In the Flames of the Purgatory 20

 

   †

 

「そうする! じゃ、またね! 寂しくなったら声かけてよ!」 よく日に焼けた十代半ばの娘がそう告げて部屋から出ていったところで、アルカード・ドラゴスは溜め息をついた。

 開け放たれた扉を見遣って、苦笑する――窮屈な寝台の上で姿勢を変えると、甲冑の装甲がこすれあってぎしりと音を立てた。

 さて、どうしたものか――

 胸中でつぶやいて、アルカードは首をかしげた。

 あの娘も含めたこの船の乗組員たちに会ってから、そろそろ五日になる。嵐が過ぎるまで船乗りたちとともに二日間時間を潰し、ようやく出港に漕ぎつけたのが三日目の朝だ。

 慣れない船に乗ったせいで船酔いに悩まされていたのはわずか十数分、魔物と化した肉体はすぐにそれに慣れてしまったらしい――楽なのはありがたいが。

 風は強く航海は順調、出向三日目の今日も昼前になってすでに日は高く昇り、陸地から離れたために周りに見えるのは水平線と雲と空、陸地は遠くにうっすらと見えているだけだ。

 別に船室に引き籠っているのが義務なわけでなし、外に出るのも悪くないだろう。そう考えて、アルカードは立ち上がった。

 名前は知らないがあの娘が開けっぱなしにしていった扉をくぐって、通路に出る――先ほどの娘が後部ハッチに向かって飛び込んでいくのが見えた。場合によっては登艢することがあるからだろう、靴は履いていない。

「おう、アマリア。どうだった?」

「あ、うん。伝えてきた」

 やや鋭敏にした耳に、波の音に混じって娘と船員の会話が聞こえてくる。

「まだ酔ってたか?」

「え? 別にどうってことは――」

「――もう治まった」 後部ハッチから甲板上に出ながらそう告げると、船尾楼に陣取っていた男と娘――アマリアというらしいが――がそろってこちらを振り返り、「あ」と声をあげた。

 アマリアに話しかけていた男のほうが、こちらに気づいて表情をわずかに引き攣らせる――先日の酒場でアルカードに絡み、投げ飛ばされた揚句にそのまま刺し殺されそうになった船乗りだ。危うく殺されそうになったのだから、苦手意識を持つのは当然だろう。

 だが、絡まれたのはこっちが先だ。別にその苦手意識を改善してやる理由も無いので、アルカードはさして気にしなかった――いざとなれば船が丸ごと強盗団になることもあるのかもしれないが、別にそれもどうでもいい。彼らを皆殺しにするのは難しくはないし――五分もあれば事足りる――、ひとりかふたり八つ裂きにすれば、残りを恐怖で従わせることも容易いだろう。

「よおし、開き変えるぞ、面舵一杯」

「面舵いっぱぁい」 舵輪を握る乗組員が船尾楼にいた髭面の男――この船の船長だということを、酒場での悶着のあとの自己紹介で知ったのだが――の発した号令を復唱しながら舵輪を廻す。

 どうやら、帆桁を回転させて逆方向から風を入れる作業の最中らしい――船首楼甲板の両舷にに並んだ操帆手たちがそれまで長く繰り出していた左舷側の動索を引き込み、代わりに右舷側の動索を繰り出して、帆桁の角度を変えていく。

 それに伴って、徐々に船体の角度が変わり始めた――なるほど、開きを変えると傾きが変わるというのはこういう意味か。それまでは左舷後方からの風に押されて右側に傾いていた船体が、今度は左に傾いていく。

「船長、操帆終わり」 アルカードのいる中央凹甲板上から、副長らしき男が船長に声をかける。

「よし、適帆を出せ」 船長がそう答え、副長が矢継ぎ早に指示を飛ばす。

 それを見ながら、アルカードは口を開いた。

「それにしても――」

「なに?」

 特に返事を期待していたわけではないのだが――結局操帆に参加しなかったために手が空いているのだろう、アマリアが返事をしてくる。主艢に張られた大型の三角帆ラティーンセイルとその上部に張られた四角形と直角三角形をくっつけた様な変形四角形の補助帆を順番に見遣って、アルカードは続けた。見たところ、すべての前檣も同様の帆装になっており、後檣には大三角帆ラティーンセイルだけしか張っていない。

 見たところ、四角形の横帆を張るための帆桁は一切備えていないらしい。舳先に斜めに張り出した斜檣に設けられている横帆も、この船にはついていない――その代わりということか、斜檣と前檣の間に張られた支索の間に三枚、三角形の補助帆が張られていた。

「変わった帆装だな――横帆が無いぞ。リスボンの港で、こんな艤装の帆船はほかに見なかったが」

 外洋航行用の帆船の大部分は前檣と主檣に大型の横帆を備え、後檣に三角帆ラティーンセイルを一枚備えた船型が主流だ――それに対してこの船の艤装はすべての檣に大型の三角帆ラティーンセイルを備えており、前檣と主檣はその上に檣同士をつなぐ支索を利用して大型の補助帆が張られている。こんな帆装の船は、港ではほかに一隻も見かけなかった。

「世界に冠たるポルトガル王国の造船所が、試験建造した船だからね」

 先ほど見せつけられたので知っているのだが――女扱いされていない、というのが冗談に聞こえる程度にはふくらみのある胸を張って、アマリアがそう答えてきた。洗い晒しのシャツを下から押し上げる突起の先端がわかる程度には大きさがある。男所帯の紅一点なのだろうし、せめて胸に布を巻くくらいはすべきだろう。

 そう思いはしたものの口には出さず、アルカードは再び頭上に視線を戻した。

「そうなのか?」

「うん、風上への切り上がり性能を主眼に置いて開発したんだってさ」 そう言って、アマリアが前艢を手で示した。

 艢に張られた大三角帆ラティーンセイルが、風を孕んでぱんぱんに膨らんでいる――高く昇った太陽の光が海面に反射して視界に入ったのか、わずかに目を細めながら彼女は続けてきた。

「船体をほかの船より細身にして水の抵抗を少なくして、少し竜骨を深くして横に流れにくくしてあるんだ。風上に切り上がるときになったら、この船はすごく強いよ。そこらの鈍亀なんかメじゃないんだから――お客さんが船旅にこの船を選んだのは正解だったね」 あたしもいるし、と付け加えてくるのには返事をせずに、アルカードは適当に肩をすくめた。

「さすがはポルトガル王国、と言えばいいのかな」

 ペドロ・アルヴァレス・カブラールがブラジルを『発見』したのが、確か四、五年前の出来事だったはずだ。ほんの十二年ほど前にクリストファー・コロンブスが新大陸を発見したことで、各海洋国家の植民地利権を争う海洋進出とそれに伴う外洋航海のための技術開発は激化の一途をたどっている。

 新大陸を発見したコロンブスを擁するスペイン同様、ポルトガル王国は順調に領土拡大している様だ――アルカードに言わせれば、傲慢以外の何物でもないが。

 コロンブスがサンサルバドル島にたどり着いたとき、彼は海を渡ってやってきた『友人』を歓待しようと水や食糧を提供した先住民に黄金を要求し、現地の人々のうち数人を力ずくで連れ去ったという――恩も感謝も礼儀も知らず、享受した恵みに対する返礼は彼らが持たなかった西洋の風土病の蔓延と虐殺と略奪と強姦、徹底した破壊行為と、カトリックへの教化を語るのが鼻で笑えるほどの蛮行。そんな下劣な行いが、ワラキアで若い娘を見れば捕まえて下着を剥ぎ取ることしか頭に無かったオスマン帝国のトチ狂った猿どもとなにが違うというのだ。

 結局カトリック教もイスラム教も同じだ。他者を見下すという点ではなにも変わらず、倫理も道徳も自分たちにしか適用されない。そしてその倫理自体が、実に胡散臭い――自分たちより文明が劣るという理由で殺人も強姦も許すというのなら、そんな倫理など塵紙ほどの価値も無い。害虫のほうがまだましだ。

 皮肉を込めて唇をゆがめたとき、船長の声が追い風に乗って頭上から降ってきた。

「乗り心地は気に入ってもらえたかね」 船尾楼から降りてきた船長に視線を向けて、アルカードはうなずいた。

「昨晩の酒をぶちまけない程度にはな」

「そいつはよかった。安心したぜ」

 唇をゆがめて船長の皮肉を受け流し、アルカードは後部甲板に続くタラップに足をかけた。

「ところで、今後の予定航路を知りたい。海図を見せてくれ」

「はいよ」 船長はそう答えて適当に右手を掲げ、船長室に先導する様にして歩き出した。

 

   †

 

「ところで、今後の予定航路を知りたい。海図を見せてくれ」

「はいよ」 金髪の男の言葉にそう答え、船長が船長室に歩き出す。すでに皆操帆作業が終わって手が空き始めているので、特にやることがあるわけでもない――だがついていくわけにもいかないので、アマリアはとりあえず手持無沙汰に視線をめぐらせた。

 と――主艢の大三角帆ラティーンセイルの索具の一本に視線を止める。

 それに気づいたのは、まったくの偶然だった――主艢の大三角帆ラティーンセイルの下端を留めるロープの一部が切れかけている。折から強くなってきた風に煽られて索に力がかかり、ほつれがどんどん広がっているのだ。

 あれが切れたら大三角帆ラティーンセイルの下端部分が固定されなくなって風が抜け、同時にこの強風下だと帆が風に煽られて派手にばたつくのでたたむのも難しい。

 ただそれだけなら別にいいのだ――時間はかかるが修理は出来る。だが風下側の舷側に、乗組員がひとり立っている。彼は海を見ていて、索具の様子に気づいていない。

 仲間に注意を促そうと口を開きかけたとき、大三角帆ラティーンセイルが派手にばたついて一気に力のかかった索が完全にちぎれた。

 大三角帆ラティーンセイルは風に煽られて旗の様にはためくだけだが――それにつながっている索具の切れ端はそうもいかない。ちぎれた索具は大三角帆ラティーンセイルが風に煽られて風下側に広がるときに、猛烈な勢いで乗組員の背中を直撃するだろう。

 駆け寄って索の一端を掴んだが、もう遅い。

 先ほどよりも風が強くなっていたからだろう――大三角帆ラティーンセイルの下端部分を留める索具がはずれたことで帆が煽られるままに舷側の外側に振り出され、体重の軽いアマリアひとりでは支えることも出来ない。弾け飛んだ索具の切れ端が、舷側で海を眺めていた乗組員の無防備の背中へと襲いかかった。じきにアマリアは同僚に激突し、ふたりまとめて舷側を乗り越え海に放り出されるだろう。

 索具を掴んだ両手がものすごい勢いで引っ張られ、アマリアは海中に転落することを覚悟して目を閉じた。

 が――

 引っ張られるよりも早く、唐突にその動きは止まった。

 大三角帆ラティーンセイルは大きく風を孕んではいるものの、風に煽られて旗の様にはためいてはいない。無論、アマリアも海中に放り出されたりはしていなかった。

 アマリアが掴んだ索はいまだ甲板上にあり、大三角帆ラティーンセイルは風を孕んで膨らんでいた。なにかに引っかかって止まったわけではない――索を掴んだ彼女の手元に、傷だらけの手甲で鎧われた手が添えられている。ちぎれた索を掴んだその手がすさまじい力で索具を引きつけ、帆が風下側にはためくのを止めているのだ。

 彼女に寄り添う様にして索を掴んで止めているのは、あの金髪の乗船客だった――この強風下では数人がかりでも扱いには苦労するというのに、男は索ごと放り出されない様に檣を支える静索の一本を掴んで体を支えながら、もう一方の手でちぎれた索を掴んで止めている。

「おい――大丈夫か?」

「ああ」

 泡を喰った船長の言葉に、金髪の男は振り返らずにうなずいた。

「大丈夫だ。それより――」 言いながら、彼は強風を孕んでばたつく大三角帆ラティーンセイルを信じられないことに片手で易々と引き戻した。彼は手近にいた船員に視線を向け、

「――この索具を留めてくれ」

「あ、ああ」 うなずく船員の返事に続いて、船長が指示を飛ばす。

「否、大三角帆ラティーンセイル絞れ。索が切れたら固定が出来ねえ。いったんはずして取り換えるぞ。しかし――」 船長があきれた様な感心した様な口調で、金髪の男に視線を向ける。

「すげえな、あんた」

 そう言ったところで畳帆作業を始めていた船乗りから声がかかり、金髪の男は動索から手を放した。

「別に――どうというほどのことも無い。その娘も手当してやれ」 肩越しにこちらを視線で示され、アマリアはようやく自分の手が血だらけになっていることに気づいた。索を掴んだときに擦れて、掌の皮が剥けているのだ。

 それまでは気になっていなかった傷が、気づいたら途端に痛み始めた――顔を顰めると、金髪の男の肩越しに船長が声をかけてくる。

「副長、大三角帆ラティーンセイルの交換は任せる。アマリア、おまえは船医のところに行って手当を受けてこい」

 適当に手を振る副長を見遣ってから、船長はあらためて金髪の男を船長室に招じ入れた。

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