第2話 条件!?
授業の中でもっとも退屈で、居眠りする生徒を続出させるのが国語だ。
しかも、この昼休み明け五時間目の国語の授業は、より多くの生徒を眠りの中へと誘う。
御年五十九歳の春日井先生は、小さな覇気のない声で一人勝手に授業を進めていく。
目の前に生徒がいるということを忘れてしまっているんじゃないか、と思うほど、淡々と一方的に授業は進んでいく。
質問を投げかけることもないし、誰かを指名するといったこともない。
筆圧が弱いせいで、黒板の字は見にくいし、字は小さく、汚い。
本当に国語教師なのかと疑ってしまうほどだ。
普段ならば、なにも構えることなく、ただぼおっと考えごとをしながらやり過ごすリラックスのための時間なのだけれど。
僕は神経を鋭く尖らせ緊張していた。
硬く強く胸を叩くように鳴る心臓の音が緊迫感を高める。
額に汗が滲み、指先が小刻みに震える。
どうしよう、という言葉が頭の中をぐるぐると回り止まらない。
けれど、たった一瞬のこと。
あっという間に終わってしまうことだ。
振り返る間もなく過去になっていく。
それに、僕のようないてもいなくても変わらない奴がなにをしたって、誰もどうも思いもしない。
友達もいないのだから、なにをしたって、誰かになにかを突っ込まれることだってない。……はず。
そうなんとか自分を奮い立たせ、僕はそろりと誰にも気づかれないようにゆっくりと右手を挙げた。
手を挙げると、指先の震えが腕へと伝わり、気を抜くと腕が折れてしまうような気がした。
廊下側一番後ろの席せいということもあり、隣の女子すら僕の右手に気づいていなかった。
けれど、それでも、僕は一本の震える棒になってしまった右手を懸命に高く伸ばした。
「おお。ん、木曾井君」
春日井先生のその声にではなく、視線にクラスの何人かが振り返った。
見る見るうちに顔が熱くなっていくのがわかる。
「ん? 木曾井君、どうした?」
顔がより熱くなった。
僕へと注がれる視線が増えていく。
「木曾井君?」
「あっ、あの。木曾井、では、……ありません。大村、です」
「あれ? 木曾井君は隣のクラスだったかな。ごめん、ごめん。大村君、どうしたかな」
「なっ、あっ。あの、なっ……。あっ、っと」
胸に言葉が支え、口はおろか、喉までも押し上げることが出来ない。
「そ、そ、その」
「うん? どうした? トイレかい?」
言葉の代わりに手振りで否定の意思表示をする。
「うんんんん」
春日井先生は老眼鏡を鼻先にずらし、眼鏡の上から僕を見た。
時間を引き延ばせば延ばすほど辛くなる。
「あの、あっと、ない……」
「ない?」
「はい。ええと。ない」
「ない? なにがないんだね?」
「あの、ない、ない…………」
「んんんんん?」
声を、言葉に!
僕は、僕の中にある力を総動員し、喉から振り絞るように言った。
「ないすとぅみいちゅう」
クラスは静寂に包まれた。
その静寂はもちろん、僕が生み出したものだった。
そして、一拍分の静寂の後、教室は異様という形容がぴったりと合うざわめきに包まれた。
うるさすぎず、囁きが積み重なり生じたざわめかしさ。
僕は対角線上の窓際最前列に座る女子生徒を見た。
けれど、彼女はそんなざわめきとは無関心に一人頬杖をつき窓の外を眺めていた。
「はい」
春日井先生はパンと大きく手を叩いた。
「はい、はい。みんな」
続けて二度を手を叩く。
幾分静まりかえった教室に向かって春日井先生はいつものトーンとボリュームで言った。
「はい。ミスター、大村。ナイストゥミーチュートゥー。君とは授業の後でゆっくりと話をすることにしよう」
授業の後、僕は春日井先生に連れられ職員室へと向かった。
職員室に入ると、春日井先生が担任を呼び、僕は二人の教師に授業妨害の理由を尋ねられた。
事の真相については、もちろん口にしなかった。いや、出来なかったという方が正しい。
僕はただひたすら謝罪の言葉を連呼し、壊れたぜんまい人形のように頭を下げ続けた。
寝ぼけていて、ついつい口から言葉が漏れてしまったんです。
授業を妨害するつもりなんてまったくなかったんです、と何度も疑わしいと思われても仕方のない言い訳を繰り返した。
信じてもらえたかどうかは別として、それでも簡単に解放されたのは、僕だからだろう。
事件となることはもちろん、目立ったことをしたことも一度もない。
それどころか、いてもいなくても誰にも何にも影響しない希薄な存在の一生徒。
そんな僕が授業妨害など出来るわけがない。
そう考えたからだろう。
今後はしっかりと授業に集中すると約束し、僕はそそくさと職員室を後にした。
六時間目の開始のチャイムと同時に教室に戻ると、僕はクラス中の視線を受ける的となった。
どの視線にも好意は含まれていなかった。
大半が、奇異なものへと向けられる、疑うような、探るような、訝しさが込められた視線だった。
そして、残りはというと、軽蔑色の濃い嫌悪感を露わにしたものだった。
僕は、その幾つもの視線から逃げるように、教科書とノートの間に転がるシャープペンシルに目を落とした。
あと九個。
十個くらいならなんとかなると思っていたけれど、なんとかするには記憶消去を行う必要がありそうだった。
一日一つで十個。
私からの頼み事に応えること。
これがドラゴンからの要求だった。
「簡単簡単。一日一個だけなんだから」
数の問題ではなかったけれど、承諾する以外に選択肢はなかった。
「じゃっ、頼み事はLINEで送るから。はい、ほらっ。ふるふる」
「ふるふる?」
「はあ? なに、あんた。LINEやってないの?」
便利すぎるアプリとしてその存在は知っていたものの、その便利さは友人がいて発揮されるもの。
一人も友人と呼べる相手がいない僕にとっては必要性ゼロのアプリだった。
「それ、なんのためのスマホなのよ。今すぐダウンロードして。はやく!」
ドラゴンが要求伝達手段としてLINEを選択したのは、誰かに僕と話をしているところを見られたくないから、という理由からだった。
酷い理由だったけれど、僕は傷つきも苛立ちもしなかった。
その気持ちは僕だって同じだったからだ。
けれど、もちろん、そんなことを口にすることは出来なかった。
LINEをダウンロードし、ドラゴンが言った『ふるふる』という機能を使い、僕たちはLINE交換をした。
ともだちの欄に『鬼人』という名がnewの文字と共にあった。
そんなニックネームを好んでつける女子がいることに、僕は色々な意味で感心させられた。
そして、この日の二時間目終了後の休み時間。
鬼人からの初トークにスマホが震えた。
『1/10 国語の授業中に挙手をし、Nice to meet you と言うこと』
全然無理な頼み事だった。
出来るわけがない。
だから、僕はすぐにその旨を伝えた。
『出来ない』
『これは約束でしょ。拒否するなら、昨日のことをみんな前で話す。押し倒されて、iPodを奪われたあげくに壊されたって』
『出来ることと出来ないことがある』
そう返した直後。
大きな音を立てドラゴンは突然立ち上がった。
クラス中が静まりドラゴンに注目が集まった。
『五秒だけ待つ。それ以上は待てない。待たない』
どうやら、完全に本気のようだった。
『わかった』
僕はすぐにメッセージを打った。
こう答えるしかなかった。
犯罪者扱いされて残り二年を過ごすのは辛すぎる。
そして、それから数時間後、あの国語の授業中の出来事が起こった。
というか、起こしてしまったというわけだ。
お陰で僕はそのときを境に、希薄な幽霊的存在から奇異な危ない人間として、よりクラスの中で浮いた存在となった。
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