№253

 物心ついた頃には家に母と二人で暮らしていました。母は基本的に家に居ません。仕事だったり、彼氏に会っていたり。もともと私に関心がなかったみたいです。小学校も行ったり休んだり勝手に決めていましたが、怒られた事はありませんでした。

 マンションに一人でいると鼻歌が聞こえてきました。母はいないし、テレビやラジオもありません。誰も居ないはずの家のどこかから人の気配がするのは不思議でしたが、怖くはありませんでした。今日も聞こえるな、と思っていました。

 たぶん女性で、優しくゆったりとした鼻歌です。何の歌かは今でも判りません。

 あんまり小学校に行かない私にも高学年になると友達は出来ました。友達は同じマンションの上階に住んでいました。はじめて遊びに行った日、友達の両親はまだ帰っておらず二人でゲームをしていました。ゲームの時間が終わると、友達は「親が帰ってくるまでに宿題を終わらせる」と言い出しました。

 私は帰っても、どうせ夜中まで母は帰ってこないし、友達が宿題をしている間に漫画を読ませてもらう事にしました。

 しばらくすると友達が解答に悩み始めたのか鉛筆の音が止まりました。静かでとても居心地が悪くなりました。同時に無性に寂しくなって机に向かっている友達の背中を叩きました。友達はびっくりして振り返り

「どうしたの?」

 と聞いてきました。

「なんか、静かすぎない?」

 友達はピンとこないようでした。

「普通、鼻歌とか聞こえない?」

「別に、聞こえないよ」

「本当?」

「だって誰も居ないし」

 そう微妙にかみ合わない話をしているうちに友達はいらだち、私は自分のおかしさに気づきました。そのまま変な空気になって解散しました。

 家に帰っても、やっぱり一人でした。いつもの事なのにそわそわと部屋を回っていると、いつも通り鼻歌が聞こえてきたんです。

 私ははじめてそれを探しました。思うとそれまで関心を持つ事を本能的に拒絶していたのかもしれません。探し回るとき、心臓が痛いほどドキドキしていました。

 母の寝室は普段入りませんが、他の部屋は見たのでそこしかありませんでした。そっと覗き込むと、カーテンが閉まって薄暗く何も見えません。しばらくすると目が慣れて影が動いているのが見えました。鼻歌と併せて丸い物がゆらゆら揺れています。それが、徐々に近づいて来て、細く開けたドアから漏れた光ではっきり見えました。

 髪のない女性がこっちを見ていました。首からまっすぐ一本の腕が伸び、手のひらが逆立ちしているように床に付いていました。私を見て鼻歌を歌っていました。

 そこから記憶が曖昧なんですが、気がついたら小学校にいました。残っていた先生が保護してくれ、ましたが何も言えませんでした。そこから10年くらい私は言葉を失っていました。今はこうやって人にあの体験を話せるようになりました。

 私は児童養護施設に入り、母は一度も会いに来てくれませんでした。どうしたかは知りません。養父母のおかげでやっとまともな人間になり、今はなんとか社会人として自律しています。

――役田さんはうろ覚えの鼻歌を披露してくれた。役田さんが帰り一時間ほどして別の方が怪談を持ってきた。その方が来訪早々言った。

 あれ? 女性の鼻歌が聞こえたんですが、あなた一人?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る