言っちゃなんだけど、だらけてる
今日は休みだ。久しぶりの休み。
どれくらいまともな休日はなかっただろうか。もうそれを考えたくないぐらいだ。
今やんちゃ盛りの息子、淳は、じいちゃんの家に遊びに行くと言うので、照子が実家に送っているところだ。
静かだ。四歳の子供がいないだけでなんて静かな家。
といっても俺が子供達に接する時間は照子よりもはるかに少ないのだが。それでも上の子がいないだけで寂しさと少しの安堵を覚えている。
一歳の娘、咲子が、リビングのソファに座る俺の足元を這っている。最近運動面が発達してきたからと、ピンク色の動きやすそうな服を着せられて、機嫌のよさそうな声を出してハイハイする娘を見るとつい頬が緩む。
咲子が「ママ、ママ」と言いながら俺のズボンを掴んで立ち上がろうとしている。
俺はママじゃないよ、と笑って返すけれど、やっぱりママと呼ぶ。まだパパと認識するには咲子には俺の存在は希薄なんだろうか。それともママがいないのが寂しいのだろうか。
ふと、部下の渡部君の言葉を思い出した。あんまりにも子供に会えないと、久しぶりにまともに顔を合わせたら泣かれたと言っていたっけ。泣かれないだけましなのかもしれない。
咲子を抱き上げて顔と顔を見合わせる。
「パパだよ」
「あー?」
「パ・パ」
「パー」
「うん。パパ」
「ありぇ?」
舌足らずに疑問を投げかけられて小首を傾げられてしまった。いつのまにこんなしぐさをするようになったんだ。
そのあまりの可愛さに娘をぎゅっと抱きしめて頭を撫でた。
たまに家にいるといつもまず淳が占領する俺のひざの上で、咲子ははしゃぎながら体をぴょこぴょこと上下させている。
……結構重い。でもたまのスキンシップなんだしなぁ。
「ただいまぁ。……結。にやけてるー」
咲子にかまっていて照子の帰宅に気付かないとは、不覚だ。
「別ににやけてたっていいだろう。久しぶりなんだし」
「開き直った。ちょっと前までは、にやけてなんてないだろうとか言ってたのに」
照子が笑うので、「そうだったかな」と言葉を濁しておいた。
「……淳、夜までお
「そうか。おまえものんびりするといいよ。子供の相手は疲れるだろう」
「うん。じゃあしばらく咲ちゃんお願いね」
照子はそういって、腕まくりをしながらキッチンの方に向かった。昼食の後片付けをするのだろうか。
それからしばらくは咲子と遊んでいたのだが、咲子が一人遊びを始めたあたりから眠気に襲われて、ぼんやりとしている。
「結? もう、……疲れてんだね」
遠くでそんな声が聞こえた。だから、うん、と返事をした。
「あのね、黒崎さんが……」
まだ照子らしき声が話しかけてくる。黒崎君がなんだって? と聞き返したような気がする。
「……なのよ。それでいい?」
それだけ聞こえてきた。かろうじてうつつにあった意識は、問いかけにうなずいた直後にまた夢の世界へと引き込まれた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
青井さんの携帯電話が俺の鞄に入っているのに気付いた。昨日、一緒に外に仕事で出た時に預かったままだったのを、俺も青井さんもすっかり忘れていた。
休日に家にまで押しかけるのは気が引けたが、この携帯は仕事用として青井さんが頻繁に使っているものだから、今日のうちに返しておいたほうがいいだろう。もしかすると極秘の事件を受け持っているかもしれないし。
ということで、青井さんの自宅に電話をかけてみた。
『はい、もしもしー』
電話に出たのは奥さんの照子さんだ。
「青井さんの御宅ですか? 黒崎です」
『あら、黒崎さん。こんにちはー。どうしたんですか?』
受話器の向こうからは赤ちゃんの声も聞こえてくる。下のお子さんを抱っこしてるのだろうか。
「青井さんの携帯電話を預かったままだったんです。急な用件とかあるといけないので、これからそちらに伺おうと思うのですが、ご都合はいかがですか?」
『あー、多分大丈夫だと思うけど……。ちょっと待っててくださいね。主人に聞いてきます』
その言葉を最後にしばらく保留音が鼓膜を揺らした。
『おまたせしました。どうぞいらしてください。ごめんなさいね。本来は彼に取りにうかがわせるのが筋なのに』
「いえ。青井さん最近とてもお忙しかったので、休日ぐらいゆっくりしてください。それでは後ほど」
電話を切って、早速青井家に向かうことにした。
結婚前までは、ざっくばらんな話し方をしていた照子さんだけど、気付けば俺に対して丁寧な話し方になっている。青井さんと同じように、公私の使い分けがうまそうな人だったから、俺は「公」に分類されたのかもしれないな。
さて、電話から三十分ぐらい経って、青井家に到着した。
照子さんが門前で、娘さんと遊んでいる。最近歩けるようになって外に出るのが好きになったらしいって、そういえば青井さんが休憩時間に言ってたっけ。
「こんにちは」
「こんにちは黒崎さん。わざわざすみません」
照子さんは、にこっと笑って頭を下げた。
ふと、一瞬何かを考えるように視線を宙に泳がせて、照子さんはまたにこりと笑顔を浮かべた。
「どうぞ入って。結はリビングにいるわ」
照子さんが娘さんを連れて家に入っていく。
あれ、口調が崩れた。……まぁ、別に気にしないけど。
彼女達の後に続いて、リビングに向かう。
てっきり、青井さんはいつもの冷静な笑顔を浮かべて出迎えるのかと思っていたのに。
寝てる。ソファの背もたれと肘かけにだらりと体を預けて。口はうっすらと開いて、すーすーといかにも気持ちよさげな寝息をたてている。
こんな姿、初めて見た。これが、自分のテリトリーにいる時の青井さんの姿か。言っちゃなんだけど、だらけてるという表現がぴったりな姿だ。……言わないけど。
「結。黒崎さんよ」
照子さんが、抱っこしていた娘さんを床に降ろして、容赦なく青井さんの体をゆすった。
「あ……、いいですよ。携帯を届けに来ただけなので、これ」
あわてて携帯電話を取り出して照子さんに差し出したが、彼女はまたにこりと笑って首を降った。
「それ、仕事用でしょ? ちゃんと本人に渡さないとね。それに黒崎さんが来ること、言っておいたのに起きてない結が悪いのよ」
くすくすと笑う照子さんは、完全にこのシチュエーションを楽しんでいるようだ。
すると、母親の気持ちを読み取ったのか、床をハイハイしていた娘さんが楽しそうに笑い声を上げて、パパである青井さんに猛進していく。
「あー、パ、パッパッパー」
青井さんのズボンにすがり付いて立ち上がった娘さん。
……かわいいんだなぁ、赤ちゃんって。
「咲ちゃん、パパって覚えたのね」
照子さんがにこにこして娘さんを見下ろしている。
「んー? 咲ー?」
青井さんが目を覚ましたみたいだ。まだうつろな表情だが、足元の咲ちゃんを見ると笑いかけた。
パパだ。そのにやけた、いや、微笑ましい表情は。
「パパ、パパー」
「お、パパって覚えたのか咲ちゃんー」
青井さんがもうどうしようもないくらいに顔をゆるめている。
あの青井さんが。
咲ちゃんを嬉しそうに抱き上げて、青井さんは、俺の方を見た。
あ、固まった。
やっぱり、見られたくないシーンだったんだろうな。
俺の斜め後ろにいる照子さんが、くすっと笑った。
はめられたなぁ。青井さんもだけど、俺もしばらくさっきの青井さんの顔が忘れられそうにない。
明日から、会社で会ったら思わず微笑みそうだ。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
目覚めたら、咲子が足元でパパと言ってるではないか。俺は嬉しくて娘を抱き上げたが、その時、家にいるはずのない人物の姿が視界に飛び込んできて、思わず硬直してしまった。
照子が小さく笑う声がする。
……やられた。
「や、やぁ、黒崎君。……えぇと、何の用件だったっけ」
こんな時、どんな顔をするべきなんだろうか。ちょっと悩みつつもとりあえず笑顔で尋ねてみた。
「青井さんの携帯、預かったままでしたので、お返しに来ました」
黒崎君も、少々当惑しているような表情を一瞬見せたが、何事もないように微笑んで応えた。
「もう、結、わたしの話、全然聞いてなかったのね。受け答えは妙にはっきりしてたくせに」
照子があきれたように笑う。
「でも黒崎さんも、滅多に見れないもの見れて、楽しかったでしょ」
付け足された照子の一言に、黒崎君は噴きだした。彼がこんな笑い方をするとは、よほど変な顔で寝ていたんだろうか、俺は。
「……さ、お茶を入れるから、黒崎さんも飲んでいってね」
照子は、さっさとキッチンに行ってしまった。
「す、すみません、青井さん。せっかく眠ってらしたところを。携帯、奥様にお渡しすればよかったですね」
黒崎君が恐縮した様子で頭を下げた。
俺も黒崎君も、すっかり照子のいたずら心に振り回されてしまったな。
そう思うと、なんだか笑えてきた。
「謝ることはないよ。……照子にやられたな」
「はい」
黒崎君も笑みを浮かべた。
「はーい、おまたせ。お茶請けはクッキーだよ」
照子がトレイに紅茶ポットとカップ、クッキーを入れた皿を乗せてやってきた。
ソファでうたた寝という贅沢な状況はなくなったけど、まあ、こんな昼下がりも、悪くはないかな。
(了)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます