第18話 海辺の家

 死んだ妹の家を訪れた。


 砂浜を見下ろす小さな木造の家だ。白いペンキがあちこち剥げかかり、傷んだ木目からは隙間が覗いていて、吹き抜ける風が寂しい音を奏でていた。ドアには鍵が掛かっていなかった。中は荒らされた形跡があり、様々な調度品が床に散乱していた。それらを避けて足を運ぶたびに、ミシミシと床板が軋んだ。





 妹が親元を離れたのは数年前だ。母はすでに他界しており、父親と不仲だった彼女は、度々家出をしては警察に連れ戻されるという日々を送っていた。そして高校を卒業すると同時に、遠く離れたこの町に移ってきたのだ。取り立てて何もない、廃れ行くこの僻地に。


 もっとも、私が妹の所在を知ったのはついニヶ月ほど前のことだ。音信不通だった彼女から突然電話が入った時、私は思わず受話器を落としそうになったものだ。その時は何ということもない話をしただけだった。次に電話があったのはその一週間後であった。その時、自分がどこにいるかを話してくれた。


 それからは週に一、二回電話がくるようになった。そして数日前、突然に彼女の訃報が届いたのだった。葬儀に立ち会ったのは私だけだった。死因は腹部の刺傷による失血死だった。犯人はまだ見つかっていない。


 警察の聴取を上の空で終えた私は、一人彼女の住んでいたこのあばら家同然の家に足を運んだ。



 ここ数年音信不通だったのに、なぜ突然連絡などしてきたのか、ついに聞くことはなかった。棺の中の彼女は苦痛に歪んでいた。髪を触ると、私と同じくせ毛が指に絡みついた。


 ごめんね、そう囁いた私に、彼女は何ら反応を返すことはなかった。その時になって初めて私は泣いた。涙が頬を伝って彼女の額を濡らした。





 テラスに出ると、薄汚れた布張りのソファが目に入った。腰を下ろすとギシッと音を立てた。彼女もここから海を眺めていたのだろうか。磯の匂いが風に運ばれて鼻を突いた。灰色の砂浜に白い波が寄せては返していく。そのざわめきに心をくすぐられる。彼女は、ここで独り何を思っていたのだろう。


 忌まわしき父親との関係をあの群青の波が浚ってくれると思っていたのだろうか。私が彼女を残して、自分だけ逃げ出したことを恨んでいたのだろうか。


 何もしてあげられなかった。ただそれだけが棘にように心に突き刺さっていた。怖かった。かつて私自身、誰に相談することもできず一人背負っていた。だが、いざ自分の前に自由が広がると、結局はすべてを妹に押し付けて逃げ出してしまったのだ。


 婚約者にすべてを話そうか悩んだこともあった。しかしそんな事情を知れば、彼は私を見放すかも知れない。そう思うと身動きが取れなかった。




 ギギィ、と家鳴りがした。回想から戻った私は、辺りが暗くなり始めていることに気付いた。そろそろ戻らねば。立ち上がった私は、床の上を黒っぽい影が走り抜けるのを見た気がした。それは猫くらいの大きさで、テーブルの下から廊下の奥へ消えた。


 嫌な予感がしたが、やむなく暗い廊下を進んだ。玄関扉に手をかけたとき、すぐ横のドアの向こうから物音が聞こえた。

 

 ドアは半開きになっていたので、隙間から恐る恐るそっと覗いてみる。そこには洗面台があり、音は奥の浴室から響いているようだった。


 鼓動の高鳴りを感じながら、好奇心を抑えきれなくなって浴室までそろりそろりと足を運んだ。浴室からはヌチャリ、ヌチャリと粘着質な音が断続的に響いてくる。水漏れとは明らかに違う。


 ガラス戸の向こうがやや明るいところを見ると、浴室には窓があるのだろう。震える手で引き戸を開く。ほんの僅かに音が鳴ったためか、ヌチャヌチャした音がパタリと止んだ。



 やはり動物がいるのだろう。もし猫なら、妹が飼っていたものかも知れないし、それなら私が引き取るべきだろう。


 一気に引き戸を開けると、ガラガラと安っぽい音が響いた。そこにいたものを見て、私は悲鳴を上げて脱兎のごとく車に駆け戻った。大急ぎでエンジンをかけ、アクセルを踏み込む。もはや何の未練もなかった。二度とここには来るまい。あのおぞましい生物がいる限り。


 妹はあれに腹を食い破られたのだ。葬儀場で彼女に妊娠の痕跡があると言われたものの、何も聞いてなかった私は連絡すべき相手も分からなかった。だが、もしその相手が実の父親だとしたら。


 彼女は一人出産のために、己と子供だけで生きていくためにこの地を選んだのかも知れない。父親を明かすことのできないその子供とともに、すべてを忘れて生きていこうと…………。だが、その思いをすべて無に帰したのは、彼女自身の腹の中で育まれた忌み子…………。


 胎児には不釣り合いな大きな牙を生やし、無骨な筋骨を持つ“あれ”が、彼女の抱えた罪悪感と汚辱感、父への憎悪を一心に引き受けて、文字通りの鬼子となり果てたのだとしたら。


 ヘッドライトの向こうが闇に沈んでいく。その時、車の屋根に何かがドスンとぶつかる音がした。フロントガラスに赤黒い何かがぬっと現れる。視界の隅に、赤ん坊には逞し過ぎる手足が見える。


 ああ、これは悪夢に違いない。目が覚めれば、いつも通り愛しい彼の寝顔がきっと…………祈る私の目の前で、ぎょろりとした目を見開いたそれが、牙を剥き出しにしてオギャア、と野太い声を響かせた。

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