第55話
ミリアは贅沢は言わない。スーパーに行けば半額シールを真っ先に探すし、服を買う際には近所の激安店かアウトレットしかないと思い込んでいる。ペットボトル飲料に至っては害悪か何かのように思っていて、いつだって水筒を持ち歩いている。華やかなモデルなんぞをやれば多少は贅沢を言い出すかと思いきや、そうはならない。そしてリョウはそれに少々の不可思議さを感じながらも、安堵している。
しかし、普段からミリアが贅沢なわがままを言ってそれを叱り飛ばしているのなら、百万の渡欧費も一蹴できるが、たまの願い事といえば、「リョウと一緒にいれればいい」などと健気なことを言うから、扱いに困るのである。スウェーデンに行くための百万円は家にはない、と言えばミリアは確実に納得する。でも安易にそんなことを言って、今後ミリアが自分に遠慮してわがままを言わなくなるというのも、寂しいのである。
「リョウ、早く行こう。」今朝方とは全く異なり、ミリアはさっさと制服を脱ぎ捨ててジーンズを履くと、リョウを急かした。
「ああ。」リョウは間もなくミリアが言い出すであろうスウェーデン行きの宣言に焦燥と不安を覚え、なぜだか台所に行って牛乳なんぞを飲み始める。たしか、眠れない夜はホットミルクがいいと聞いたことがあるような、気がして。でも今は当然眠りを欲しているわけではない。眠りのような安堵感だけが、欲しかった。
リョウは誕生日のプレゼントにミリアからもらった、コウモリのキーホルダーの付いたバイクのキーをぐっとお守りか何かのように握り締めると、散歩に連れていってもらう飼い犬のように玄関でそわそわしているミリアに、「行くか。」と一種の決意を込めて、告げた。
風を切りながら、ああ、ミリアが家に来た翌日、こうしてバイクに乗せて買い物に行ったっけ、とリョウは感慨深く思う。そのミリアがもう、高校生になろうとしている。
あの時なんとミリアは小さかったろう。か細く、言葉も出ず、ただ瞳ばかりを大きく見開き、常に何かに恐れ戦いているような、憐憫誘う子供だった。そう、ひたすら、憐れ――であった。そういう感情を初めて抱いたのが、あの時だったのだから、はっきり覚えている。それまでの自分は小さなもの、弱いものをとことん軽侮していたし、見ることさえ拒む程だった。だのに、どうしてあの時ばかりは小さなミリアを守ろうと、そう、思ったろう。
そこまで考えて、リョウはふと、あの時、ミリアが必死に生きようとしていたことを思い出した。自分に縋り付き、ギターを習得し、そして自分を圧し続けていた絶望を音楽によって昇華させようとした。そして、させた。だから、自分はミリアを愛した。自分がミリアを愛したのは、他の何でもなく、あの、生き様だった。
リョウは自分の腰にしがみ付いているミリアの細い腕をちらと見て、微笑んだ。
郊外のアウトレットが見えてくる。相変わらず能天気なリゾート地そのものの風情で、リョウはげんなりするものの、ミリアは明らかに興奮してくる。
「きゃあ。見えてきた。」などと歓声を上げながら、後ろで嬉しがっている。「ねえ、着いたら、着いたら、手ぇつないで歩いてもいい?」そうなるとリョウも心躍る。わざとスピードを上げてミリアを驚かしたり、する。
到着するとミリアはリョウの腕にしっかと自分の腕を絡め、歩いた。つなぐ、どころの騒ぎではない。しかし今日は合格祝いだ。なんでもミリアの好きなようにやらせてやろうと、リョウはしかしまんざらでもない笑みを浮かべながら、南国リゾートを模した店々の前を歩いた。
リョウは、行き交う多くの目がミリアを見ているのに気付いた。若い男も、女も、同様に。モデルとしてのミリアを知っているのかもしれない。でももっと単純に、きっと美しいから見るのだ。そう思うと、リョウはどこかくすぐったくなるのを感じた。
「ここ、売ってそうよ。」気取った喋り方でミリアは、店を選び、入る。そこは確かにきらびやかなパーティー用のドレスが並んでおり、思わずリョウはあまりの場違いさにたじろいだ。
「ねえ、これ、綺麗!」ミリアは早速入口近くに掛けられた水色のワンピースを掲げて、自分の身に当ててみる。「これも、素敵ねえ。」次にはキラキラした素材のピンク色のミニドレス。リョウは何でもいいよ、という言葉を呑み込み、おもむろに入口のベンチに座り込んだ。ミリアは次々にワンピースを自分の身に当て、鏡を見る。当分終わりそうにはない。
リョウは欠伸を必死に噛み殺し、結果として、ひたすら涙目でミリアを凝視する羽目になった。そこに若い女性店員がやってくる。店員はふとミリアの顔を凝視し、「もしかして、RASEモデルの黒崎ミリアさんですか?」などと言い、「私雑誌で見た時、すっごい可愛いって思ってたんです。わあ、本物はもっともっと可愛い! 顔小っちゃい! 白い! 細い!」と強ちお世辞とも言いきれぬ熱意を込めて騒ぎ立てる。「うちのお洋服来て下さったら、本当に、とっても嬉しいです。あの、サイン、頂けませんか? あと、できたら、お写真も。お店に飾っても、いいですか?」と更に甲高い声で喋り続ける。テンションの上がった店員は店中のドレスを着せてみるつもりなのか、ミリアに次々と服をあてがい、そのたびに歓声を上げた。更にそれだけでは飽き足らず、ミリアは服を次々に着させられることとなった。奥の試着室に連行され、試着室に入っては出、入っては出、を繰り返す。
リョウは外を眺めながら、さて、今晩はミリアに何を食べさせてやろうかなと考える。お祝いだから、ケーキに、ノンアルコールのシャンパンでもあるといいな。あとは、肉か。でも最近ミリアは色気づいてきて、肉を遠慮している節がある。じゃあ、魚にでもしてやろうか。どうせそっちの方が安いしな。帰りに近所のスーパーに寄って帰ろう、夕方だから半額にでもなっているといいな、などと考えていたから、二人がリョウの目の前に来たことなど気付く訳が無かった。
「ねえ、リョウ。」ミリアはピンクと水色のドレスを両手に持ち、キラキラする瞳でリョウを見下ろしていた。
「おお。」リョウは驚いて二人を見上げる。
店員が「彼氏さんは、どちらがお似合いだと思いますか?」と問うた。
「彼氏?」思わず、頓狂な声が出る。「彼氏じゃねえし……。」と言った瞬間、ミリアの顔がみるみる曇っていく。遂に泣き出さんばかりになったので、涙やら鼻水やらが商品に付いたら大事だと、「そういや、彼氏だった、気がする……。」と恐る恐る呟いた。途端にミリアは満面の笑みになってリョウに抱き付く。
「本当に素敵な、美男美女のカップルですね。」そこに店員が追い打ちをかける。
「うん。」とミリアは厚顔無恥にも肯く。自分が美女だと言われてハイハイ肯くバカがいるか、リョウは呆れ返るが、やはり黙っていた。
「どっちが、ミリアに似合うと思う?」そして水色とピンクのワンピースを交互に重ねてみせる。
どっちでも構うもんか。そう言おうとするのをごくり、と吞み込んでリョウはミリアを凝視した。今日はミリアの合格祝いなのだ。せめて今日だけでも、もう地雷は踏んでは、ならない。
「み、水色がいいんじゃねえか? お前水色好きだし。」何とか逢着した答えがこれ、だった。しかしミリアの顔色は再び曇る。準地雷、である。まずかったか? でも一体この答えの何が問題なのか、リョウには見当もつかない。挽回を期すべく必死に次なる答えを考える。
「あ、ほら、昔美桜ちゃんに貰った、ハワイ土産の、水色の石ころのブレスレッドあったじゃん? あれと合わせたら、いいんじゃね?」
ミリアは再び微笑む。
何がいいんだか、悪いんだか、わかりやしない。リョウはしかし地雷を回避できたことにひたすら安堵する。
「あのね、カメラマンさんは、ミリアはピンクが似合うって、言ってた。」
じゃあ、ピンクにしろよ。リョウはそう言って地団太踏みたくなる。そこを、ぐっと、堪えた。「そうだなあ。ピンクもよく似合うよ。可愛いよ。ミリアはモデルなんだから、何だって似合うよ。」もうやけっぱちである。
「うーん、でもやっぱり水色にしようかな。ミリア、水色が好きだから。」
だから最初言ったじゃねえか! リョウはそう叫び出したいのを、膝を握りしめて懸命に耐えた。
「さすが彼氏さんはミリアさんのこと、本当によくわかってらっしゃるんですね。」
だから彼氏ではないのだ。本当はわかっているんだろう? 嘘を嘘だとわかっていて、同調しなけりゃならないとは、客商売とは何とも罪深い。でも、そもそもどうして三十路と中学生を見て、付き合っているという発想が出てくるのか。リョウはこの女を、今日が合格祝いの日でなければ、戦犯として問い糺してやったのにと腹立たしく思う。
「そうしましたら、こちらのお靴とバッグもいかがですか? そちらのドレスにぴったりです。」
出たな、悪徳商法セット販売。こっちは夕飯の食材が半額になっていることを悲願する程の貧乏人だぞ? リョウは厳しい眼差しで睨もうとした、が、既にミリアは「きゃー、可愛い!」などとお揃いの水色の靴とバッグを手に取り、興奮している。
--わかったよ、何だって持ってこい。リョウは覚悟を決める。いみじくも世話になった社長の結婚式だ。弁護士費用を考えたら服の一着とプラスアルファぐらい何でもない。ただし今晩は肉の選択肢はなしだ。それから、魚が半額になっていることを、八百万全ての神々に祈れ。
「じゃあ、それも一緒に。」リョウは渋々立ち上がって、ポケットから財布を取り出す。
「リョウ、いいの? こんなに、ミリアのだけ、いいの?」
「いいよいいよ。」合格祝いだ。これから宣告されるかもしれないスウェーデン行きと比べたら、どれだけ安いかしれない。リョウは何でもなさそうに言ってレジに進んだ。だから、頼むからスウェーデンに連れてけとは言ってくれるな。それがだめなら、できるなら向こう十年ぐらい、忘れていてくれ。それだけを心ひそかに、でも痛切に、願った。
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