白さん
木野春雪
白さんの思い出 1/2
はじまりは中学一年生の初夏。みなさんにも身に覚えがあると思いますが、この頃私は死をとても意識していました。具体的に何か、怖いことがあったのではありません。私はいたって健康体で、大きな事故もなく、暴力が介在した喧嘩なんてしたこともありませんでしたから。
けれど瞼を閉じると、考えてしまうのです。何もないことを思い浮かべるのです。死んだら人はどこへ行くのか。死後の世界はどんな世界なのか。死後の世界は黒でもなく、白でもなく、ただの無。誰かが言っていました。空でも地面でもない、無の宙の中に、もしくは宙の無の中に放り出された様を想像しました。その"無"では、一切の感覚がありません。何も見えず聞こえず、圧迫されている苦しさも海を揺蕩う心地よさもなく、肉体的な実体がない。何も考えず、思わず、考え思うという観念もなく、故に怒りも悲しみもない。私という実体がない。実体がなくなる。
ふと目を開けると、一瞬―――本当に一瞬ですが、私の体がなくなって私という意識だけが空間に遍在しているのです。やがて空気が抜けるように、意識も薄らぎます。アニメ映画のエンドロールが佳境を超えて、監督の名前と会社のロゴを最後にとうとう全てが終わってしまうのに似た
(ごめんなさい、神様。私は死ぬのが怖いです。こんなの私みたいな矮小な人間が願っちゃいけないことだと思いますけど、ごめんなさい。お願いです。死にたくないです。私を殺さないでください。私は私がなくなるのが耐えられない。たとえ暗闇の中、意識だけでも生きていたい。私の寿命が半分なくなっても構いません。私が死んだ後も、どうか私を生かしてください………)
祈りの回数は覚えていません。数え切れないほど。けれど、神様からのレスポンスはありませんでした。勿論、今になってもありません。
代わりにやって来たのが、白さんでした。
中学一年生の夏の夜………夏休みに入る前でしょうか。私は夏でも布団を被って寝るのですが(その圧力がなければ眠れない性癖だったのです)、ずんと布団の上に何かが乗っかったような気がして、生と夢の狭間にいた私は薄目を開けました。
途端に息が出来なくなりました。喉と鼻の奥にそれぞれ、ぴったりと蓋をされたみたいで、何の心構えもしていなかった私は、パニックで手足をじたばたしようとしましたが、どうにも体が動きませんでした。
僅かです。動くのはほんの、指先などでほんの僅か。だけど体の中は忙しなく、心臓は激しく拍動し、肺は空気をくれと暴れまわります。まるで体を外からシリコンのような柔らかい粘着物質で固められたようでした。呼吸が出来ないと死ぬなんてこと、小学生でも分かります。私が毎夜毎夜恐れていた死―――けれどなにぶんパニックになっていたので、恐怖は毛ほども感じませんでした。ただ空気が欲し。拘束が苦しい。このときの私は、完全に生理的だけに従う下等生物でした。
「はっ!」
と気合いを入れて、私は横に転がりました。転がることが出来たのです。すると氷が溶けるように、圧力も拘束も息苦しさも消えました。私は布団から這い出ました。汗をびっしょりかいていて、まるで死を夢想した後のようでした。死を夢想した後は、祈りを捧げて眠りにつきます。けれどとてもそんな気分にはなれず、私は枕の上でずっと体育座りをしていました。電気をつけて。
さて、また夜はやって来ます。当時の私が大人だったら、寝ないで夜を明かすという選択肢もあったのでしょうが、中学一年生の私には夜に全く寝ないという発想がありませんでしたので、恐怖のまにまに布団を被ります。せめてもの対策として、布団で頭まで覆いました。夏なので当然暑いです。けれど昨夜の寝不足もあって、すぐに私はうとうとしました。
そうしてまた、どすんと上から圧力がかかり、私は瞼を開けます。
そこに白さんがいたのです。真っ白な煙の見た目だったから、白さんです。安直でしょうか。そうは言っても、白さんの特徴は本当に「白い」以外になかったのですから仕方ありません。
煙が凝縮した人型でした、というのは恐らく私の錯覚でしょう。シミュラクラ現象というものがあるように、人は意味のない形や現象に、意味を持たせたがる生き物なのです。私に跨がり、私の息を止めているその白い何かを人と錯覚していてもおかしくないでしょうが、私の目には確かに、僅かに白光しているその白い何かが人の形をしていて私の首を絞めているように見えたのです。錯覚。しかし当時の私の認識では、「白いお化けが首を絞めている」でしかない。金縛りの正体はこれだったのか。私は再びパニックに陥り、昨夜と同じ方法で金縛りを抜けました。
体を起こすと、すでに白いそれの姿はなく、しかし不思議と首に手の感触はしっかりと残っていたのです。
この世に殺されると分かっている場所に、のこのこと入っていく愚かな子供なんているわけない。答えは否です。例え殺される可能性を見出していても、たった中学一年生の子供には選択肢がないのです。暴力を振るう親のいる家に、いじめる生徒のいる学校に、行かなければならない愚かな子供たちの気持ちが、私はしかと分かりました。夜になれば、子供は布団に入らなければならないのです。
だけど私はせめてもの抵抗として、布団から出て床で眠りました。例え親が部屋を覗き見ても、「寝相が悪い」と言い訳が利くと思ったからです。しかしそれは、甘い考えでした。
がちゃりと部屋の扉が音を立てて開きました。私は闇の中目を開けました。部屋も廊下も電気が付いていなかったので、部屋を開けた母の姿はただの黒いシルエットでした。母を照らすには脆弱な月明かりだけでは足りませんでした。母、もとい黒い影は呟くように、ちゃんと布団で寝なさい馬鹿じゃないの………と言いました。
母は静かに出て行きました。言い訳する間もありませんでした。母が何をしに来たのか、今更疑問に思う私ではありません。母は、時たまよく分からない文句を私に言いに来ます。時たまというのは、父に暴力や暴言を受けた時です。父というのは、母の父ではなく私の父です。すなわち母の夫。その人は、普段は影が薄いのですが、お酒が入ると時たま乱暴になります。私の部屋まで音が聞こえることが常でした。しかし睡眠不足のせいもあってか、今晩はぐっすり眠っていたらしく何も聞こえませんでした。
夫婦の喧嘩も母の八つ当たりも、もう慣れたものです。母はぼやくような文句しか言いませんし、父が私に暴力を振るうことは決してありませんでした。その人は、父はどうやら私のことを忌んでいるらしく、徹底的に私から目を背けます。小さい頃、暴力の音が聞こえてきた時、一度だけリビングを覗き見たことがありました。するとどうでしょう。父は私の姿を認めるなり、水を打ったように静かになったのです。子供には暴力を見せないという、親ならではの殊勝な働きかけとは若干空気が違うのは、言うまでもありません。夫婦間でそのような取り決めが成されているなんて楽観視が過ぎます。
それで、私は母の文句をいつもと違い、ほっとした気持ちで受け止めました。とりあえず、今日は白いお化けは現れなかった。そのことで私は今日はもう終わったものだと思い違いをして、布団の中に入りました。
朝になる前に、もう一度目覚めました。
白さんが私に跨がっていて、息は出来なかったけれども不思議と苦しくはありませんでした。その代わりに胸の辺りを、トン………トン………トン………と一定間隔でノックしていました。子供を眠りにつかすリズムで、決して急かず、心臓の鼓動に溶け込むようで、覚醒しかけた私の意識は再び
白さんは確かに毎日のように現れていましたが、毎日現れていたわけではありません。一週間の内で五日ほど。それに、毎回金縛りを効かせてくるわけでも、首を絞めるわけでもありませんでした。五回の内、一回か二回はただ私に跨がって、にやりと笑うだけでどこかへ消えます。もしくは消えず、私が再び眠りにつくまでそのままでいます。
初夏が終わり、真夏の盛りに差し掛かる頃には、私はもう金縛りや首絞めに対して手慣れてしまって、「いち」「にの」「さんっ」の動作で簡単に抜け出せるようになっていました。幽霊も形無し。幽霊なのですから形は本来ないのですが、幽霊の存在意義を打ち消してしまい、私の心には白さんに対して、些かのマウンティングを取った気分になりました。
白さんと名前を付けたのも、この頃でした。
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