#2

 朝の教室は生徒たちの声によって賑わっている。

 それぞれの集団で、昨夜あった話や宿題の話、和気藹々と生徒同士で語り合っている。

 教室に着くと、俺は自分の席にカバンを置く。一緒に入ってきた幼馴染は自分の席にカバンを置くと、幼馴染の友人の西尾がいる集団へと向かっていった。先程、覚悟を決めた彼女からは彷彿とさせない笑顔が、そこにはあった。

 幼馴染は変わろうとしている。その変化を応援していた自分がここにいる。しかし、あの言葉を聞いたときの自分の気持ちはいったい何だったのであろうか。今まで知ったことがなかった感情に対して、俺は疑問を隠しきれなかった。


「難しい顔して、どうしたんだ?」


 声をしたほうに顔を上げると、そこには板倉がこちらを覗き込んでいた。


「別に大したことじゃない」

「そうか? えらく深刻そうな表情しているもんだからさ」


 この男は、周囲に気を配ることができ、ふとした変化にも敏感に反応し、行動を起こすことができる。そういったところに、幼馴染は魅力を感じたのではないか。

 板倉は近くに空いていた席に座り、俺の心情を見透かすような面持ちでこちらを覗く。


「こういったときはだいたい難しく物事を考えているだけなんだよ」

「難しく……ねぇ」


 俺は幼馴染の告白について難しく考えてしまっているのだろうか。俺が考えている物事は、本当にそこになのであろうか。

 板倉は俺の肩を叩き、気さくな笑顔を向けてくる。


「そうだよ、実際はめっちゃ簡単なんだよ、答えっていうものは」


 答えは簡単に見つかるものなのであろうか。高校数学や高校物理で扱う内容では、与えられた問題に対して、必ず一意となる解が存在する。テストであってもそうだ、問題があり、それに対する模範解答というものが存在する。

 しかし、人に纏わることにおいて、正解になるものはありえるのだろうか。何が『善』となり、何が『悪』となるのか、そういった議論は古代ギリシアにおいてもプラトンらが探求していた。現在においても、どういった行いが善いのかなんて、形作られているわけではない。もし、形作られており、体系化・定式化されているのであれば、この世の中に住んでいる人々はその枠に従って生活をしていれば、世の中すべて善い行いで満たされるわけである。

 と、変な思考をしているのであるから、簡単な答えを見つけることができないわけなのか。


「簡単に言ってくれるねぇ、俺が何について考えているか知らないのに」


 俺は彼に対して、嫌味ったらしいことを言い放つ。

 そもそも、俺が今抱えてるものは、そういった問題に対する答えを問うものではない。

 自分が抱いた、あの感情の意味を知りたいのだが、それをどのように説明したらいいのだろうか。俺はその術がなく、教えることができない。そして、何よりも俺が答えることができない理由がある。

 彼は、少し笑いながら、こう告げた。


「だって、お前、教える気がないでしょ?」

「ごもっともで」


 それは、幼馴染の告白といった内容を、彼女より先にその相手に教えるわけにはいかない。これは彼女から伝えられるべきことで、俺なんかが口を挟むことなんてしてはいけない。

 これは彼女を尊重しているという、俺の気持ちの表れなのだろうか。


「とにかくだ、そんなに難しい顔をしていると、心配する奴とかいるだろ、お前には」

「俺が困っているところで、心配する奴なんて、そうはいないだろ」

「少なくとも、俺は心配するぞ」

「板倉……」


 板倉が俺の顔をまじまじと見る。その視線は、俺の視線と合わしているが、本当は俺の本心を見つめているような、そんな眼差しとして感じられた。俺は身の危険を感じ、板倉との距離を置く。

 この板倉の発言は教室内で行われており、教室には俺たち以外にも生徒がいる。無論、このお話を盗み聞きしている人もいるのかもしれないわけで、近くにいたある一部の女子界隈が騒ぎ始めた。

 最初、板倉はどうして騒いでいるのだろうかと疑問に思っていたが、自分の発言を思い返し、この事態を把握する。


「――いや、そういう意味で言ったわけじゃないからな! ってか、そこキャーキャー騒ぐな!」


 板倉が言い訳をするべく、騒いでいた女子の集団に向かっていった。俺はその様子を確認した後、幼馴染のほうを見た。すると、幼馴染と視線が合った。お互いに手を挙げることで反応を示した。こちらが騒がしかったから、彼女も気になったのだろう。幼馴染はこちらの様子を確認すると、西尾たちの会話に戻っていった。


 あの感情の正体は何だったのだろうか。

 俺にはまだ理解することができない。でも、それは重要であれば、また思い出すことではあるし、重要でなければ、忘れされてしまう程度のものなのだ。

 俺は、今日の幼馴染の告白が、無事成功することを祈るだけだ。

 教室の分針が、また一つ、時を刻んだ。

 それは、彼女が告白するまでのタイムリミットを刻んでいるようで、俺はなぜか悪寒を感じてしまった。

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