第6話「金魚鉢の街」金海怨神篇

 次の日から学校にレンの居場所はなくなった。いや、今までもなかったのだから、それがより明確になったと言ったほうが正しい。レンは孤独を自覚するようになった。屋上へと上り、不良たちに殴られもしたが、今日のレンは無抵抗ではなかった。

 頭上から打ち下ろされた拳を受け止めて流し、レンは不良の懐に踏み込むと、その腹へと鋭い肘鉄を食らわせた。肺から吐き出された煙草臭い息に顔をしかめながら、レンは足を引っかけて不良を転ばせる。不良たちは一人が倒されたことに呆気に取られていた。獲物と規定した人間からの反撃を予想していなかったのだろう。レンは吹き付けるぬるい風に制服を煽られながら、両ポケットに手を突っ込んだ。

「何見てんだよ、間抜け共。来るなら来いよ」

 片手で手招くも、不良たちは向かってこようとしない。サンドバッグが喋るとは思っていないのだろう。標的には的以上の役割を求めないのが、彼らの性分のはずだ。次の暴力の前に、叫びが発せられた。

「てめぇ! 今更反抗するような立場があると思ってんのか!」

「立場なんかねぇよ。俺は前の学校でも暴力やった。今回も同じだ。教室戻ったって、それは変わらねぇ。だったら、大人しくお前らの玩具やっているよりかは、お前らを玩具にしたほうが面白いって思ったんだよ」

 倒れこんだ不良に歩み寄り、レンはその足で不良の頭を蹴りつけた。昏倒した不良が鼻から血を流す。その顔を仲間たちに向けた瞬間、彼らの顔色が一変した。狩る側は狩られる側になった途端に弱くなる。レンが経験則で知っていることだった。彼らの中にも階級はあるのだ。頭を潰されて生きている生物がほとんどいないように、彼らもまた中枢が消えれば脆い。頭が挿げ変わる、というのは実は稀なのだ。強い力を笠に着て、彼らは威勢よく吼えていたに過ぎない。檻の中だと知ることもなく。

「どうすんだ。やるのか、やらねぇのか。はっきりしろよ。それともボス猿がやられてびびっちまっているのか。ションベン垂れてねぇで、男なら腹ァ括れよ」

 レンが歩み寄る前に、彼らは倒れた不良を連れて、非常階段へと逃げ出した。息をつき、レンは鉄柵にもたれかかる。

「……ああ、終わったな」

 学校に来られるのも今日までだろうという予感に、レンは思わずため息が漏れる。校内暴力となれば一方的に糾弾されるのはレンだろう。不良というものは体制の枠組みの中で吼えているだけで、実のところは体制に守られている。教師陣だって厄介者呼ばわりはしても、心の底では真面目に生きている人間よりも彼らのほうを愛しているのだ。教師の中にも幻想を持っている人間はいる。幻想の対象である彼らを守りたいという、「熱血教師」を演じる自分に酔っている。だから、こういう場合、咎められるのはレンの側なのだ。

「全く、理不尽だよな」

 理不尽は理不尽として戦うような時代ではない。そんなものが流行るわけがない。流行っても、それは物語の中だけの話だ。現実の人々は実直に生きるだけだろう。現にレンだって、そんな得体の知れないものと戦おうという気はなかった。

「でも、これでよかったんだ」

 遅かれ早かれ、こうなることは分かっていた。レンの我慢がなかっただけの話だ。一日目にこうなっていてもおかしくはなかった。元々、学校という空間が合わないのだ。〝体質〟のせいにしなくても、まともに楽しめたためしがない。鉄柵に体重を預け、レンは教師陣が息せき切って走ってくるのを待った。不良の言葉を、どうしてだか彼らは信じる。ドラマでは正しいだろうが、現実では違うということを彼らは知らない。

 しかし、待てど暮らせど、彼らがやってくる気配はなかった。不良たちもこれで終わらせる気はないのかもしれない。報復、なんていう時代遅れのことをやってくる可能性もないわけではない。そのためには面子という奴が重要になってくる。ここで教師に泣きついていては、それこそ不良の名折れだろう。そこまで考えているかは分からないが。

「誇りも、矜持も、あるかどうかは分かんねぇな」

 あったとしても自分には関係がない。せいぜい夜道に気をつけることぐらいができることだろう。

 足元の鞄を手に取り、レンは屋上を後にした。教室を覗いてから帰ろうかと思ったが、そんな気にもなれず、レンは朝方から学校を早引けした。後ろには注意したが、バイクが突然走ってくることもなければ、影がナイフを手に駆け寄ってくる気配もなかった。さすがにバイクやナイフをいなすほどの心得はない。そうされればレンも終わりだったが、その時はその時だという諦観があった。誰でも、どうしようもない時はある。レンは自分の身に大した危機感は抱いていなかった。

「やられる時はやられるもんだ。正義の味方だろうが悪の親玉だろうが、それは変わらねぇし、きっとこれからも未来永劫、変わることもないだろう」

 人類の価値観がどれほど進化しても、そういう根幹で人類は変わらない。変わらないから、争いは絶えないし、時代の流れが読める人間などいつまで経ってもいやしない。

 レンは裏通りへと向かった。この時間帯にはさすがにいないかと思ったが、猫は同じようにそこにいた。猫が顔を向ける。どうやら覚えていてくれたらしい。猫缶を袋から取り出して見せると、猫のほうからレンへと歩み寄ってきた。

 レンは足元に猫缶を置いて、猫を眺めた。胡桃色の毛並みは、今日は汚れていない。誰かが世話をしているのだろうか。それとも自分で何とかしたのだろうか、と考えて、まさかと首を振った。アカリの他にもこの猫のことを知っている人間くらいはいるだろう。頭を撫でながら、「もう、駄目になっちまったよ」と呟いた。

「居場所が完全になくなっちまった。親戚が出してくれている学費もストップするだろうな。もう学校には行けない」

 どこへ行こうというのか。自分でもはかりかね、決めかねている。働こうにも自分に何の価値があるのか分からなかった。今すぐに行動することはできそうにもない。思わずため息を漏らしそうになると、早足で近づいてくる靴音を察知してレンはそちらに目を向けた。不良が報復に来たのだろうか、と思ったのである。しかし、そこにいたのは不良たちではなく、一人の少女だった。

「日下部。どうして……」

 肩を荒立たせて、アカリがそこに立っていた。レンが戸惑いながら立ち上がると、アカリはつかつかと歩み寄り、息も絶え絶えに言葉を発した。

「レン君、が、早退したって、聞いたから……。多分、ここだろうと思って」

「ここだろうって、お前、学校は?」

「レン君が大変な時に大人しく学校にいられないよ。聞かせて、レン君」

 アカリは真っ直ぐにレンの目を見た。その目を直視することができずにレンは顔を伏せた。暴力を振るって自分から居場所を捨てた人間に、アカリの目は眩しすぎた。アカリはそれでもレンから視線を外すことなく、そのまましばらく見つめていたが、やがて息をついて、「そっか」と呟いた。

「話したくないことくらい、あるもんね。わたしだってたくさんあるし、レン君だってきっとそう。大変なら、なおさらだよね」

 話したくないわけではない。ただどう切り出せばいいのか分からなかった。暴力を振るったことをどう取り繕っても、うまく話せる自信がない。そもそも、そんなことをアカリに話して何になるのだろう。アカリに同意を求めたいのだろうか、同情が欲しいのだろうか。きっと、自分はそんなものを必要としていない。アカリには自分のそういった面を知って欲しくなかった。しかし、恐らくはクラス中に知れ渡っているであろう。おしゃべりな教師が話したか、そうでなくても誰かには伝わっているはずだ。アカリがここに来たのも、レンが学校にいられなくなったことを察したからに違いなかった。

「軽蔑するか? 日下部」

 軽蔑されてもいいと思っていた。最低だと思われることでアカリを自分から遠ざけられるのならば。それがアカリのためならば、と。レンは自分のせいで誰かが不幸になるのは見たくなかった。

 しかし、アカリは首を横に振った。

「ううん。逆にわたし、不謹慎かもしれないけれどよかったと思っている」

「よかった?」

 アカリは自身の顔を示した。レンの頬にはまだ絆創膏が貼られている。昨日までの痛みがまだ色濃く残っていた。

「レン君、傷だらけなんだもん。それを見ているのが、一番辛かった。だから、わたしはよかったと思う。レン君が、そういう状況を自分で変えたのって。それって嬉しいし、すごいよ」

 意想外のアカリの言葉はレンの中で妙な感触を伴って響いた。その言葉を繰り返す。

「嬉しいし、すごい、か……」

 そんなことは思いもしなかった。いつでも脱することのできた状況だ。しかし、学校という居場所に固執していたら、もしかしたらズブズブと抜け出せなくなっていたかもしれない。サンドバッグの日々が当たり前になっていたかもしれない。そう考えれば、自分で起こした行動にも正当性まではいかなくとも納得することはできた。傷に指先で触れながら、

「確かに、怪我は痛い」

「でしょ」

 アカリは笑顔を向けた。真っ直ぐな笑顔に、レンは照れ隠しのように屈んで猫の相手をした。そのことを見透かしているように、猫は前足でレンの手を払って鳴いた。猫はまだ半分残っている猫缶を置いて、どこかへと歩き出す。その時になって、レンは猫に尻尾がないことに気づいた。どこかで切ったのだろうか。表に出れば車の往来もある。事故にでも遭ったのかもしれなかった。

「嫌われちゃった?」

「かもしれねぇ」

 レンは立ち上がり、アカリに向き直ろうとした。その時、背後に肌に絡みつく湿っぽい視線を感じた。振り返って、レンは身構える。裏通りの向こうに、何かがいたような気がしたがもう何も見えなかった。この状況でレンの動向を探る人間といえば少ない。不良たちに見られたか。相手は一人か、複数人か。じっとりと汗が滲み、レンは額を拭った。レンの様子がおかしかったからか、アカリが首を傾げて、「レン君?」と尋ねる。

「ああ。何でもない。ちょっとな」

 平静を装いながらレンはアカリに向き返る。もし見られたのならば、自分に報復の矛先が向かない可能性もある。その場合、弱いものを狙うに違いないだろう。レンはアカリへと訊いた。

「日下部。家って、この辺なのか?」

「えっ、うん。十分ほど歩いたところだけど」

「送るよ」

「えっ、悪いよ。それにまだお昼過ぎだし」

「気にすんな。俺もやることがないから。ちょっと話したいこともあるし」

 そう言うと、アカリは渋ったが悪い顔はしなかった。

「じゃあ、お願いします」

 どこかかしこまったアカリと共にレンは歩き出した。自分のせいで誰かを傷つけるわけにはいかない。その念が強かったせいか、ほとんど会話はなく、レンは鋭い眼差しを周囲に向け続けていた。

 アカリの家は木造の二階建てだった。小さくもなく、かといって大きくもない家で、住宅地の中にひっそりとあるような印象だった。記憶の中でアカリの家に抱いていた印象を探すが、それらしいものは思い出せなかった。元々、家では遊ばなかったのかもしれない。レンは別れ際に、アカリに言い含めた。

「コンビニなんかにも夜には出歩くなよ。物騒だからな。とにかく夜には出るな」

 アカリはきょとんとしていたが、レンの目が本気だということが分かると頷いた。レンが踵を返しかけると、アカリはその背に呼び止めた。

「何だ?」

「いや、大したことじゃないんだけど、ね。レン君。学校にはもう来ないの?」

 その言葉はアカリの中では重要なものだったのだろう。言うまでに逡巡があったに違いなかった。レンはどう答えるべきか悩んだが、正直なことを言うことにした。

「ああ、もう行かない。行くとしても、次は退学届けを出しに行くときだろう」

「でも、レン君、何も悪くないんでしょ?」

「俺が悪くないとか、正しいとか喚いたって関係ないさ。問題のある生徒を置きたくないだろ、学校も。日下部も、俺と昔、遊んでいただとかは言わないほうがいい。面倒くさいことになる」

 レンはその言葉を潮に、立ち去ろうとした。その足を、「でも、レン君」と一歩踏み込んだアカリの声が止めた。

「また会えるよね。ミーコの世話、しなきゃいけないし」

 その言葉にどう返せばいいのか、レンには分からなかった。希望的観測を振り翳して、また会えるとでも気の利いたことを言えばよかったのだろう。しかし、レンはそこまで器用ではなかった。自分の中でも整理するだけの時間が必要だった。アカリのことも、学校のことも。どうすることが正しいのか、答えは出ずにレンは黙ってその場から歩み出した。アカリがずっとその背中を見ているのが分かったが、振り返りはしなかった。



 次の日は学校に行かず、そのまま猫の世話をしにいった。それでも習い性で制服を着てしまい、脱ぐのも面倒なのでそのまま街へと向かう。猫缶を買っていると、さすがにこの時間帯は不審に思われるのか、レジの女性が怪訝そうな目を向けていた。レンはその視線から逃げ出すように店内から出て、真っ直ぐに裏通りへと向かう。いつもと同じ場所に、猫はいた。ひょっとすると、ここが猫のテリトリーなのかもしれない。猫は人につくよりも、場所につくという。だとするならば、懐いているわけではなく、ただ単にテリトリーに入って勝手に餌をくれる人間として認識されているのだろう。アカリは来ていない。当然、学校に行っているのだろう。通学路も危険といえたが、レンが常に注意の目を光らせておくわけにもいかない。そちらのほうが周囲から見れば危険に見えるだろう。

レンは猫缶を前に置いてやった。しかし、今日はいつものようにがっついてくることはなかった。じっとレンを見つめている。レンもじっと見つめ返した。その金色の瞳に吸い込まれそうになりながらも、どこか別の光があるような気がした。ただ毎日を生きるのではなく、何かしら目的があるような、本能とは違う部分で生きているような光だ。それを一瞬、強く感じたがすぐに気のせいだと断じた。猫の毛並みは汚れていた。また何かあったのかもしれない。ひょっとすると、飼い主のような人物から暴力を受けているのかもしれなかった。だが、レンにはそれを打開するような行動力も経済力もない。こうして気まぐれに餌をやるくらいしかできないし、仕送りがなくなればそれもできなくなるだろう。

 頭を撫でてやりながら、レンは言った。

「お前らだって大変だろうな。人間だけが大変だと思うのは、確かに違うか」

「そうね」

 不意に差し込んできたのは澄んだ少女の声だった。聞こえた声にレンは振り返る。しかし誰もいない。見回してみるが、人影はなく、それらしい気配もない。レンが息を詰めて気配を探っていると、「ここだよ、ここ」と足元で声がした。視線を向けると、猫が前足で空を掻いていた。レンが目をしばたたくと、猫の口が動き言葉を発した。

「せっかく返事をしてあげたのに、無視は酷いよ。レン君」

 レンはそれを見てから深く息をつき、顔を拭ってから、「疲れてんのか」と呟いた。猫が顔を突き出して、「幻聴じゃないよ」と喚く。

「あたしが喋ってんの。どう? 驚いた?」

「いや。まぁ、驚いたっていや、驚いた」

「……あんまし驚いていないみたいだね」

 猫が頬を膨らませて抗議する。レンはまじまじと猫を見つめながら、「んー、まぁ」と頷いた。

「昔、狐に話しかけられたこともあるからな。動物が喋るのは、俺にとっちゃ珍しくない」

 それでも驚いていないわけではない。昨日まで一言も喋らなかった動物が急に喋りだすことは、心臓にいいものではなかった。

「そっか。別に脅かそうってわけじゃなかったんだけどね」

 軽やかにそう口にする猫を、レンは異形を見つめる眼差しを向けた。

「お前、ただの猫じゃないな」

「ご明察ー」

 猫の背後から二本の尻尾がゆらりと持ち上がった。毛並みと同じ、胡桃色の尻尾がゆらゆらとそれぞれ動いている。レンは呆気に取られたように、口をぽかんと開いた。

「俺にしか見えていないのか? お前」

「いやー、そういうわけじゃないけど。普通の人にも多分、見えてるよ。あたしはレン君とアカリちゃんともう一人からしかご飯もらってないけどね。他の人のは突っぱねることにしているから」

「そういう問題じゃねぇだろ」

 レンは眩暈を感じながら額に手をやって呻いた。悪いものを引き寄せているのかもしれない。その予感を察したように、猫は明るい声で「大丈夫だよー」と言った。

「あたしは猫又。妖怪の一種だけど、悪いものじゃない。それと本当の名前があるんだけど、まぁ、それはこれから来てもらえれば分かる話だから」

 猫は身を翻し、四足でゆっくりと歩き出す。レンは立ち上がり、聞き返した。

「来る? 来るってどこにだよ」

 猫は振り返り、口をゆっくりと動かした。

「君を必要としている人のところにだよ。あたしの後について来て。大丈夫。五分もしないところだから」

 猫は前を向いて歩き出す。レンは夢見心地でその後ろについていった。特別な道を通るわけでもなく、猫にしか通れない道というわけでもない。裏通りを真っ直ぐに進むと、小さな事務所へと辿り着いた。二階建てでしっかりとした鉄筋のビルである。しかし、昨日アカリを送った時には気がつかなかった場所だ。意識しなければ、曇り空の中に溶けていきそうな薄汚れた事務所だった。

 扉の前で、猫が振り返った。

「ここなんだけど、開けてもらえるかな?」

 前足で扉を開ける真似をする。レンは丸い取っ手に手をかけた。瞬間、心臓が一つ大きな脈動を刻んだ。額に走る疼痛に、レンは顔をしかめながら取っ手から手を離してよろめく。ぐらぐらと視界が揺れ、頭を殴打されたように思考が遊離しかける。

「何だ、これ。ここ、やばいぞ」

 何が、という主語を欠いたまま口からついて出た言葉に、猫があっけらかんと応じる。

「あ、分かるんだ。うん。ここ、あまりいい場所じゃないんだよね。元々、鬼門方向だし、お札もいっぱい貼ってあるし。この事務所を建てる前には石のお宮さんがあったらしいんだけど、移転させてお祓いもせずそれっきりで」

「ろくな場所じゃないじゃねぇか」

「でも、ここが適材適所なんだよね。木を隠すには森の中、っていうでしょ」

 猫の言っている意味がいまいち汲み取れず、レンはよろめいた身体を立て直した。もう一度、取っ手に手を伸ばす。猫は二本の尻尾を揺らめかせて待っている。開けさせようとしているのだ。レンは取っ手に触れた。先ほどと同じ感覚が襲い、平衡感覚が麻痺する。視界がぐるぐると転じ、今にも落ちようとする意識の中、感覚だけを頼りにレンは扉を開いた。

 その瞬間、それらから解放されたように一気に気分が戻った。異常な脈動も、額の疼痛も感じない。入った場所は事務所のエントランスだった。といっても、人間一人いればそれだけで狭く感じる廊下があるだけで、受付も何もない。レンは周囲を見回す。廊下を真っ直ぐ行けば奥のほうに扉がある。まだ朝方だというのに、蛍光灯は夜の病院のように暗く沈んだ廊下にぽつりぽつりと点在している。

 入ってすぐのところに階段があり、二階へと続いているようだった。猫は、「開いた、開いた」と言いながら、レンの股の下をくぐって階段へと歩を進めた。レンがその小さな身体を呼び止める。

「お、おい!」

 猫が振り返り、澄ました顔で「何か?」と尋ねる。

「今の何だ。何で入った途端に何ともなくなった?」

「一種の防御装置みたいなものだから。初めて入る人間を拒むようにできているの。だから普通の人はここには気づかないし、見つけたとしても入るのがすごく嫌な感じがして入らない」

「その、すごく嫌な感じがするところに俺を入らせた理由は?」

「それをこれから話すんだってば。二階に行けば嫌でも分かるから、あんまり喋らせないでよ。猫の状態だと疲れるし」

 猫はそう言い置いて階段を一歩ずつ上り始めた。レンは納得できないことが多かったが、猫に続いて二階に行くことがそれを解消することに繋がると思い、その後ろ姿を追った。

 上りきると、そこにまたも扉があった。おっかなびっくりに手を伸ばす。今度は先ほどのような感覚はなく、普通に開いた。猫が部屋の中に飛び込む。レンは扉から恐る恐る顔を出した。大きな執務机が一つあり、机の上には書類がうず高く積み上がっていた。中央に応接用のソファが向かい合って設置され、挟まれる形で小さなテーブルがある。そのソファの上に、寝そべっている人間がいた。身体つきはほっそりとしているが、凹凸がなく、身体も無骨で男性のようだった。顔がちょうど本で隠れている。どうやら寝息を立てているようであった。生きているのか、とレンが声をかけようとする前に、猫がその男に飛び乗り、大声を発した。

「春日さーん! 連れてきたよー!」

 慌ててレンが猫に組み付き、その身体を引き剥がしながら口元に手をやる。

「何すんの、レン君!」

「こっちの台詞だ。人間の前じゃ喋らないんじゃなかったのかよ!」

 レンの手に猫は噛みついた。思わず手を緩めると、猫はするりと拘束から抜け出し、ソファの上の男の傍に駆け寄った。男がゆっくりと身を起こす。顔の上にあった本がずり落ち、その全貌が明らかになった。

 ほっそりとした顔つきで、眼鏡をかけている。刈り上げた黒い短髪を掻きながら、男はボーダーのシャツの首筋から風を取り込みつつ、ぼんやりとした視線をレンに向けた。レンはぽかんとしてその顔を見つめる。見れば見るほど、印象に残りづらい顔立ちだと思った。顔のどのパーツも平均的な個性のために、突出したものがなく覚えづらい。男はレンの姿を数秒間見つめた後、ハッとしたように目を見開いて、周囲を見渡した。猫を見つけると、「ああ、なんだ」と口を開いた。その声も低くもなく高くもなく、中性的で頭に入りづらかった。

「連れて来てくれたんですか」

「何言ってんの。自分がそろそろ連れて来て欲しいって言ったんでしょ」

 その声に男は乾いた笑いを浮かべながら、「手厳しいな」と言った。男は立ち上がり、レンを見下ろした。背丈もレンより高いが、高身長というわけでもない。平均的な身長だろう。

 男は手を差し出して、柔和な声で言った。

「僕は春日トオル。この事務所の主です。君が来てくれるのを待っていました。帷レン君」

 差し出された手にレンは戸惑いながらも、言葉を発した。

「どうして、俺の名を?」

 その質問に、春日と名乗った男はニコリと笑った。

「有名ですよ。この界隈で君の名前は」

 どの界隈なのか、問い質したい気もしたが、レンはこの奇妙な事態を頭に入れることで精一杯だった。差し出された手に警戒していると、春日は手を引っ込めた。

「いきなりじゃ不躾ですかね」

 春日は執務机へと歩き出す。レンは先ほど春日の顔の上に乗っていた本に目を向けた。ドストエフスキーの『罪と罰』だった。それを見て、一体この場所は何なのだ、とレンは不安に駆られた。春日は執務机に寝起きでよろめく身体を近づける。危ない、とレンが思った瞬間、春日の手が執務机に積まれた書類に引っかかった。書類の山がバランスを崩し、レンのほうへと崩落する。猫が「あーあ」と声を漏らす。レンは咄嗟に書類を数枚受け止めていた。その書類に視線を落とす。

 直後、顔が沸騰したように熱くなった。そこに描かれていたのは、男と女が絡み合う様子だったからだ。レンの手から書類を受け取り、春日が「すいません」と頭を下げる。レンは今の一瞬で、春日という男の印象を固めてしまった。先ほどまで霧のように不確かだった春日の全体像が、鏡面を合わせたようにぴっちりと輪郭が分かってくる。

「それがこの人の仕事ってことなの」と猫が知った風な口を利きながら、レンの足元を行き過ぎる。春日は、「参ったな」と後頭部を掻きながら言った。

「これは趣味みたいなものなんですけど。まぁ、趣味と言っても聞こえはよくないでしょうが、本業であって本業じゃないと言いますか。……どう言えばいいかな?」

 春日が猫に尋ねる。執務机に飛び乗った猫はそっぽを向いた。

「知らないって。あたし、これはあんまり好きじゃないから、フォローする気もないし」

 前足で書類を引っ掻く。春日が慌てて書類を書き抱き、自分のほうに引き寄せた。レンは目の前で展開されている物事に対処しきれずに、頭を抱えた。猫と普通に喋っている大人がいて、その大人の趣味はいかがわしい。どうして自分がこんな空間にいるのか、疑問に感じ始めた時、猫が振り返って、「そうそう」と言った。

「あたしのもう一つの姿。見せてあげる。そのほうが話しやすいだろうし」

 猫は二本の尻尾を揺らめかせると、体表から薄く光を放出した。その光が盛り上がっていき、見る見る間に人間の形を作る。光が弾けると、そこにいたのはもはや猫ではなかった。

 少女だった。年のころはレンと同じぐらいに見える。エプロンドレスのような服に、ミニスカートを穿いている。髪の毛は胡桃色のショートボブで、後ろに尻尾のように長い髪を結って垂らしていた。しかし最も奇異なのは頭頂部にある耳だった。猫の耳が髪の毛と一体化してついている。少女は呆然としているレンへと言葉を発した。

「これならさっきよりもまともに話せるでしょ。目線も合わせる必要もないし」

 少女の声は猫の声と同じものだった。編み上げのブーツを履いた足を揺らしながら、執務机に座って少女はレンを見やる。レンは頭がパンクしそうだった。先ほどとは違う種類の疼痛を額に感じる。現実が受け止められない。そもそもこれは現実なのか。夢だと思ったほうがまだマシに思える。

「お前、さっきのミーコなのか? どうして人間の姿に――」

「あたし、その名前嫌いだから、それで呼ばないでもらえるかな。アカリちゃんとか、近所の人が勝手につけた名前だし。あたしにはミャオって言う立派な名前があるんだよ」

 少女――ミャオはそう言ってから欠伸をした。レンは状況が飲み込めずにふらふらと後ずさる。何なのだ、この状況は。自分が何をしたと言うのか。考えが纏らず、叫び出したい気分に駆られたが、狂気に沈む前にレンは正気の言葉を発した。

「お前ら、何なんだ?」

 それが今、精一杯の正気を保てる言葉だった。ミャオと春日は顔を見合わせ、春日が、「これは失礼」と話し始めた。

「色々と込み入った話もあります。どうぞ、そこに腰掛けてください」

 春日がソファに座るように促す。レンは警戒の目を注いだが、春日はニコニコと掴みどころのない笑みを浮かべている。信用はできない。だが、疑う材料も少ない。今は話を聞くことがこの事態を解明する近道だと、レンはソファに腰掛けた。ミャオが急須から湯飲みにお茶を入れて、レンの前と対面に置き、自分の分も入れて飲んだ。「熱っ」と舌を出して、ミャオは目の端に涙を溜める。どうやら猫舌らしい。対面のソファに春日が座り、ミャオは執務机に座っている。

「さて、どこから話しましょうか。レン君は何が気になりますか?」

「まず、どうして俺の名前を知っているんだ。そこから話してもらわないと、何も始まらない」

「この界隈では有名だと言ったでしょう?」

「有名だと。俺は、何も有名になるようなことはしていない」

 そこまで言ってから、もしかすると春日とミャオは前の学校の暴力事件を知っているのかもしれないと思った。教育関係者ならば、なるほど、その界隈だろう。しかし、目の前の二人が教育関係者にはとてもではないが見えない。

「あるでしょう。レン君。君は見えるはずです」

 その言葉が発せられた瞬間、心臓を鷲掴みにされたような感覚に陥った。呼吸が一瞬できなくなり、視界が一瞬暗くなる。どうしてこの男が自分の〝体質〟のことを知っているのか。思わず、どうして、と問いかけそうになったが、寸前で思い留まった。鎌をかけているだけかもしれないと思ったからだ。

「何のことだ?」

 全く思い当たる節がないとでも言うように、湯飲みを口元に運ぶ。あまり熱くはなかった。

「とぼけないでください。ここいらの連中の間では、君が見える人間だということは周知の事実です。何故なら、君は幼少時、ここで過ごしたから。その時に既に見初められていた。その〝体質〟を」

 春日の言葉にレンは湯飲みをそのままに、目の前の得体の知れない男を見つめた。眼鏡の奥の瞳は優しく細められている。全てを見透かしている、とでも言うように。事実、春日の言葉は正鵠を射ている。この街でレンの〝体質〟は発現した。しかし、周知の事実とはどういうことなのか。見初められたというのは、どういう意味なのか。

「あんたが何を言っているのか、俺には分からねぇ」

 それでも、まだ認めるわけにはいかなかった。今まで誰にも言わなかったことを、そう簡単に認めることは今までの生き方を否定するようなものだ。しかし、春日は静かに続けた。

「レン君。僕は他の人間のように君の力を馬鹿にしているわけでも、過小評価しているわけでもない。ありのまま、事実としてそれを認めて欲しい。君のような人間が必要なんです」

「必要? 俺が?」

 レンは湯飲みをテーブルに置いた。必要という言葉になびきそうになるが、それでも一線を保つために、言葉を重ねる。

「あんたの言葉はさっきから要領を得ない。あんた自身は何なんだ? そこを意図的に飛ばしている気がしてならない」

「失礼しました。確かにそれが先でしたね。僕は、君と同じ種類の人間です」

「同じ種類?」

「ええ。簡潔に申しますと、見える体質です」

 レンはその言葉に息を呑んだ。今まで自分と同じ種類の人間には会ったことがなかった。テレビで取り上げられている霊能力者は全てインチキだと分かっていたし、そういう人間が簡単に見えるということを暴露するとは思えなかった。

「信じられないな。何か証拠でもあるのか?」

「証拠、と言われると弱りましたね……」

 春日は後頭部を掻いて周囲を見渡す。どこかに幽霊がいないかと思っているのだろう。レンはこの部屋に入った時にそれは確認した。この事務室にはいない。春日は困惑した様子で、首を巡らせた。証明しようがないからだろう。逆に、いないと言うことが見えている証明になるのだが、それぐらいは誰でも言える。その時、ミャオが助け舟を出した。

「春日さんは本物だよ。あたしが証明する」

 ミャオは湯飲みに息を吹きつけ、必死に冷まそうとしている。

「ありがとうございます、ミャオさん」

「どういたしまして」

 それでもレンは信用できなかった。二人してレンを担いでいる可能性もあるからだ。しかし、ミャオは明らかに人間ではない。奇術の類だとしても見破れないが、こんなに近くで種も仕掛けもない奇術を見せられたことがないために、どうとでも考えられた。そんなレンの様子を見て、春日はため息をついた。

「……信じて、もらえてはいないようですね」

「まぁ、そうだな」

 レンは再び湯飲みに口をつける。春日の後ろでようやくミャオも茶を飲み始めた。春日が一口、口に含んでから頷く。

「お気持ちは分かります。簡単な話じゃない。信じてもらえないとこれから話す内容の説得力がなくなるのですが……。では、僕の独り言だと思って聞いてください。信じる信じないは、レン君の勝手で構いません」

「ああ、分かった」

 春日は幾分か気落ちした様子だった。どうやらこれからの話はレンが春日のことを信じることが前提条件だったらしい。いきなり連れてきて信じろと言うのはさすがに無理があるな、とレンは感じた。

「この事務所は何か、というのをまずお話しましょう。この事務所は妖怪専門の事務所です。主に彼らのトラブルを解決するために存在しています。だから、普通の人間は入れるようになっていません。この場所を察知できるのは、レン君のように見える人間か、妖怪たちだけです。そもそもこの事務所の始まりは――」

「ちょ、ちょっと待ってくれ」

 レンは春日の話を途中で遮って言った。春日が不思議そうに首を傾げる。

「何でしょうか?」

「妖怪を信じろって言うのが、そもそも無理がある」

「見たことないんですか? レン君ほどの力なら、見えるでしょう」

 レンはその言葉に幼少時に見た狐を思い出した。妖怪、なのだろうか。

「この街は妖怪が多いです。他の街にもいますが、際立って多い。それは何故かというと、この事務所のように彼らの意向を無視して作られた建築物が多いからです。居場所をなくした彼らは彷徨い、澱みとなって増えていきます。そのくせ、この街の人間は信仰心が厚い。知っているでしょう。金魚の御神体」

「ああ、街中にあるからな」

「そういう中途半端な心が彼らを増やすんです。妖怪は信じないけれど、神は信じている。ならば逆説的に神が認めているのならば、妖怪も存在するということです。この街の伝承には神と妖怪の話が多い。神がいるのならば妖怪もいる。そういうことなんです」

 春日の話は、何となくだが分かる。神と妖怪の話があったとして、片方を認めるのならばもう片方も認めざるを得ないということだろう。片方を信じないのならば、もう片方も信じられないことになる。

「どうしてそんなことを?」

 春日が自分にそんな話をする意図が分からない。春日は、「そこでこの事務所なんです」と言った。

「この事務所はいわば、妖怪たちの駆け込み寺です。彼らのトラブルを彼らに適した方法で解決する。彼ら専用の何でも屋みたいなものでしょうか。これからする話も、彼らに関わってきます」

「その話とやらを聞かないと、俺にはどうしようもない」

 春日はその言葉に頷き、神妙な口調で語り始めた。

「今回の相手は、その、何といいますか神様なんです」

「神様?」

 思わず聞き返すと、春日は真面目な表情で頷いた。

「この街の神様は、ご存知ですよね」

「金魚、か」

「そうです。正確に言えば金魚というよりかは、氾濫した河の神がデフォルメされていくうちに金魚に落ち着いたのですが、その経緯は今はいいでしょう。その神様と、ある人間が取引した、という話を耳にしました」

「取引? 神様と取引なんてできるのか?」

 レンの疑問に、春日はすかさず「できます」と応じた。

「それ相応の要求はされますが、普通の人が思っている以上に神様というのは気まぐれで、意外と小さなことを対価にしても要求を呑んでくれます。ただし、小さなことと言っても後々大きく影響してくることなのですが、それは人間にははかり得ません。しかし、限定的な願いならば叶えてくれます。この街はそうでなくと信仰心が強い。信仰心の強い神は実体化します。実体化するということは現実に影響力を持つということです」

「あたしみたいなのは、実体化した妖怪だけどね」

 ミャオが口を挟む。レンは「なら」と言葉を返した。

「神様を実体化させてどうしようっていうんだ?」

 レンの疑問に春日は首を横に振った。

「分かりません。ただあまり好ましいことではないようです。神様の力を使って、ある人間が悪さをしようとしている、としか伝え聞いていませんから。分からないことだらけですが、一つだけ分かっていることがあります」

 春日は指を一本立てた。レンはいつの間にか話に聞き入っていたのか、前傾姿勢になっていた。

「何だ? 分かっていることって」

「それをお聞かせする前に、条件としてレン君には協力していただきたい」

「協力?」

「今回は僕の力じゃ及ばないかもしれない。でも、レン君ならばできる可能性があるんです。それだけ今回は特殊なケースなんです」

「つまり、俺に妖怪の手助けをしろと」

「平たく言えばそうです。この事務所の一員として、僕はレン君をスカウトしたいというわけです」

 春日の言葉に、レンは身を引いて湯飲みをテーブルに置いた。半分ほど飲んで残しておいた。注ぎに来ようとするミャオを、「今はいい」と手で制して、レンはテーブルに視線を落としていた。春日の話を信じる信じないの前にはっきりさせておくべきことがある。レンは顔を上げて、口を開いた。

「春日さん、と言ったか。その提案だが、考えるまでもなく論外だ」

 レンの言葉に春日は、「どうして」と尋ねる。レンは春日を見据えて言った。

「えらく買ってくれてるようだが、俺にはそんな力はない。妖怪なんて見たことねぇし、あんたらが俺を担いでいる可能性は捨て切れない」

「あたしが変化するところを見たじゃない。猫の状態で喋るのも」

 ミャオが割って入るが、レンは首を横に振った。

「どうせトリックだ。スピーカーでも使っていたんだろ。それかここに入った時点で俺に幻覚でも見せるような仕掛けをしていたか。そういえばここに入る時に気分が悪くなった。あれが催眠の開始だったんじゃないか?」

 春日とミャオは何も言わない。そのせいかレンの口調は徐々に攻撃的になっていった。

「あんたらが言っていること、全て証明のしようのないことだ。凝った舞台装置まで使わせておいてなんだが、俺はあんたらの話を信じる気分にはなれねぇ。どうせ、面白がっているだけだ。みんな、勝手だよ」

 レンは立ち上がった。もう話すことはない。その意思表示のように踵を返し、事務室の扉へと向かう。その背中へとミャオの声がかかった。

「アカリちゃんはどうするの?」

 その声にレンの足が止まった。しかし、振り返らない。

「アカリちゃんも、今回は危ないかもしれないんだよ。それでもレン君は平気なの?」

 その言葉にレンは振り返った。ミャオは顔を明るくしたが、レンは吐き捨てるように言い放った。

「苦しくなると他人のことを引き合いに出すのかよ。日下部は関係ねぇし、それで脅そうとしているんならお門違いだ」

 ミャオは思いのほか強い口調のレンに気圧されるように後ずさった。

「……そんな。そんなつもりじゃ」

「じゃあ、どういうつもりなんだよ!」

 思わず声を荒らげる。ミャオが肩をびくりと震わせる。どうして自分でもこんなに怒りがこみ上げてくるのか分からなかった。アカリのことを引き合いに出されたことがそんなに気に入らないのか。自分でも説明不能な胸中に、レンは踏ん切りをつけるように言葉を発した。

「お前らと関わるのはゴメンだ」

 身を翻そうとした、その時、「レン君」と春日が呼んだ。顔だけ振り向けると、春日が何かを投げてきた。咄嗟に受け止める。手の中にあったのは黒い数珠だった。金色の文様が螺旋のように刻み込まれている。

「それはお守りです。常に持っていてください」

「……いらねぇ」

「協力していただかなくても、もうレン君は当事者です。ターゲットにされている可能性がある」

 春日の言葉に何か引っかかるものを感じながらも、レンはそれ以上追及しようとはしなかった。踏み込むには協力すると言わなければならない。レンは扉を引いて、事務室を後にした。乾いた扉の音が、取り付く島のないように虚しく響いた。



 部屋に帰ると西垣が隣の部屋の扉を開けて顔を出した。「よう」と西垣が挨拶するので、レンは「どうも」と会釈した。

「どうしたんだ? 元気ないな」

 レンは心の内を見透かされたような気がしてどきりとしながら、努めて平静に応じる。

「そうか。変わらないよ」

「ならいいんだが。なんだか、妙な噂を聞いてな。西高の話なんだが、そこの生徒が暴力沙汰を起こしたらしい。肝心の生徒が今日来ていないから、教員連中も対処を決めかねているという話なんだが」

 レンは内心の動揺を表層にも出さず、澄ました顔で「そう、か」と返事をした。

「そんなことがあったのか」

「帷、西高だろ。なんか聞いてんじゃないかなと思ったんだけど、知らないか?」

「そういや、教員が慌しくしていたな。そういうのにはてんで縁がないから」

 嘘八百が口からついて出る。自分がその当事者だとはどうしても言えなかった。西垣はその言葉を聞いてどこか気抜けしたように、「だよなぁ」と言った。

「言っちゃ悪いけど、お前、そういうのとは無縁そうだもんな。優しい顔してるし」

「俺が、優しい?」

 思わず聞き返すと、西垣は恥ずかしげもなく頷いた。

「おう。お前は優しい男だ。目を見りゃ分かる。これでも俺はそういう部分の目利きは冴えているんだ」

「そうか?」

 西垣は怪我をした直後のレンの顔も見ているはずなのに、それが暴力によるものだとは思いもしなかったのだろうか。剣道部の話をしたので、もしかしたらその関係だと思っているのかもしれない。どちらにせよ、気楽な奴だと思った。

「そういやコスプレ同好会はどうなった?」

「ああ。おかげで次のイベントの準備は万全だ」

 西垣がいい笑顔でサムズアップを寄越す。レンは苦笑を漏らした。どうにも西垣という人物が掴みづらい。裏表のない人間かと思えば、こうして読めない一面もある。人間なんてみんなそんなものか、とレンは結論付けることにした。

「じゃあ、おやすみ、帷。暴力事件のほう、進展があったら教えろよ。違う高校とはいえ、お前が行っているんだ。気になるからな」

「ああ。分かったよ、おやすみ」

 扉が閉まった後、レンは息をついた。きっと根はいい奴なのだろう。越してきたばかりの人間にここまでよくするなんて相当だと思った。

「お人よし、って奴か」

レンは鍵を開けて、部屋に入り、まずは風呂に入った。湯船にお湯を満たしながら、レンはポケットから数珠を取り出す。春日が投げた、「お守り」と言う数珠には細やかな螺旋の装飾があり、よくよく見ると文字のように見えた。照明に翳すと、星屑を塗したようにきらきらと輝いている。レンはそれが何なのか分からなかったが、常に持っていろと言われた手前、どうすべきか判じかねていた。ためしに右手首に巻いてみる。すると、思いのほかよく馴染んだ。つけているのも悪くない、とレンは思った。どうせただの数珠だ。今まで星の数ほど嫌なものを見てきたが、それを遠ざけるだけの力などあるはずがない。きっと、要は気の持ちようだということを言いたかったのだろう。生憎、レンは今までこういった類は試してきたが、どれも成果を上げては来なかった。

「今回も、同じだろうな。何も変わらない」

 レンはお湯を止めてから、台所に向かった。冷蔵庫を開けると、ミネラルウォーターと小分けにした野菜しか入っていなかった。これでは腹を満たせない。一日くらい食べなくとも何ということはなかったが、今日は色々とあって食べて忘れたい気分だった。

「買出しに行くか」

 レンは照明を消して部屋から出た。制服のままだったが、コンビニまでは十分ほど歩けばいい。夜とはいえ、暦の上では初夏だ。少し粘っこい空気がぬるく吹いている。車が粘性を伴った風を纏って、すぐ横を通り過ぎる。思えば、中途半端な季節に転校したものだ。不良に目をつけられるのも、当然と言えば当然かもしれなかった。

レンはコンビニで軽く惣菜を買った。米は確かまだあったはずなので買わなくてもいい。帰り際、レンは派手な重低音が夜風に混じって静寂を掻き鳴らしたのを聞いた。そちらへと視線を向けると、一筋の光の帯が闇を貫いて、こちらへと向かってきていた。バイクの光だ、と感じてレンはその場で立ち止まった。光と音はコンビニの前で停まり、聞き覚えのある声が一団の中から聞こえてきた。レンがのした不良たちの声だ。報復に来たのか、とレンは身構えるが、どうやら彼らはコンビニにたむろしに来ただけらしい。二人ほどがコンビニの前で待ち、蛍火を灯している。もう二人はコンビニへと入って行った。標的にされていないのだったら、こちらからわざわざ飛び込むこともない。レンはそのまま家路につくことにした。部屋に帰った時、どこからともなく鈴の音が聞こえた。誰かが早めの風鈴でも鳴らしているのだろうか、とレンは思いながら、惣菜を開けているとやがて鈴の音はやんだ。

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