第49話

 リョウの不安の暗雲で膨れ上がった胸中とは相反し、空はここぞとばかりに澄み渡っていた。葉のすっかり落ちた銀杏の木々は、蒼穹の空を突き刺さんばかりに道路わきに整然と聳え立っている。リョウはバイクに乗りながら、家庭裁判所と書かれた門を潜る。


 リョウは駐輪場にバイクを止めると、物々しい風情の建物を仰ぎ見た。ここで、ミリアとの生活の存続の是非が決まるのかと思えば、リョウの満身は否応なしに震え出した。寒さのせいだ、そう納得させて中へと入る。受付で要件を伝え、奥の一室へと案内された。


 長机の幾つも並んだ殺風景な部屋に入り、壁に掛けられた面白みの一つもない湖を描いた絵を観るでもなく観ていると、ドアを叩く音がした。「……はい。」一応返事をすると、そこに入ってきたのは、かつて家に来訪した調査官である。調査官はやたら多くの書類の乗せられた台車を押しながら、部屋に入って来て、そして、リョウを見るなり目を見開いた。そしてそのまま、暫く黙した。


 「あの……、黒崎、さん?」


 「先日はどうも、ミリアがお世話になりました。」リョウは既に吹っ切れていた。なので平生そのままの口調で、「あれから、自分もよく考えてみたんですが、ミリアの親権なんか、どうでもいいんです。そんな紙切れ上のことは、別に、どうだって。でも、これからも、今まで通り一緒に暮らす権利だけは、何が何でもモノにしたいんです。一つ、宜しくお願いします。」そう言って頭を下げた。


 「え。」調査官は戸惑い、「それは裁判官の決めることですから。黒崎さん、頭を上げて下さい。それよりも、」と言った。そして調査官は改めて声を張ると、台車の上に乗せられた書類の山を差した。「これ、見て下さい。」ど、資料の入った段ボール箱を持ち上げて机上にどさりと置いた。


 「なんすか、これ。」


 読め、などと言われたら何年あっても無理だ、とリョウは思わず後ずさりする。


 調査官は目を瞬かせながら、「報告書です。」と言った。


 「はあ。」溜め息交じりに返事をする。


 「私が、ミリアさんやお兄さんにかかわる各所にお願いして、書いて頂いた報告書なんです。私がお願いした方は、おおよそこの、十分の一に過ぎませんが。」


 「俺が訴えられたっつうことで、巷じゃあお祭り騒ぎになってるっつうことですか、ね。」リョウは苦笑いを浮かべながら言った。


 調査官は俯きながら首を横に振る。「中身を見て頂ければわかります。あのですね、どれもこれもお兄さんとミリアさんを一緒に生活させてあげてほしいと、熱意込めて書いてくれているんです。皆さん、あなたたちを一緒に暮らさせてくれって、こんなに、応援してくれているんですよ。」その言葉には酷く熱が籠っていた。


 リョウは息を呑む。


 「もちろん、弁護士の方でも把握はしていると思いますし、あるいはもっと集めてくるかもしれませんが、とりあえず私が黒崎さんのことをよく知っているであろうお方に報告書の提出をお願いしますと、ずるずると芋づる式にですね、その周辺の方々も勝手に用紙をコピーして、書いてくるのですよ。初めてです、こんなケースは。」調査官は微笑んだ。


 リョウは目を盛んに瞬かせている。


 「随分熱心にミリアさんを子育て、されてきたんですね。」


 「……んなこと、……。」そろそろリョウにも事の次第が解されてきて、目頭が熱くなる。


「見て下さい。小学校一年次の担任、會澤先生、二年次の富田先生、三年、四年次の及川先生、それから五年次の松ヶ崎先生、六年次の中河内先生。各学年主任の加賀谷先生、木野内先生、友川先生。」言いながら調査官は次々に書類の束を机上に並べていく。「別の小学校に転任なされた方も大勢いるのに、こんなに、書いてくださったんです。」


 リョウは唖然として、それらの書類の束を眺めた。


 「そしてスクールカウンセラーの小川さん、渡邊さん、養護教諭の羽冨先生、白石先生。クラブ顧問の坂垣先生。教頭の田川先生、小西先生、校長の新谷先生。」


 「俺だって、そんなに覚えちゃいねえ。」


 「そればかりではないですよ。中学一年次の担任、芳賀先生、中学二年の前期担任馬場先生、産休で休暇に入られてからの後期の、於保先生。そして今の担任佐崎先生。三年間の学年主任、中村先生、副校長の田口先生、校長の簑島先生。部活動顧問の吉見先生、安芸先生。」


 リョウは押し黙った。


 「それに、小学生からのミリアさんの御親友、相原さんのお母さんに、部活動で部長、副部長をしている梶さん、城之内さんのお母さんたち。それから、あなたたちご兄妹の度々出演されている、渋谷サイクロン、吉祥寺クレッシェンド、目黒ライブステーション、沼袋サンクチュアリ、鹿鳴館、諸々の店長さん、従業員さん。それからかつて一緒にライブをなされたバンドメンバー。黒崎さん、この報告書、全部今申し上げた人が書いて下さったのですよ。」


 リョウは言葉を喪った。そして信じられないとばかりに、力なく首を二度三度と振った。


 「皆が皆、黒崎さんがどんだけミリアさんを大切に育ててきたのか、書いてくださっています。どれもこれも、本当に親身に……。特にBlack Pearlのレイさんなんか、レコーディング中のニューヨークからわざわざメールを下さったんです。これだけでも、読んで下さい。」


 そう言って調査官から紐で縛られた用紙の束を手渡される。そこには、ぎっしりと細かい字が連ねられてあった。滲んで見えにくいのを、リョウは何度も瞬きして読み始めた。




 私が音楽の道で生きて行こうと決意した、そのきっかけを与えてくれたのはリョウさんです。


 私がまだバンドを始める前、初めてリョウさん率いるLast Rebellionのライブを観た時、リョウさんとミリアさんのギターの生み出す類稀なるハーモニーに、自分は満身が震え出す程の衝撃を受けました。CDでリョウさんの作る楽曲が、あらゆる負の感情を完全に芸術に昇華し、具現化していることは頭ではわかっては、いました。しかし、実際に生の演奏に触れると、その感情は桁違いでした。私はその大波に即座に飲み込まれました。


 リョウさんの隣でギターを弾いていたミリアさんは、当時、まだ小学生でした。にもかかわらず、彼女の生み出す絶望、悲嘆、痛苦、諸々の負の感情はどんな人生を送って来た人よりも、深く現実そのものに聴こえました。つまりは、リョウさんの奏でる音と全く一緒でした。


 こんなことがあり得るのか、私は不思議でなりませんでした。しかしその衝撃を私は、それから一時も忘れることができなくなりました。飯を食っていても、風呂に入っていても、街を歩いていても、友達と遊んでいても、Last Rebellionの音楽が頭から僅かにも離れないのです。私も音楽をやらねばならない、音楽に身を投じなければならない、という天啓のようなものを、そこに感じました。


 私はそれから自分のバンドを組み、ロックというジャンルで身を立てることに成功しました。武道館でのワンマン、海外フェスへの参加、海外レコーディング、たくさんの経験をすることができました。


 しかし今年、長年の悲願であったLast Rebellionとの対バンを達成することができたことが、自分の音楽人生での最大の慶事です。否、人生そのものにおいての慶事かもしれない。そのぐらいの歓喜を、私に齎しました。それが叶えられた時、私は森羅万象全てに感謝をしました。


 私は緊張と同時に、期待とに胸を躍らせながら、その日を迎えました。


 Last Rebellionのリハーサルを、最初に観た時と全く同様に、客席の一番後ろ側から震えながら眺めていたのを、今でもはっきりと覚えています。リョウさんの気迫、神掛かったステージングに、とてもではないが話しかけられなかったのも。しかし、たまたま、本番直前にミリアさんがステージを確認していたのを発見し、そこで、私は初対面ながら長年の疑問をぶつけました。すなわち、どうしてリョウさんと全く同じ音を出すことができるのか、という問いです。


 自分もリョウさんのギターは何度もコピーしたことがあります。でも、とてもではないが、僅かなビブラートも呼吸も、チョーキングの具合も、何から何までステージ上において、同時進行で完璧に同じに弾く、というのは物理的に考えてあり得ない。なので、私はミリアさんにそう、尋ねたのです。


 彼女は照れたような笑みを浮かべながら、たった一言、『リョウが好きなの』と答えました。それだけで、自分は全てを解しました。


 噂では、彼女が小さい頃親に捨てられ、リョウさんの元で育てられたのだという話を聞いていました。その中で、リョウさんがどれだけの愛情を彼女に注いできたのか、思い知らされた気がしました。そして彼女もそれに、応えた。リョウさんが日々ミリアさんにギターを教え、それによって上達したというのは、事実としてあるでしょう。しかしミリアさんのギターは、家で一流のギタリストに教わる環境があったという、ただそれだけで達成できるレベルではありません。


 彼女がなにゆえLast Rebellionのギタリストとして、いたいけな少女でありながら誰をも納得させ、狂喜させ、感動させているのか、それは彼女が言うように、彼女がリョウさんを、リョウさんの曲を、リョウさんのギターを、何よりも深く、心から愛しているからに他なりません。だとすれば、今後、万が一、彼女がリョウさんの元から離されてしまえば、彼女の唯一無二のギターは消えてしまうに相違ありません。どうか、彼女が望んでいる以上、リョウさんと一緒に生活をさせてあげてください。彼女の愛を、まっとうさせてあげてください。それが日本の音楽に寄与することとなると、私が保証致します。


――Black Pearl レイ

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