16.コーヒーと花火

 ***


 潮風、磯の匂いが鼻孔を擽る。波を斬り裂くように力強く船が進んでいくのを見て、イアンは溜息を吐いた。取り敢えずマーブル大陸を出る船には乗った。乗ったが、何故自分がそんな行動を取ったのかが分からない。

 まだバルバラと決着していないし、そもそも大陸を出る気は無かったはずだ。この船がちゃんとアクリフォ大陸に進んでいるのかは分からないが、このままでは帝国との確執は終わってしまう事だろう。


 ホムンクルスの勢いに押された?だからこんな二度手間になる行動を取った?


 そう、間違いようもなくそこだろう。人工物の心の籠もった迫真の言葉に負けたから、今ここにいる。


 自己分析を終えたイアンは甲板を見回す。人はあまりいない。出航して1時間半が経ったし、疲れている者は今から本格的に休憩を取るだろう。


 それにしても船が速い。まるで、もうどこかへ着いてしまいそうな勢いだ――


「あー、イアン」

「おや、どうかしましたか?」


 ふらりとジャックが甲板へ出て来た。その手にはコーヒーの入ったカップを持っており、2つあったそれを1つ差し出す。


「ありがとうございます。それで、何か用事ですか?」

「いや、別に用事はない」

「はい?」

「甲板にいるのが見えたから声を掛けた」

「そ……うですか」


 無言。特に話す事も無いので沈黙が流れる。

 それを先に気まずいと思ったのは、どうやらジャックのようだった。


「大陸から出られそうで良かったな。あんたはアクリフォ大陸に着いたらどうするんだ?」

「どう、も何も。またマーブル大陸に戻りますよ。私はバルバラ少佐と決着をつけなければならないのですから」

「一人で?何でそんな事……」

「七欲――人間にとっては必要不可欠なものです。恐らく、心を持つホムンクルスの貴方にも当て嵌まる事でしょう」


 目を細めたジャックだったが、ぎこちなく「そうだな」、と頷いた。時々人らしい態度を取る事を躊躇うのは何なのか。人間らしいと太鼓判を押してやったのだから、そのように振る舞えばいいのだ。それこそ、欲望のままに。


「それが何だって言うんだよ」

「貴方には何度かそういう話をしましたが、私は人が見せる欲望の中に人の本質を視たいと思っています。人は欲望へと突き進む時、最も美しく苛烈に燃えるものだからです。花火を鑑賞するのと似たようなものでしょう。私は煌々と輝く人の欲望を視ていたい。だから私はドミニク大尉やバルバラ少佐に対して欠片も憎しみなど持っていませんし、むしろ愛おしいとすら思っています」

「花火、花火か……。あんなの一瞬で終わるだろ」

「はい。美しい花の命が短いように、花火もまたそうでしょうね。けれど、短いから。一瞬だけ弾けるから、良いのではないですか?ずっと輝き続ける花火に価値はありません。如何に一瞬にして美しく炸裂するのかが肝でしょう?」


 コーヒーに息を吹きかけ、熱を冷ます。不意に視線を上げると、ジャックと目が合った。目が合った事で思い出したが、バルバラとクラーラを相手取っていた時。あの時に目が合ったのは偶然だったのだろうか。それとも、連携を取ろうとしてアイコンタクトを送って来た?


 四散する思考を引き戻すように、緩やかにジャックが言葉を紡ぐ。


「それだと――あんた自身もいつか花火みたいに消えてしまいそうだな」

「因果応報。人の生を花火のように散らしている私の生も斯くあるべきでしょうね。否定はしません。正直な所、自分の老後など全く想像出来ませんし」


 カップの中身は空であるにも関わらず、コーヒーを飲むかのようにカップを傾けるジャック。空回る行動は、何か別の行動を起こす予兆。それを、かつて帝国にいた頃に学んだ。顧問魔道士を決める準備期間で。


 何か面白い事を口走りそうな予感に、イアンは息を殺してその時を待つ。ややあって、ジャックは予想斜め上を行く、しかしそうであるが故に興味深い台詞を吐き出した。


「イアン。もうバルバラを追うの止めろよ」

「唐突ですね」

「俺が脱走に誘った手前、帝国の人間とぶつかって死なれると気が重いだろ。それに、あんたみたいな人間も俺にとっては初めて仲間と呼べる相手なんだ」

「貴方がそうしたいのであれば、そうすればいいのです。私の「人の欲望を視たいという欲望」を止めさせるという貴方の欲求。私はそれを歓迎します」


 視線が合う。今日3度目で、そしてやはりあの戦闘の時に目が合ったのは偶然では無かった事を知る。


「あんたはどうしたら残酷な事をするのを止めるんだ?」

「――別に私は残酷主義というわけではないのですが。そうですね、まあ……今の趣味より傾倒できるものが見つかれば止めるでしょうね」

「分かった。一緒にもっとまともな趣味を探そう」

「はぁ……。まあ、やってみれば良いんじゃないですか」


 残ったコーヒーを流し混む。他の誰かと対峙した時と同様に扱うには、ジャックのそれは特殊過ぎる。何をしてくるのか分からない不安と期待が綯い交ぜになるが、しかし刺激的なものではないだろうという諦観もあるようだ。

 たまには――こういった趣向も悪くは無いかもしれない。

 無理矢理そう思い込む事で、イアンはジャックに対する考察と思考を閉ざした。

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