第十日目 指先の物語

「指」にまつわるエピソード

母の指

 母の、とタイトルについているとなにやらいい話でもするかのようだが、違う。

 実はどうしようもない話だ。

 ぶっちゃける。

(今日は風邪をひいているので思考がマゾっぽくなっていることをご承知おきください。そんでもって本音はどSですからツッコミも当然ストレートに参ります)


 風邪は万病のもとと申します。体の弱いお子さんやお年を召した方などは特に注意されたい。そのお年を召した方にもならない上にとうにお子さんがいてもおかしくない年ごろの娘さんが風邪をひいたついでに、今日は仕事が休みよ針仕事でもしようとミシンを扱っている老いた母親のそばで申しました。

「おかーさん、私、買いたいマンガがあるの。紀伊国屋まで連れてって」

 どこへ出かけるにも自分の足では歩きません。なぜなら、この方ひきこも……大のお嬢様だからでございます。母は母でじゃあ、あたしは行きつけのあそこでタイムサービスのヘアカットをしてもらおう、こう申すのでした。


 そして行った先ではお嬢様、老いた母親のポイント還元カードを借り受け今日は平日なのに、別に駐車カードは必要ないのにただただ、彼女のカードにポイントを入れるためだけに紀伊国屋まで持ってまいりました。ところが! 金銭感覚のないこのお嬢様、たかだか五、六百円台の漫画雑誌を買うのに、うろうろとし、しまいには夏フェアーとある小説シリーズを大人買いしてしまいます。


 ここは一旦、筆を休めましょう。本題はここではないのをご承知おきください。前ふり長いなコノヤロウと思っても、話の長い女性作家です。呼吸を長くしてお付き合いください。ハイ、深呼吸――。


 しましたね? 深呼吸。偉い偉い。


 さてここからが本題、母は鼻の穴が大きい。はなくそも大きい。なのでしょっちゅう鼻をほじっております。そしてその指でいろんなものを触ります。今日はいつもとちょっと違うと思わない? よく見て、よく見て? と何か言いたそうです。そうです、いつものアレ、が始まったのでございます。いいですか? 話は老いた母親になりました! 意味がわからない? それは今から解決しましょう。

 母は右利き、でございます。

 ところが今日はしょっちゅう、左手をパラパラと動かしております。もちろん、鼻くそを払っているのでございます。車の運転席でハンドルを右手で持ちながら、(右ハンドルです。国産です)わざわざ窓を左手で開けて、そこで表にパラパラと指先を動かしております。ですからそこがおかしいんですよ!


 結局なにが言いたいかと申しますと、結論を述べますが悔しいので読者の方々にも悔しい思いをしていただきたい。ほんのつまらない見栄ではございますが、それでも! 自分の味わった苦痛を誰かに示したい、教えたい、伝えて、同情してもらい、憐れみを買い、情けないわねと笑っていただきたいのでございます。

 それでは始めます。


 第一弾、こういうセリフはダメな例。

(母はなぜだか右の人差し指のみをピーンと伸ばしてハンドルを握っております)

 そしてなにか気づいてほしいのよと話し始める、ここからです!


「こないだ……鯛のうろこをとったでしょ」

 それは存じておりました。たいへんな想いをされたであろう。四十センチ以上もある鯛とそれよりはこぶりなキンメダイ三尾。百円ショップで買ったという器具でぴきぱき逆さになでるようにうろこを剥いでいましたねお母さん。

「器具がね……指を傷つけたみたいでね……」

 さあ、勘の良い方、おわかりですね? 母の要求が。ですが娘はまだまだ気づきません。

「人差し指、痛くてね……怪我しちゃったの」

 ほおん、と娘は考えて、

「じゃあ、衛生手袋しなよ」

 と再三言いつけます。ところがお母様(老いた母親)は続けざまにこう言います。

「腫れちゃって、痛いのよ……ほら、ほら」

 と右と左の人差し指をくっつけて、頭より高く持ち上げます。平日のたいしてこみあってもいない一般道ではありますが、信号機のお色はすでに真っ青。後ろの座席に座っていた娘は、クラクションでも鳴らされはしないかと背後を気にし、

「衛生手袋、プレゼントしようか?」

 とスズメの涙の横掛けカバンの財布事情、お察しください月末近く。中身は白銅硬貨が二、三枚というところです。そんな情けない事情を暴露したいわけもございません。心底心配したのでございます。

 しかし老いた母の繰り言は続きます。

「見て……ほら痛い」

 娘は腹が立って一回キレましたがそれは可愛い方のキレ方。

「おかあさん、解決法を提案してるのにどうして同じことばかり言うの?」

 とツッコミをかけます。ところが母の攻勢いまだ変わらず、行きつけのバーバーまで続きます。すでに買い物は終わっております。バーバーというより美容院でございますわね。失礼。ババアだけにバーバー、などと申したいわけではございません。ひとケタも思いません。実の母親を婆などと……。


 そしてほらみなさん、どうして筆者が悔しがったかおわかりでしょう?

 母の指は左と比べて約一点二倍に腫れておりました。まだ途中でございます。どうか止めないでください、最後まで申しますから、もう少しだけ。わたくしは心底同情し、道端を歩きながら言ったのでございます。

「衛生手袋つけなよ。オロナインも塗ってさ」

 それは多少蒸れそうですが、案外悪くはないアイデアに思えました。ところが母、

「オロナインはもうつけたわ」

 え? それでそんなに腫れてるの?

「オロナインていうか……ムヒを」

 ……ムヒ。塗ったらスース―する、蚊に刺されの薬。かゆみ止めを何故に傷口に塗り付けるか。

「ムヒ塗ったら腫れるわよ」

「あら、だって湿疹にいいっていうから……」

「……」

 絶句。ムヒは傷口と粘膜には触れさせてはいけません。使用法をお間違えの無いようご注意願います。


 そして普段ろくに出歩かない娘さんは呆れたのでございます。一体どうしてこんな気持ちで散髪につきあわねばならないか。ぜったいネタにしてやろう。そうしよう。かたく決心はすれども、髪を切ったらまず褒める。しばらくたったらわかったけれど、短く刈られすぎたのがお気に召さなかった模様。

「カットは一週間くらい、パーマは一か月後くらいが一番しっくりくるんだよ」

 とそっとフォローを入れて、母も

「そうね、一か月後ね」

 とスカスカの襟足をそっとなで。

「うん、花嫁さんもきれいなウェーブを出したいとき、式の一か月前にパーマをかけるってさ」

 どこから仕入れた情報か? 知らずに耳に入ったんでございます。行きつけのバーバーで。


 そして帰りはスーパーマーケットでお買い物。母、不自然にピーンとはった右手の人差し指を体の後ろへかくして、鼻をほじった左手でネギなど触ります。

「おかあさん、ちゃんと手は洗った?」

 そのとき母はしまったという顔をしましたが、これはフェイク。どんどん触ります。飲み物から、アサリのパックまで。バナナも触ります。どうかスーパーマーケットの営業者さんは全品、抗菌パックでお願いいたします。はあ。こういう母もいますので。

 普段歩かない娘さんは限りない慈悲の心で、買い物かごを持ち、老いた母親の抱えるトートバッグを持って駐車場から自宅のキッチンまでえっちらと運んだ次第であります。ああ、しんど。


 結局、母は人の話を聞かない上に、実はかわいそうな身の上を気にかけて欲しい、それだけなのでございます。遠まわしに言おうとするから、会話がすれ違って成り立たない、それだけ。こういうときはやさしい言葉をかけてあげるだけで、本当はなんにもしてあげなくていいのかもしれません。疲れるし。足がつるし。母との無限の争いは大きな苦痛だけを残して幕をとじるのでございます。さようなら。さようなら……。


*ちなみに鯛のお料理の出たパーティーに、わたくしは招かれておりません。

どうしてねえねはこないのと、かわいい甥っ子たちが言いました。作ってはおりません、そう、母が申しておりました。もっと言ってやって!




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