開くが、新山の手が万力のように食い込んでいるのでうまく取り込めない。レンはぐっと奥歯を噛んで、右手に意識を集中させた。如意棒が一瞬でナイフの長さに縮み、レンは新山の手に柄を押し当てた。ジュッと接触部分が焼け焦げる。新山が僅かに顔をしかめたが、それは醜悪な笑みの中へとすぐに隠れた。
「僕の手を焼き切るつもりかい? でも、その妙な棒が僕の手を焼くのと、僕の手が君の首の骨を折るの。どっちが早いかぐらいは分かるだろう」
レンは舌打ちを漏らし、ならばと新山本人に柄を向けようとするが、それでこの状況が打開できるかと自問する。新山を伸長した如意棒で突き飛ばしたとしても、そのはずみで首の骨を折られる可能性もある。新山本人を狙うのはリスクが大きい。しかし、手を焼き切るには時間がかかる。如意棒で手首を折ろうとしたが、春日はすぐに回復すると言った。
ならば、どうする? 考えを巡らせるも答えは出ない。脳に酸素が行き届いていないのか、思考が薄ぼんやりとしてくる。新山に刻み込まれた文字が点滅し、如意棒から光が失せかける。それが自身の命の灯火に見えた。考えろ、と自分に喝を入れようとするも、既に手の感覚すらない。このままでは、とレンの思考が暗闇に没しかけた。その時、新山が言葉を発した。
「これで終わりだね、帷君。後は僕に任せなよ。おいしく食ってあげるよ。後で日下部さんも食ってあげるから。寂しくないよ」
その声にレンは閉ざしかけていた瞳を開いた。ほとんど声帯を震わせることもできない喉から声を搾り出す。
「……ふざ、けんな」
レンは左手で新山の手を掴んだ。右手に握った如意棒を持ち上げ、左手を伸ばし、両手で如意棒を握る。新山はレンが何をしようとしているのかはかりかねて、「なんだって?」と口にする。
レンは奥歯を噛み締めて、閉じそうな意識を無理やりこじ開けるように口を開いた。
「お前なんかに、日下部を、――アカリをやるかよ。俺も食わせやしない。終わるのは、お前のほうだ」
その言葉の直後、如意棒を手に向かって振り下ろす。両手で抉りこむように放った渾身の攻撃に呼応するように黄金の血脈が眩いまでに輝く。表皮を融かし、筋肉繊維まで至った痛みに新山の手が緩んだ。レンはそれを見逃さず、右手に持ち替えた如意棒で下から払いのける。手が解け、レンは激しく咳き込んだ。目の端に涙が滲んだが、今は自分の痛みに頓着している場合ではない。新山はゴムのように伸びた手を戻そうとする。レンは駆け出して足で手を踏みつけた。頭上に振り上げた如意棒で足元の手を薙ぎ払う。黄金の光が刃のように手を切り裂いた。断面から血が迸り、レンの足元を濡らす。新山の叫びが境内に木霊する中、レンは新山へと猪突するように地面を蹴った。新山はもう一方の手をレンへと突き出し、それを矢のように伸ばす。レンは半身になってかわすと同時に、その手を左手で引っ掴んだ。無意味に伸びた手がのたうち、境内の砂利を巻き上げる。新山が驚愕する前に掴んだ手を自分の側に引き寄せる。新山の身体が僅かに持ち上がり、バランスを崩す。レンは如意棒を突き出し、叫んだ。
「伸びろ、如意棒!」
その言葉に呼応して如意棒が光を纏い、槍のような鋭さを伴って新山の腹腔へと突き刺さった。新山が呻き声を上げる。レンは柄を食い込ませるように手を捻った。新山の身体を侵食するように黄金の文字が刻み込まれ、袈裟のように纏わりついていく。レンは左手を離し、如意棒を払った。新山の身体が境内を転がり、砂利が音を立てた。レンは荒い息を繰り返しながら倒れている新山を見つめていた。今度こそ――、という思いとは裏腹に新山は手をついた。よろめきながら身体を起き上がらせ、腹腔を押さえている。新山の唇の端で血が糸を引いていた。今の一撃は効いたはずだ。それなのに、まだ起き上がるのか。新山は眼球を動かしてレンを見据えた。
「……いい気に、なるな。神様の力だぞ。そんな武器で、どうこうできる相手じゃない。僕は、不死身だ」
レンはもう一度如意棒を構える。今の攻撃が決定打にならなかったとなれば、どう打ち込めばいいのか見当もつかなかったが、やるしかなかった。その決意を新たにした眼差しを新山に向ける。新山が動き出そうとした瞬間、袈裟のように絡まっていた黄金の文字が一際強く輝いた。新山が喉の奥から呻き声を上げて蹲る。
「そんな、どうして……」
「もう契約が切れたからだよ」
その声にレンは目を向けた。本殿のほうから歩いてくる影があった。胡桃色のショートボブの髪に猫耳は見間違えようがなかった。
「ミャオ、か。どうして、ここに」
「話をつけてきた」
ミャオはそう言って、新山に視線を向けた。
「金海神社の神様はこれ以上痛い目見るのは嫌なんだってさ。で、あたしはそれなら契約を切ればいいって言ったの。神様って気まぐれだから、自分の勝手で簡単に人間なんて見限っちゃうんだよ」
「そんな……。じゃあ、今の僕は」
新山の身体が徐々に元に戻っていく。金魚の眼球は沈み、裂けていた口が戻り、伸びていた手が縮んでいく。異形の姿は一分とかからずにちっぽけな人間の姿になった。それでもレンが掻っ切った右手や打ち込んだ傷は癒えていない。青白い顔をした新山は這いずりながら、ミャオへと近づいた。
「僕はどうなるんだ? このままじゃ、死んでしまう。神様と話せるんなら、お前も見えるんだろ。だったら、僕を助けてくれよ。なぁ」
足元から這い寄ってくる新山を、ミャオは足で蹴り払った。
「知らないって。あたし、君とは違うし。自業自得。神様と契約するんだったら、もっと賢くあるべきだよ。神様はそれ相応の力を与えたけれど、その先までは保障してくれないからさ。いい加減だから、君みたいな人間にも力を貸してくれたんだよ。その辺、分かってるよね?」
新山は目を見開き、俯いて乾いた笑い声を上げた。大きくなっていく自嘲の笑い声が静寂の境内に木霊する。ミャオは腰に手を当ててレンへと視線を向ける。レンはまだ鈴の音が鳴っていることに気づいた。
「レン君。まだ終わってない。今の彼は妖怪でも人間でもない。数珠が反応しているってことは、この世界にあってはならないものだってこと。とどめをさして」
その言葉にレンは背後の春日へと視線を振り向けた。春日は黙したまま何も言わない。ミャオの言葉が間違っているわけではないということなのだろう。レンは如意棒を手に新山へと近づいた。新山は引きつった笑みをレンへと向ける。レンは頭上へと如意棒を振り上げた。
「殺すのか?」
その言葉にレンは躊躇の間を置いた。相手はしかし、自分の大切なものを奪おうとした許せない存在だ。ここで生かして何になる。禍根は断ち切らなければ、何も解決したことにならない。レンは瞳を閉じて深く息を吐いた。救うべきは何だ? やるべきことは何だ? 今、この場で本当に求められていることは――。
レンは目を開け、如意棒を振り下ろした。
翌日未明。金海神社の神主が敷地内で倒れている高校生を保護した。本殿で三人が倒れており、彼らは一様に「金魚に食われた」という証言を繰り返している。警察や学校関係者は精神的な錯乱があるとして彼らを停学に処した。もう一人、境内で倒れている少年も保護された。裂傷や打撲などの怪我と共に右手首から先を失ってはいるが、既に処置は施された後であり、命に別状はなかった。彼は意識を取り戻した後に、「殺さなかったのか……」と呟いたと言うがそれが何に対することなのかは口を開こうとしなかった。後に、倒れていた生徒同士でのいじめの因果関係が明らかになり、この不可解な事件はいじめの延長として片付けられることになった。警察や学校は、殺す殺さないの関係にまで彼らのいじめが発展したと見て捜査をしている。直前に学校で不審なビラが撒かれたこととの関係性については不明であり、ともすればいじめていた生徒たちの自作自演を疑う声も上がった。事件は完全にこの四人の間でのみ回ったものであり、目撃者もおらず、彼らの一日も早い回復と明確な証言の聴取を得るのを待つばかりとなっている。
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