今日という日は、後三分もない

 お願いだ。今日のうちに着いてくれ。




 本当は今日は休みを取っているはずだった。それが、どうしても極めし者の力が必要だと結も出勤を命じられた。

 それでも、夕方までには片がつくはずであった。


 それなのに。


 容疑者はたくみに逃げ回り、追い詰めるのに時間がかかった。相手が変異変則の「月」属性であることが全ての災いの始まりであった。「月」属性の極めし者は、自分の周りの時間を寸瞬止めたり、居場所を易々と転移したり、分身で本体をごまかしたりということに長けている者が多い。今回の容疑者も、例に漏れずそのような超技を多々習得していたのだ。


 仕事を終え、報告書は明日にすると逃げるように結が会社を出たのは午後十一時を回った頃。普段なら三十分もすれば帰ることの出来る道のりだったが、ついていない時には、とことんついていないものなのだ。


 大手私鉄が大きな人身事故を起こしたとかで、道路はタクシーであふれていた。シャトルバスの類も何台も見かけられる。普段は交通渋滞などない時間帯のはずなのに、赤いテールランプの列は、じりじりとしか前に進んでくれない。


 時間帯が悪かった。もう少し早ければ、終電間際の人達であふれかえっているということもなかっただろうに。


 時間が、刻々と過ぎてゆく。

 今日は、記念日なのに。初めての、結婚記念日。


 夕方のうちに時間を見つけて会社の近くで買い求めておいた赤いバラの小さな花束が、助手席で淋しそうに横たえられている。


 何とか今日のうちに家に帰り着き、照子に日頃からの感謝を伝えたいのに。


 お願いだ。今日のうちに着いてくれ。


 結の願いは、時間の経過と共に切実になって来た。




 ガレージに車を入れるのももどかしいといわんばかりに突っ込むと、結は運転席から飛び出した。

 今日という日は、後三分もない。


「ただいま」


 玄関を開けながら家に飛び込んだ結の前には、臨月間近の大きなおなかを抱えた照子が仁王立ち。


「遅い!」


 照子の手がすっと伸び、結のネクタイをぐいと掴んだ。


「なによ、連絡もくれないで、……何かあったんじゃないかって心配じゃないの、もう!」


 照子の涙交じりの苦言は、首に食い込むネクタイの苦しさに半分ほどかき消された。


「お、ぃ、てるこっ。……ごめっ」


 どうにかそれだけ口にすると、首にかかる負荷がふっと失せた。照子が手を離したのだ。


「もう、知らない。……今日って日は、もう二度とこないのに」


 背を見せてつぶやく照子の肩が小刻みに震えている。


「……ごめん。照子」


 普段は結の帰りが遅くても、連絡がなくても、こういった怒り方をしないのに今日は違っていた。やはり記念日をふいにしてしまったことに腹を立てているのだろう。


「いつもありがとう。……愛してるよ」


 後ろから抱きしめて、手にしたバラの花束を照子の前に差し出した。


「……ずるいよ、そんなの」


 涙声の照子が結の手から花束を受け取って、くるりと振り向いた。目じりに涙をにじませて、それでも照子は微笑を浮かべた。


「結ってば、一番欲しい言葉をさらっと言っちゃって。本当は、わたしから言いたかったのに」


 照子はそっと胸に頭を預けてきた。


「お仕事お疲れさま。ごめんね、怒っちゃって。……ほらほら、こっち来て」


 そっと体を離して、照子は結の手を引いて台所へ向かった。


「せめて乾杯ぐらいしようよ」


 作ってから数時間は経って冷めてしまった料理のそばに、ワインとぶどうジュースが置いてあった。


「結婚一周年、おめでとう」


 二人はグラスを重ねた。その時、時計の針が零時を指して記念日の終わりを告げた。


 照子の妊娠が判ってから、夜遅くに帰ってきた時は気を遣ってベッドを別にしていた結だったが、今夜は久しぶりに彼女のとなりで温もりを感じて眠りたいと思うのだった。



(了)

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