黄色 雑草 最後の城 (悲恋)


   干涸びた城



 灼熱と渇ききった砂だけが主だった。


 延々と続く砂は近くで見れば平坦だが、離れてみればみるほど徐々に盛り上がりを見せていき、やがては下りになって、また昇り……。遠くには何も見えず、近くにはただが砂が舞うばかりであった。生命はすでに滅び、骨は砂に埋もれるか、ただ砂と一緒くたになって風と共に小さな旅をするだけだった。今いた砂丘から次の砂丘へと移り、運が悪ければ風の当たらない下り坂に落ちる。だが、それでも砂の一生はそこで続いていく。ただただ無意味に。


 ここがかつては緑に溢れていたと誰が信じるだろう。今よりももっと古い時代のことだ。緑の中に豊かな作物と美しい小川があった。小川は支流ではなく本流でそこからさらに細い用水路が作物に隅々まで水を行き渡らせ、かつ水の流れは穏やかで透き通り太陽の光を流れに任せて反射するその水はそのまま飲むこともできた。


 小川はやがて農作地を過ぎると二手に分かれる。誰が分けたかと見上げてみれば、鈍く光る黄金の蠍が小川を二つに割いていた。城門はこの国の守護者、蠍を象ったエンブレムが取り付けられ、人の背丈を優に越え、また天窓の付いた高い家ですらも通り抜けられるほど門そのものも大きかった。門の開閉は城壁の上にいる体格の良い男二人が受け持っていた。この門を手回しで開けようというのだ。むしろ、それ以外にこの門を開くことは何人も敵わないほど強固だった。だが、この屈強な男二人で巻き上げられるほど効率化された仕組みがあるのも確かだった。また城壁はここからほど近い断崖から採取された凝灰岩を使っていた。赤みがかった多孔質の岩石は加工がしやすく、重量もそこまで人手を必要とはしなかった。二手に分かれた小川は赤い城壁を辿って深さを増し、透明な清水はあるところから波打ち、泡の立つ荒々しい流れへと変動し、最後には広い広い海原へと旅に出る。


 スラッグは海を有し、温暖な天候と豊かな土壌を持つ美しい国だった。あの重たい城門を一度潜ってしまえばそこに広がるのは終わることのない宴、もちろん酒を煽り、罵声が飛び交う海賊達の宴ではなく、人々が朝は踊って食事を取り、隣人を兄弟の様に深く愛し、昼には酒を、語らいは尽きることがなく、夜には深々と鼾をかきあった。王は節制を愛し、悪事を許しはせず、領民を想って政治をした。スラッグはかつてない栄光の中にあったのだ。平和が人々の信仰となり、皆が今溢れる自然を愛していた。人生についての語らいはより多くの知識を増やした。英知を以って人々は欲望を抑えられた。他人は他人を愛し、他人に愛された。


 だが、それももう過去の話となり、やがて戦乱の世が始まった。戦いは何処をも巻き込んだ。スラッグでさえも。小国は小国同士の対決を良しとするも、大国にはその志を折られる要素となった。戦乱は小国を一つに纏め上げようとしていたのだ。だから統一され、もっと洗練された帝国が誕生するその時までこの戦いは終わらず、延々と続く。だから海に面し、資源豊富であるこの国は戦争を続ける国にとって絶好の獲物だった。兵を養う作物、海産物を補充でき、さらに大陸の外へと繰り出せる。人の卑しい魔の手がスラッグに届こうとしていた。


「剣の振り方も碌に知らないのに戦えるわけないよ」


 城壁の外、少し離れた場所に小さな村があった。夜を照らせないほど灯りの乏しい街だったが、その分人々は明るい声をたくさん振りまいていた。そんな中にあって、彼女、シレスクの声は良く響いた。


 まだ二十にもならない娘は、だが、もう立派に成人になっていた。落ち着いた物腰でズタ袋を引き下げる青年、ジライヤにそう詰め寄った。ジライヤは面倒な物を見たと言わんばかりにかぶりを振って答えた。


「みんな行くって言ってるんだ。僕も行かなきゃ」


 スラッグは、この時はそうと言えないまでも緊張の中にあった。地元で兵隊を徴収し始めたのだ。大国であるバルデアランがスラッグに使者を送りつけた。内容は協定の締結だった。戦争前に良くある類の。無理な条件を突きつけ、戦争の口実を作るのである。その条件は自分達に土地の半分の割譲せよという、あまりにも身勝手な内容であった。


そして、王は使者を追い払った。


「取っ組み合いで私に勝ったことあるの?」


 シレスクは暗がりの中でまた聞いた。だが、その口調は緊張感を欠いていた。


「いつの話だい? もう僕の方が体は大きいんだ。やらなくても僕が勝つよ」


「ただの農家の息子じゃない。鍬でも持って戦うの?」


「違うよ。剣だ。鋭い刃。重たい鎧。チュニックでもなんでも着てやるんだよ」


「お化粧もするの?」


「しないよ」ジライヤは笑いながら言うと「白粉くらいは塗るかもね」と付け加

えた。若い二人のくだらない言い合いだった。二人は松明一本の灯りの中で笑いあった。だが、長い笑いは段々と尻すぼみに小さくなって、やがて二人の間に静寂が訪れた。シレスクは顔を下に俯け、モゴモゴと何かを言いたげにしている。その内、おずおずと口を開こうとした時、ジライヤが先に動いた。


「これを上げる」言って、彼女の前に握った拳を手の平を上にして突き出した。ゆっくりと手を開き、その中にある物を見せる。「家の前に咲いてたんだ。ほら、昔キャベツ畑の近くに咲いてただろう?」


「……あれは食べられる花。タンポポじゃない」


 それはたった一本のタンポポだった。何処にでもある雑草で、特別な価値などない。ただのタンポポだ。貰わなくても明日にでも道端に生えていることだろう。きっと暗いから見えないだけで、足元にも生えているかもしれない。だがシレスクは文句を言いつつもしっかりとその一本を受け取った。


 ジライヤは「そうだっけ?」とおどけてみせた後、「大丈夫。僕は生き残る。そしてスラッグはきっと勝つ」意気込みの様に言って、ジライヤはズタ袋を片手にシレスクに背を向けた。だがその途中で立ち止まり、顔だけ振り向いて、


「またね」


 そう言って城門の方へと歩いていった。シレスクは彼を笑って見送っていた。戦争なんて遠くの出来事だと思っていた。彼女もジライヤもである。伝聞でしか伝わらず、もう何年も、スレスク達は一度も戦争なんて経験したことはなかった。シレスクは徴兵を難しい御使いと考えていたのだ。しかし、心の中に戦争という漠然とした言葉が小さいが硬いシコリを残していた。彼女は早くも白み始めた海を見て、その広々とした世界が朝日に輝く姿を、また大きな火の玉が海の色を変えていく様を見てゾクッと背筋を震わせた。


「ここはもう駄目だ」


 スラッグの蠍は破られようとしていた。


「逃げましょう? 船があるから。一緒に逃げましょう」


 すでに城壁の外は火が回っていてそこら中から黒い煙が立ち込めていた。敵はやはり正義の名の下に戦争を始めた。スラッグはよく戦い、大軍相手に一進一退を続けてきた。だが、国境の戦いに敗れ、スラッグ軍は城まで撤退。シレスク達、外の住民も城へと避難した。すると堅固なスラッグを攻撃するため、敵はまず農作地を焼き払った。


「駄目だ。君だけ逃げて欲しい。それを伝えに来た」


 豊かな土壌はまだ健在ではあるが、収穫を逃した作物達、また捕まった家畜は敵の腹の中へと収まった。緑の大地は炎によって黒く煤け、それから敵は城を取り囲んだ。海を除いて。


「何言ってるの? もう駄目なら早く逃げなきゃ」


 スラッグ城は前方を防衛のため強固にし、後ろはまんま港として使っていた。この近辺に別の港は存在せず、このまま安全に海へと航海、逃亡が可能となる。


「駄目だ。僕は兵士だ。この国を言葉もわからないやつらになんか好きにさせない」


 だが、もう何隻も船は出てしまい、残るはたった一つの貨物運搬船だった。この国で一番巨大で一番遅い船。出航には時間稼ぎが必要だった。


「あなたは農家の息子でしょう? あなたのお父さんは戦場で死んだの? 剣なんか今まで持ったこともないのに! 誰かを殺したことなんかないでしょう!」


 シレスクはジライヤと一緒に居たかった。戦争が始まってからやっと彼に会えたのだ。感情はもう爆発していた。シレスクは村で次々と誰かの息子が戦死したと聞く度、大きく唾を飲み込んで、それから誰が死んだのかを聞いた。そして、ジライヤではないとわかるとそうとは悟られない様に安堵していた。安心していたのだ。水を入れた小さな花瓶に一本のタンポポを差して。


「もう殺した! それに農家の息子だった友達はみんな死んだ! みんなだ! ロークも! リピも! 僕と全く同じ、農家の息子がだ!」


 だが、ジライヤはシレスクとは違っていた。戦争が長くなるほど死にたがっていたのだ。友を失い、負けて逃げる。自分だけが生き残ってまた負ける戦いをする。それがどんなに悔しく、どんなに辛いことなのか。殺し合っていないシレスクにわかるはずがない。ジライヤも暴発していたのだ。


「……」


 それから気が付いた。残っている友、それよりも大事なシレスクがたった今怯えた目をしていることを。虹彩が揺れ、瞼が小さく痙攣していた。


 ジライヤは一息、吸って、吐いた。それから陽気な青年の顔を無理やり作り上げて、ありもしないことを言った。


「大丈夫。まだ勝てるんだ」


「……嘘」シレスクは殆んど反射的に答えていた。


「本当さ。イラハリ王が言ってたんだ。まだ起死回生の一発があるって。奴らはこの国を欲しいとは思わなくなるって」


 ジライヤは嘘を言わなかった。だが、シレスクはそれも嘘だと分かっていた。彼女はもう分かっていたのだ。口だけが彼に調子を合わせた。


「本当なの?」


「本当さ。でも君は、君達は念の為にここを離れて欲しいんだ」


 そのための船だ。彼はシレスクの後ろに聳え立つ巨大な帆船を指差した。シレスクは小さく「わかった」と言った。船が出航準備を告げる鐘を三回鳴らし出した。もうそろそろ、という合図だった。彼女が一度船を確認し、もう一度ジライヤの方を振り返るともう彼の背中しか見ることはできず、もう何かを言う事もできなかった。


 シレスクは一本のタンポポを握り締め、血が出るほど唇を噛んでから船に乗り込んだ。船の中はありえないほどの人混みで、動くこともままならないほどだった。すでに船倉はいっぱいいっぱいで甲板さえも同じ状況にあった。だから船員達の殆んどは甲板の少し上、綱を掴んで甲板上に落ちない様に注意していた。また甲板上で作業しなければいけない船員達は空の樽を自分の周りに置いて作業スペースを確保していた。


 シレスクはその人混みを、無理やり抜けていった。城が一番見える場所。この船の一番後方だ。如何にか着いてみると、思ったよりも巨大で重い帆船が速く進めることが分かった。既にもう港が小さくなり始めていたのだ。シレスクは願った。たった一本のタンポポに。


 その時だった。


 城は何の前触れもなく巨大な火の玉に包まれた。シレスクは思わず目を瞑り、それでも眩しいのか顔を両手で覆った。光は何の音もしなかった。発生した音、そのまま光り続ける音。何もなかった。やがて、光が収まるのを感じ、シレスクは城をもう一度見た。そして驚愕した。立ち込める黒煙はそのままだった。港もそのままで、ただ城と、その周りまでもが圧倒的に変わっていた。赤い城壁が白く輝いていた。緑がまだ残っていた赤い街は真っ白に変わっていた。


 城は巨大な光と共にその色を失ったのだった。だが、不思議なことに争いも失われた。シレスクは遠い海原からそれを見ていた。耳を澄ませていた。船が波に揺れ軋む音がする。海風が吹き抜ける威勢の良い音がする。それ以外は何も聞こえなかった。いや、聞こえなくなったのだ。船には女子供が数百人いた。彼女らが口々に言うのは不安と恐怖だけだった。不穏の音頭が止めどなく垂れ流れ、気が付けばそれは狂気にも似た叫びに近かくなっていたはずだ。それが、あの光の後、全く掻き消えてしまった。船員達は吹き抜ける風を感じて帆を動かし続けなければいけない。だから常に掛け声を絶やさず、船上は活気に満ちているはずだった。


 だが、今では誰も声を上げてはいなかった。


 そして、その中でも聞こえていた戦いの激しい音頭、怨恨や断末魔が時折、風に乗って船にまで届いていたはずだった。それは船にいた彼女らの不安を煽り、断末魔に恐怖の叫びを返していた。だが、全くもって何の音もしなかった。


 シレスクは願った。この後に聞こえる言葉が自分達の言葉であることを。たった一本の、ジライヤがくれたたった一本のタンポポに。目を瞑り、茎を強く握り締めてまで願った。


 だが、聞こえたのは自分達の言葉とは程遠かった。


「ボラー! ボラー! ボラー!」


 彼女ら、シレスクも、その言葉に驚いた。知らない言葉は幾度となく連呼され、海を渡って響いてくる。その中に知っている言葉は一つも聞き取れず、船にはどよめきだけが広がっていった。誰もその言葉の意味を知らない。誰かが言った。そうだ。彼らは口々に降参を叫んでいるのではないだろうか。だが、反論は早かった。敗残兵が一斉に口を揃えて降参を叫ぶものか。また誰かが言った。では、休戦、協定を結ぼうという印ではないのか。これにも早い反論があった。ただ簡潔に。休戦の狼煙は上がっていない。誰かが事態を好意的に捉えようと奮闘していたが、誰もそれを肯定しようとはしなかった。


 シレスクは心の奥からある言葉が這い出てこようとするのを如何にかうち鎮めようと必死だった。船上では誰もが皆そうだったのだ。彼らを包もうとする悪夢からさっさと這い出たかった。だが、誰もがこうも思っていた。さっさと認めてしまいたい。悪夢に包まれ、いっそ苛まれてしまえば良いのだ。自棄と理性の狭間にあった。


 そこで、彼らにまた、大きな試練が降ることとなる。


 船員の一人がマストの上から落ちてきたのだ。落下する人体に数人の老女が当たり、周りの数人も一斉にその場から後ずさった。そして、落ちてきた彼をよく見た。まだ二十代ほどで若い彼の喉には黒い羽根の付いた矢が一本刺さっていた。


 誰もが第二の敵との戦いを強いられることとなったのだ。自暴、である。すでに自棄へと落ちた人間もいたが、自暴へと転ずる人間の方が圧倒的に多かった。絶叫が合図となって人々は走り回り船倉へと降りようと階段へと人が詰め寄り、あっというまに人々は統制の取れない羊の群れへと変わった。最早階段まで辿り着けないと知って座り込み、自棄に転ずるもの、ただ恐慌の渦から抜け出せず甲板をただただ走り回るもの。海に飛び込むものさえいた。


 シレスクはそのどれとも違った、いやある意味彼らと同じだった。その場を動かず、ただ一本のタンポポと向き合った。去来する絶望の象徴にも思えた。だが、彼女にとってそのタンポポは違ったのだ。


 叫びや恐れなどどうでも良かったのかもしれない。自暴自棄に曝され、戦えない者達がそのまま戦いをせず、暴れる羊になることなどどうでも良かった。彼女は羊じゃ無かった。だが、彼女はその羊の柵の中にいることを忘れるべきでは無かった。


「ギャ」


 羊の一匹が彼女を押し倒し、シレスクはそのまま横倒しになった。不測の事態に体は反射的に行動する。床に手を着き、全身への痛みを和らげようとする。彼女もそうした。一本のタンポポを犠牲にして。


 彼女はすぐに気が付いた。自分の手からジライヤが消えたこと。周りを見渡しても羊達が居場所を無くして暴れていることしかわからず、自分の足元にあるわけでもない。この時、初めて彼女の唇は震えた。


 そして、もう一度倒れた。違う羊が彼女を蹴ったのだ。きっと無自覚だったことだろう。本能で逃げる動物には周りが見えていなくても構わない。逃げられれば良いのだ。シレスクは頭を強く蹴られたことで軽い脳震盪を起こしていた。もう正常な思考は叶わず、鼻の頭が痛くなった。鼻の下を拭うと、血がベットリと付いている。彼女の目に涙が浮かんだ。


 恐怖や絶望では無かった。彼女は這って、踏みつけられ蹴られながら、文字通り血眼になってあるものを探し始めた。震える口が微かに動き、それの名を呼んだ。


「ジライヤ」


 感情のままの声だった。彼女は今危機にさらされている。誰かが助けなければこのまま敵ではない人々によって踏み殺されることだろう。しかし、彼女にとってはそれよりも一本のタンポポだった。


「ジライヤ!」


 感情のまま、強く叫んだ。彼女は今危機にさらされている。誰かが助けなければこのまま敵ではない人々によって踏み殺されることだろう。しかし、彼女にとってはそれよりも彼だった。


「ジライヤ!」



 シレスクは叫び続けたが、誰かがその声に応えることも、一本のタンポポが再び見つかることも無かった。

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