社会的に抹殺するぞ、こら

 今日こそは。

 それが結の今の気持ちであった。


 何度もプロポーズのチャンスはあった。だが己の臆病さゆえに機会を逃していた。


 今夜こそ、照子に本職を明かして結婚を申し出る。結は人知れずぐっと拳を握った。


 彼が告白の場所に選んだのは、大阪のキタにあるイタリアンレストランだ。下調べはきちんとしてある。店の雰囲気は照明を少し落として、落ち着いたもので、なにより他の客のテーブルとの距離がゆったりと取ってあって、小声で話せば周りに会話が知られることはない。


 盗聴器などでも仕掛けられない限りは、と考えて、職業病だと結は苦笑した。


 車ではとても混み合う道路を通らねばならないということで電車を利用する。


 今日はイタリアンレストランのディナーに行こう、と事前に伝えてあったので、照子の服装はいつものラフなものではなく、小さなフリルが綺麗な薄緑色のワンピースだ。とても素敵だと結は思う。プロポーズの夜にぴったりだ。


 照子と手をつないで駅を出、店まで歩く間、結はとても緊張していた。

 しかし普段からあまり先陣を切って話さない性格が幸いしたのか、照子が結の緊張を見抜くことはなかった。いつものように照子が日頃の出来事を楽しそうに話し、結はそれに相槌をうってコメントする。


「あ、ここだよ」


 地下街へと続く階段を降りてすぐ、結が人生の転機にと選んだ店の入り口があった。両サイドには、ろう細工とは思えないほどおいしそうなスパゲティなどを陳列したショーケースや、本日のおすすめを書き記したボードがお洒落に並べられている。


「よさそうな店だね」


 店構えをざっと見た照子が笑みを浮かべる。彼女が店を一目見てこう言う時は、大抵料理にも満足する。幸先のよい雰囲気に結も口元を緩めた。


 二人が案内されたのは店の奥の方の席だった。周りの席にはまだ誰もいない。これなら落ち着いて食事をしてプロポーズの雰囲気を作り出すことが出来そうだ。


 ウェイターが注文を取りに来る。ペアコースという、二人で分けて食べるコースを注文した。


「北海道フェア、だって。北海道はおいしい食べ物がたくさんあるよね」


 照子がメニューから結に視線を投げかけてくる。

 どうやら今、店全体のメニューが北海道の名産品を使ったものになっているようだ。


 照子は一度だけ行った北海道の話を始める。

 その間に、帆立貝のバター焼きとホワイトコーンのポタージュが運ばれてきた。

 香ばしく焼かれた帆立と、コーンの香りが混ざり合って、ふわりと柔らかな温かさで食欲をそそる。


 結が味わって食べる間に照子は食べ終わった。


「おいしいね。……あ、帆立と言えば、その北海道旅行の時にね」


 照子の話は尽きない。まるでほどよいリズムで奏でられる音楽を聴きながら食事をしているようで、結はとても心地よい気分に浸る。


 その間にも次の品が運ばれてくる。男爵芋のソテーとサーモンのカルパッチョだ。サーモンの滑らかな舌触りと、かりかりに焼きあがった芋の食感が対照的な一品である。

 サーモンで芋とレタスを包み込み口に運んだ。オリーブオイルとバルサミコの香りが鼻腔をくすぐる。


「そう言えば、わたし子供の頃、レタスとセロリとパセリの区別がつかなかったんだよ」


 照子が笑う。とても朗らかな顔で。


「判る気がする。なんとなく似てるよ。子供が好まない味、なんてところとか」

「そうそう。子供の頃は偏食でね。野菜は嫌いなのが多かったよ」


 意外だなと結は思う。デート中に彼女が食べ物を嫌いだからという理由で残したのは見たことがないから。


 照子もサーモンと芋を口に運ぶと、とてもおいしそうに食べる。


「食べられるようになったから、今度は作る練習をしなさいってお母さんに言われたよ。ごもっともで」


 えへっ、と照子が肩をすくめる。


 作る練習。それは、結婚の話に持っていきやすい。

 結は心持ち身を乗り出して、「それは誰のために?」と聞きかけた。


 だが。


 ぱこーん、と軽快な音でも鳴りそうな勢いで、何かが後頭部にぶつかった。


「んぁ?」


 思わず間抜けな声が結の口から漏れた。


「あっ、ごめんなさーい」


 振り仰ぐと、二十代前半ほどだろうか、若い女性がいかにも軽薄そうな笑みを浮かべて軽く頭を下げている。彼女の肩から下がったバッグが結の頭の位置にある。これが当たったのだろう。隣には、これまた彼女に釣り合いそうな、へらへらした男がだらしない姿勢で立っていた。


「……いえ」


 思わずいつもより無愛想に応えると、彼らは案内されたテーブルに歩いていった。


「あの人、なんかすっごい睨んでたよ」

「カバンがちょっと当たっただけなのにな。心狭いよな」


 コソコソと小声で話しているつもりだろうが、丸聞こえだ。二人とも地声が大きいのを自覚していないらしい。それともわざと聞かせているつもりか。


 このバカップルが、と結は眉を潜めた。


「えっと、何の話だっけ?」


 照子が苦笑交じりの笑みを浮かべている。


 ここで照子にまで心が狭いと思われては困る。結は気を取り直して照子に向き直った。


 そのタイミングで、次の料理が運ばれてくる。

 カニとキノコをふんだんに使った、トマトソースのスパゲティだ。トマトソースがほんのりとすっぱいがカニの香りがうまく調和して嫌味ではなく、生パスタの噛み応えが心地よい。


 二人はしばらく会話を中断して、食事に専念した。

 パスタがなくなりかけた頃に、結は先程の照子の言葉に応えた。


「さっきは、料理を作れるようにならないとね、とお母さんに言われたって話だったな」

「そうそう、料理の話だったね。結はパスタの中だったら何が好き?」


 照子が尋ねてくる。


「んー」口に入れたパスタを味わってから嚥下し、結は首をひねった。「カルボナーラ、かな」

「カルボナーラか……」


 照子は考え込むように、うーんと息をついた。


「あれは結構手間だけど、今度作ってみようかな」

「それは、俺のために?」

「他の誰のために作ってほしいの?」


 切り替えされて結は空笑い。


「結以外の男の人に作ったら、やきもちやく?」


 心の中を読んで、なおかつ試してくるような照子の質問に、結は口ごもった。


「そ、そりゃ……」


 その時、次の料理が運ばれてきて結は言葉を切った。


「おまたせいたしました。牛モモ肉のタリアータです」


 いぶし銀の雰囲気をかもし出すウェイターがメインディッシュを運んできた。まだ湯気が立つ料理からはワインを使ったであろう、とてもおいしそうなソースな香りがする。


「盛り方も綺麗だよね」照子が満足そうに笑みを浮かべている。「わたしはダメだわ。ついつい雑になっちゃう」

「おいしければいいじゃないか」

「そうだねー。家庭料理はそれでいいよね」


 家庭料理。

 これはチャンスだと結は思った。今こそ、結婚の話を切り出そうと軽く息を吸った。


「あ~、おいしい~!」


 結の言葉をさえぎったのは、さっきのカップルの女だ。ヒソヒソ話が聞こえるぐらいに元々地声が大きいだろうに、ちょっとテンションが上がったら周りに響き渡るほどの声になるのだろう。


 周りの客の声が気にならないからとこの店にしたのに、とんだ計算違いだ。

 他の客達も眉をひそめて見ている。なのに当のカップルはニコニコ顔で話をしている。


「サエのそのおいしそうに食べる顔、こっちまで嬉しくなるぞ」

「えへへー。だっておいしいんだもーん」

「かわいいなぁ」

「照れちゃうよぉ」


 ……このバカップルめ、と結は心の中で舌打ちした。


「あの子、よっぽど気に入ったんだね。でも判るわ。ここの料理おいしいよ。いいところにつれてきてくれてありがとう」


 照子はクスクスと笑ってから、肉を口に入れた。


 彼女の食事をする時の顔はなんとも満足そうで、結はとても嬉しくなった。しかしそれを口にするとあのカップルの真似みたいで悔しいから黙っておく。


 結も牛肉を切り分けて口に入れた。肉汁とソースの味がうまく絡み合って、とてもおいしい。


 言いそびれたプロポーズは、デザートの後にしようか、と気分を持ち直すのであった。


「あぁ、おいしかった。あとはデザートだね。楽しみ」


 女性の大多数がそうであるように、照子も甘いものが大好きだ。


 デザートは四種類の中から選ぶ。照子が選んだのはティラミス。日本のイタリアンレストランではもう定着したチーズケーキだ。店によって、使うエスプレッソの量が結構違っていて、コーヒー風味の強いものもあれば、チーズケーキの名にふさわしく、クリーミーなチーズ味が濃いものまで様々だ。


 照子は時々喫茶店でティラミスを頼んでみては「あぁ、ここのティラミスはバッチリチーズ味だね」などとつぶやいていることがある。そう言えば照子はコーヒーは味わうものではなくて香りを楽しむものだ、などと言っていたなと結は思い出した。


 この店のティラミスは照子にとって「あたり」なのか「ハズレ」なのか。

 結は照子の顔色をうかがった。


「うん、おいしい。クリームがすごくまろやかー」


 照子の満面の笑みに結もつられて笑みを漏らし、自身が注文した生キャラメルとチョコレートのショコラを味わった。もっと甘いのかと思っていたが程よくビターで、結の好みにあう。


 ころあいだと結は思った。照子はとても幸せそうで、結婚の話を切り出すには最高のタイミングだ。


 結はこっそりと、背もたれと背中の間に挟んでおいてある鞄を抜き出して、机の下に持って行った。音を立てないようにファスナーを開けて中を探ると、小箱の感触を確かめた。婚約指輪を入れたオフホワイトの箱を、目に見ずともはっきりと思い浮かべることができる。


 それを手に取り、そっと抜き出す。


 鞄を戻して照子を見ると、彼女はミルクティを味わっているところだった。


「照子。今日は、おまえに話したいことがあるんだ」


 話しかけると、照子は「ん?」と顔を結に向けた。


「ずっと、黙ってたけど――」


 結の言葉に重ねるように、いぶし銀ウェイターが歩きながら少しだけ大きな声で客全体に話しかける。


「あー、お客様の中で、アオイ……」


 その声に結はびくっとなった。まさかこんなところで、こんなタイミングで呼び出しか?

 照子も驚いたようにウェイターを見ている。きっと彼女も結が呼び出されたのかと思ったのだろう。


 ウェイターは手のひらに持っているメモをもう一度見て頭を下げた。


「失礼しました。オイカワ様はいらっしゃいますか?」


 結は思わず肩をがくりと落とした。


(なんだ、アオイじゃないのか、焦らせるなよ)


「あー、はーい! わたしでーす」


 そしてウェイターの呼びかけに応えたのは、「バカップル女」だ。


「あっちゃん達だきっと」


 聞きもしないのにケラケラと笑いながらオイカワサエが彼氏どころか周りに聞こえるぐらいの声で言っている。

 サエは、ぴょこぴょこと跳ねるように歩いてウェイターについていった。


「……とにかく元気な子だねぇ」


 照子も苦笑している。


(ふざけるなオイカワサエ。こっちはプロポーズしようって言うんだ。一度ならず二度までも邪魔するとは。社会的に抹殺するぞ、こら)


 結は心の中でサエの抹殺まで企てたが、照子の前だということを思い出した。落ち着きを取り戻そうと小さく深呼吸。


「まぁまぁ、結。確かにちょっとアレだけど、まだ若いんだし」


 照子も穏やかに笑ってこめかみをちょんちょんと指でつついた。

 知らぬ間に青筋でも浮かべていたのだろうか、結も、ふっと笑った。


「ところで、話って何?」


 照子が続きを促してくれたので、結はもう一度小さく深呼吸をして、話を切り出そうと、した。


 ばっこーん!


 またもやそんなコミカルな音を立てて、何かが結の頭にぶつかった。


「きゃ、ごめんなさい」


 振り仰ぐと若い女性が恐縮して頭を下げている。その隣ではあの女、サエが笑っている。


「……いえ」


 デジャヴ。いや、先程と同じように応えて結はふんと息をついた。

 席に戻っていった女達。サエの声が聞こえてきた。


「カバンが何度も当たるなんて、あの人の頭がおっきいからじゃなーい?」


 サエ達の席で大きな笑い声が起こる。


「ゆ、結、……出よっか?」


 照子が心配そうにこちらを見ている。


「そうだな……」


 もう怒る気も失せた結はうなずいて、伝票を持って立ち上がった。


 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


「なーんて冴えないことになったりしてな」


 IMワークス大阪支社、システム開発部第三課で、藤村が意地悪そうに笑っている。


「どうしてプロポーズという一言からそんなストーリー仕立ての予測が立てられるんですか。というか、そんなふうになってもらっては困ります」


 藤村の向かいで結は苦笑した。


「しかし、バカップル女への殺意はともかく、青井さんや他戸さんの性格や好みをそこまで本人らしく表現できるなんて、藤村さんって一体……」


 結の隣で章彦も苦笑している。


「それはな、ボウヤ」藤村が人差し指をぴんと立てて軽く振りながら章彦に答える。「こういう仕事をしていたら、普段から接するヤツの好みや思考は把握しておかないとってことだよ」

「藤村さん、東京勤務ですし……」


 いくら過去に結の直属の監督者であったとはいえ、今は離れて仕事をしているではないか、と章彦は言いたいらしい。


「先輩たるもの、離れても後輩のことは気になるもんなんだ。だからこうして、大阪に出張で来た時にはちゃんと顔を見せておまえらの様子を伺っているんじゃないか。おまえも部下を持ったら判る。早く偉くなれ、ボ・ウ・ヤ」


 笑いながら肩をバシバシと叩く藤村に、章彦は顔をしかめた。


「しかし、俺のことはともかく、どうして彼女のこともそこまで詳しいんですか?」


 結は首をかしげた。照子が子供の頃は偏食だったことなどをどうして藤村が知っているのだろう。


「そりゃあ、おまえ。照子ちゃんに直接聞いたんだよ。あの子、しゃべってると楽しいよなぁ。素人の格闘大会に出てチャンプなんて呼ばれてるのに、なかなかかわいいじゃないか」


 藤村の褒め言葉に、結はいつの間に、とつぶやいた。


「かわいい後輩が将来をともにしようって女の子なんだから、しっかりとリサーチ済みだ」


 なぜか得意そうな藤村。


「しかしおまえが結婚ねぇ。俺の下についた時は、女の子どころか人を寄せ付けないような雰囲気さえあったのに。ま、プロポーズ頑張れよ」

「……ありがとうございます」


 昔のことを言われると辛い。まさに若気の至りでいろいろとやったものだ。それを照子に知られたくはないものだと結はため息をひとつついた。


「なんか心配そうな顔してんな。あぁ、結婚が決まったら今までのように遊べないと心配か? だったら今のうちに一緒に風俗にでも行くか」

「そんなことじゃありませんよ」


 結はあからさまに呆れ顔で藤村を見つめた。


「じゃあ、風俗通いがばれて破談にならないか、とか?」

「それは藤村さんが結婚するとしたらの心配じゃないですか」

「お、切り返すようになったなぁ。じゃあ照子ちゃんの方を誘おうかなー。結婚する前に遊んでおこう、って」


 藤村の軽口に結は眉を寄せた。冗談なのだろうが、本当にやりかねないほど藤村は女性にだらしがないのを知っているから。


「怒るな、軽いジョークだ」

「軽くないです、それ」


 章彦が結の気持ちを代弁するかのようにつっこむ。


「そうかぁ? 俺はいつでもおまえらが幸せにあればと思う優しい先輩だぞ?」

「自分で優しいと言う辺りが胡散臭いです」

「ま、それもそうか」


 軽快に笑う藤村に、結はため息をついた。


「でも、おまえが照子ちゃんとうまく行けばと思っているのは本心だからな」


 結の肩に手を置いて藤村が真面目くさった顔になる。

 こういうところはさすが信頼している先輩だ、と結は笑顔になってうなずいた。

 しかしその笑みを吹き飛ばす続きがあった。


「おまえがうまく行かなかったら、俺が照子ちゃん口説こうかなー」


 ぴきっ、と結の笑みが凍りつく。


「照子ちゃん、結構ノリがいいのにお堅いところもあったりで、落としがいがあるんだよなー」


 せっかく人が心の中だけとはいえ褒めた直後にそれを言うか、と結は拳を握ってわななかせた。

 結の変化に気付いていないのか、気付いた上でわざとからかっているのか、さらに藤村の軽口は続く。


「難攻不落な城は何が何でも落としてみたくなる、っていうか。でもああいう子は一度落ちるとあとはもう――」


 藤村の女性論、というよりは照子論はそこまでだった。結が思い切り藤村の腹を殴ったのだ。

 本当に不意打ちだったようでその場にくず折れる藤村。


「お、おま……、ほんき……」


 言葉になっていないが、「本気で殴るとは何事か」と言いたいらしい。


「藤村さんは常々『俺に攻撃がクリーンヒットするくらいに強くなれ』とおっしゃっていましたから。素直な後輩としては実践で試してみたくなったまでです」


 結はこめかみに青筋を浮かべたまま、口元だけ笑みの形を作って言葉を吐き捨てると、きびすを返した。


 プロポーズの店は変更しよう、と早速パソコンの前に座ってディナーのおいしそうな店を探す結の耳に章彦のツッコミが聞こえた。


「さすが藤村さん。『あいつの最期は女に刺されるか、女を奪い合って相手の男にやられるか』と言われるだけはありますね」


 章彦も自分のデスクに戻っていった。


 まだ腹を抱えてうずくまる藤村を見て、今度はプロポーズのことは彼には言わないでおこう、と結は心に誓った。



(了)

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