第37話いずみの提案
水月が頬杖をやめ、腕を組んで頭を悩ませていると、
「ナウム、二人が戻ってきたぞ」
扉の向こうから品物を渡した薬師の声が聞こえてきた。
早く出迎えなければと、手早く紙を折り畳んで懐にしまってから部屋を出ようとする。
こちらが取っ手を掴む前に扉が開く。
診察用の薬箱を片手に持ったいずみが、少し目を丸くさせて立っていた。
視線が合うと、いずみは嬉しそうに目を細めた。
「お帰りなさいナウム。今日も無事に戻って来てくれて良かった」
この顔を見ると、朝からずっと張り詰めていたものが和らぎ、心に黄色い明かりが灯る。それと同時に、水月の胸に鋭い痛み走る。
真実を知らずにこちらへ向けてくるその顔が、嬉しくもあり、心苦しくもあった。
「当然だろ。ここでの生活も大分慣れたから、最初の頃みたいにはならねぇよ。だからそんなに心配するな」
水月は肩をすくめて微笑を浮かべると、一歩斜めに後退していずみに部屋へ入るよう促す。
さらに笑顔を深くして「ええ」と頷き、いずみは部屋に足を踏み入れて扉を閉めた。
「トトおじいちゃんが、少し休んでから夕食にしようって」
そう言いながらいずみは部屋の隅に薬箱を置き、埃が入らないように薄い布を被せる。
彼女がこちらへ振り向いたのを見計らい、水月は小さく手招きして、折り畳んだ紙を差し出した。
「時間があるなら丁度いい。これ、頼まれていた調べ物だ。今の内に読んでくれ」
いずみはハッと息を引き、一度大きく喉を動かす。
神妙な顔つきで水月の前に立つと、両手で紙を受け取って広げた。
食い入るように文字を見つめるいずみの顔を、水月は黙ったまま見つめ続ける。
何度も瞳が左右に動き、瞬きの度に彼女の長いまつげが揺れる。
部屋の薄暗さも手伝って、その顔がやけに艶かしく見えてしまう。
危うく手が出そうになり、水月は慌てて視線を外し、怪しまれないように自分の寝台へ腰かけて距離を取る。
聞こえないように細長く息をついていると、いずみが顔を上げてこちらに目を向けた。
「ありがとうナウム、すごく参考になったわ。……あ、これはこのまま私が持っていても大丈夫なの?」
「できれば中身を覚えたら燃やしてくれ。それまでの間は肌身離さず持って、誰にも見られないようにしてくれよ」
人に見られないのならば、それに越したことはない。
しかし万が一見られたとしても、城の誰もが知っている内容だ。字もわざと汚くして、言い回しも幼稚なものにして、子供が好奇心で調べただけのように見せている。変に勘ぐられることはないだろう。
キリルが見ればいい顔はしないだろうが、王の治療に必要な情報だと言えば鉄拳は免れるだろう。そんな思惑が水月にはあった。
いずみは「分かったわ」と大きく頷くと、すぐに紙を畳んで身につけている薬師のローブの内ポケットへしまう。
それから口元に手を置き、真剣な顔で考え込んだ。
しばらくして、いずみは意を決したように眼差しを強くして水月を見据えた。
「ずっと陛下の診察と治療を続けているけれど、やっぱり普通の人よりも回復が遅いの。だから投薬だけじゃなくて、食事にも手を加えたいんだけど……キリルさんに提案しても良いかしら?」
「食事?」
水月が聞き返すと、いずみは「ええ」と答えて言葉を続ける。
「陛下の体調に合わせた食材で料理を作ってもらったり、隠し味に薬草を使ったりすれば、今よりも回復が促されるわ。それに別のご病気を未然に防ぐこともできるから……」
すべてを語らなくても、いずみの狙いはよく分かる。
口に出したことはさることながら、食事からジェラルドの体を弱らせている物の正体を探りたいのだろう。
治療に必要なことならキリルも反対しないはず。だが、やることが増えれば、それだけ目を付けられやすくなる。
もし狂気の原因が毒だとすれば、それを盛った人間がいずみに気づき、始末しようとしてくるだろう。
少しずつでも改善の兆しが見られるなら、このままを続けたほうが良い気もする。
だが、治療の期間が長くなる分だけ、気付かれる危険性も高くなる。
どちらを選ぶべきなのだろうかと、水月が腕を組んで悩んでいると、
「陛下のお体の改善に繋がるならば、是非やってもらおうか」
唐突に扉のほうからキリルの声が聞こえて、水月といずみはそちらを振り向く。
気配もなくキリルが現れるのは、もう日常茶飯事になっていた。おかげで大分慣れてしまって、いきなり現れてもあまり驚かなくなっていた。
それにジェラルドの診察へ行く時は、必ずキリルがいずみの護衛についている。だから完全に気配を感じられなくても近くにいることは分かっていた。
水月は両肘を太腿に置き、無機質なキリルの瞳に視線を合わせた。
「あんまり動き過ぎると、目立って正体がバレやすくなるぜ。それでも良いのかよ?」
「娘の代理でトトに台所の者たちへ指示を出してもらう。もし気付かれても始末されるのはトトだけで済む話だ。問題ない」
キリルにさらりと非情なことを言われて、いずみの顔から血の気が引いている。
誰だって、いつも世話になっている人間があっさり捨て駒扱いをされてしまえば、いい気分にはならない。
水月も頭ではトトよりもいずみの方が大事だと割り切っていても、反発を覚えてしまう。
しかし回りくどく言われて誤魔化されるよりは、包み隠さずに言ってもらえた方がありがたい。
ムッとなりながらも水月が反論せずにいると、キリルは懐中時計を取り出し、蓋を開けて時を読む。
そしてパチンと蓋を閉じると同時に踵を返した。
「今から陛下にお伝えしてくる。娘、話が決まり次第、すぐ取り掛かれるよう準備しておけ」
いずみの返事を聞かずして、キリルは一切の音を立てずに部屋を出て行く。
何度か目を瞬かせてから、いずみの目が潤み始めた。
「どうしよう、トトおじいちゃんが……」
泣かせたくない一心で、水月は慌てて口を開く。
「だ、大丈夫だと思うぜ。今じーさんが居なくなったら、キリルたちも色々と都合が悪くなるからな。最悪の状況にならないよう、全力でじーさんも守ってくれる。オレもそうならないように動く。だから心配するな」
キリルはいずみという存在を隠すためにうってつけの人間を、安易に見捨てることはしない。利用価値がなくならない限りは、その価値を最大限に引き出そうとする。
そんな確信を持っていることを自覚して、水月は心の中で苦笑する。
(憎くて仕方がないヤツなのに信用してんのか、オレは――)
瞳から潤みが消えて落ち着いていくいずみを見ながら、ぼんやりとそう考えていた。
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