夏の檻

相楽二裕

1

 路地の入り口は下りの石段になっていた。階段を降りて先へ進むと、そこはもうこの場所にゆかりのある者だけしか知らない異世界に迷い込んだようだ。

 路地裏、というよりは私道である。人ふたりが荷物でも下げてすれ違おうものなら、どちらかが路をゆずらなければ困難なほどの狭い路だ。何年も修繕されていないアスファルトはでこぼこで、隙間から雑草が勢い良く伸び出している。

 灼熱の陽が射すその路を、西瓜を下げたひとりの青年がのろのろ歩いている。

 狭い路をかき分けるように進んでいくと、突き当りに平屋建ての古い木造家屋が二軒、路を挟んで並び建っていた。

 路はそこで行き止まりである。

 その少し手前、路地の片隅に今では滅多に見ることのない手押しの井戸ポンプが佇んでいた。ポンプの下にはすっかり色の褪せたプラスチック製の盥桶が無造作に置きっぱなしになっている。そこはかつて近所の主婦たちが集ういわゆる井戸端スペースであったが、今はもう、積極的に使おうとする人はいなくなってしまった。

 青年は下げていた大玉の西瓜を網ごと中に入れ、ポンプを漕いだ。冷たい井戸水が勢い良く流れ出し、たちまち盥を満たして溢れた。

「これでよし」

 青年はひとりごち、手ぶらでふたたび歩き出した。

 青年の住まいは二軒並んだ平屋の右手のほうの家である。

 裏手に回り、玄関の鍵を開けて家に入ると、暗い室内には熱気が充満して異様な暑さとなっていた。

 青年は急いで部屋を突っ切り、路地に面している掃き出しを開け放つ。

 戸は木製で建て付けが悪く、力を込めないと開かない。開けるときガラガラというより、ギリギリという音が響き渡る。

 家中の窓を開け放つと、開かれた戸の向こうから一陣の風が吹き込み、篭っていた熱がすうっと引いてゆく。


「あ、耕輔さん、帰ったんですか?」

 その音をききつけて、路地向こうの家の戸が開き、中からタンクトップ姿の若い女性が顔を覗かせた。

「ああ、早和さん。居たんですか。暑いですね」

 女性は手にした竹団扇をハタハタと扇ぎながら、

「ほんと、こう暑いとなんにもやる気がなくなっちゃう」

「そうだ。あとで西瓜、どうですか? 今そこで冷やしていますから」

「えっ、西瓜?」

「善くんの分もありますよ」

「嬉しい! とっても!」

 そう言って、笑顔を綻ばせた。


 田上耕輔は二十八歳。フリーのウェブエンジニアと言えば聞こえはいいが、実態は何でも屋である。ITに関して自分に可能なことなら、何でもやる。

 耕輔の実家は干物屋で、神奈川県の小田原市で『たがみ』という店を営んでいる。干物屋といっても一応株式会社であって、長兄は立派な社長だし、次兄は専務で、結婚して家を出てはいるが通いで勤めている。ほかに従業員も数人いる。だから今さら三男の耕輔が立ち入る隙はなく、その点では気楽なものだから、離れた東京の下町で気ままに過ごしている。

 東京に出てきてそこそこのIT系企業に就職したが、あまりの残業量に体をこわして入院した。幼少の頃から優柔不断で主体性のない子と言われて育ったが、この時ばかりはさすがにキッパリと辞職を決意した。

 その後復調してから、たまたま知人に紹介されたいくつかの中小企業から個人でできるような小さい仕事を貰って糊口をしのいでいる。

 昨今、中小はどこも厳しく、短納期を求められる割に単価が安い。

 だが、性格も温厚で無理な仕事も嫌な顔ひとつせず無難にこなす耕輔は重宝がられた。

 今日も、その得意先のひとつの担当者と打ち合わせをしてきたばかりだ。ついでにパソコンの操作がわからなくて頭を抱えていた女事務員がいたので、簡単な手ほどきしてやったところ大変感謝され、実家から送ってきたのでと西瓜を呉れたのだ。


「うわ、大きい。どうしたの」

「得意先の人に貰ったんですよ。実家が西瓜を作っているとかで、車にたくさん積んできて、会社で配り回ってたみたいで。包丁、あります?」

「あっ、ちょっと待って」

 早和の家の縁側に並んで腰をおろし、ふたりは西瓜を切った。

「夏はヤッパリこれだわね」と言いながら、早和は種を縁の下に吹き散らした。

「いいんですか?」

 早和があまりに無邪気に種を撒くものだから、耕輔がたしなめたものである。やや顰め面になっていたかもしれない。

「あら。田舎では当たり前にやっていたわよ。それでも縁先に西瓜畑が出来たなんて話はついぞ聞いたことがないわね」

「そりゃあまあ、そうでしょうが」

「甘ーい! おいしい!」

「三浦の西瓜だそうです」

「とっても助かったわ。お金なくて、お昼をどうしようかと思っていたところなの」

「西瓜はお昼のかわりにはならないでしょ」

「食事と思えば食事なのよ」

「ちょっと。善くんの分、ちゃんと残しといてあげてくださいよ」

「おいしい」

 早和は次から次へと、子供のように西瓜を平らげた。


 耕輔は就職してからしばらくの間、会社が世話をしてくれたアパートに同僚とふたりで住んでいたが、その同僚となかなかソリが合わずにいた。仕事が忙しくて顔を合わせることも少なかったので数年間はなんとか辛抱したが、耕輔が部屋を空けがちなのをいいことに、しまいにはしばしば部屋に女を連れ込むようになった。さすがにいたたまれなくなり、ここを見つけて移り住んできたのだ。


 蕪井早和と、蕪井善次郎の姉弟は、越してくる以前から隣家の住人であった。姉の早和は耕輔よりもひとつふたつ年が上だと思うのだが、未だに年齢は訊けないままでいる。職業はイラストレータだというが、それもあまり売れてはいないらしい。いくつか作品を見た限りでは、ほわんとしてわりと耕輔好みの作風だった。

 弟の善次郎は二十五歳だそうなので、耕輔より三つ下である。都内の会社に勤めているといい、多分にもれず忙しい職場のようで、このところ夜遅くまで残業続きだ。たまに顔をあわせて挨拶するときなどは、自分より若い青年が忙しそうにしているというだけで何だか申し訳ない気持ちになってしまう。


 耕輔は元来人に馴染みやすい質でないため、近所付き合いには甚だ不向きだ。それがここまで親しくなったのには、切っ掛けがあった。

 ある雨の日、姉の早和が家の鍵を持ったまま何処かへ買物に出掛けてしまったことがあった。突然の雨で傘も持たずに帰宅した善次郎が全身濡れ鼠になって家にも入れず震えながら途方に暮れていたところ、これに気づいた耕輔が自分の家に招いて雨宿りをさせてやったことがあった。

 以来、自然と付き合いがはじまり、今では調味料を貸し借りしあったり、こうして縁先で西瓜を食べるような仲にまでなった。どちらかと言えば人の苦手な耕輔であったが、この姉弟に対しては割と自然に振る舞えた。


「善くんは今日も遅いんですか」

「ええ。このところずっと深夜」

「大変ですね」

「だからね、西瓜なんて食べている時間はないと思うのよ」

 と、皿に取り置いた善次郎のぶんを物欲しそうな目で早和は見る。

「ちゃんと取っといてあげてくださいよ」

「わかってるわよ。疑り深いなあもう」

 たぶん、この西瓜も善次郎の口には入らないだろうな、と耕輔は思った。

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