第42話

 翌日、ミリアは類稀なる集中力を発揮し、モデルの仕事をさっさと予定時間より三十分も早く終えると、表情も険しくモデル友達の誘いもきっぱりと断り、さっさと帰途についた。




 玄関を入るとリョウが幾分緊張した体で「お帰り」と言う。やはり、調査官の訪問とはそんな気軽なものではないのだ、とミリアは鼓動を速める。ミリアはしかし、えい、と気合を入れて微笑むと、「ただいま。今日も、とってもよく撮れたの。見て。」と言って、ミリアはバッグから小さな写真を何枚か手渡す。


 リョウは一瞬表情を弛めて、それらを順繰りに眺めた。


 「お前さあ、本当に、なんつうか、……可愛いよなあ。」


 ミリアは目を見開いてリョウに飛びつく。


 「可愛い? ミリア、可愛いの?」


 リョウは瞬時に顔を顰める。「否、化粧する人とか、髪セットする人とか、カメラ撮る人とか、そういう人のお蔭だっつうことだよ。」ぷい、と慌てて身を翻すと、リョウはいつものスクラップブックに写真を挟み込む。「自惚れてる野郎程、滑稽なものはねえからな……。」


 ミリアは寂し気に鼻を鳴らす。


 「だってほら、ギタリストだってそうだろ? 大して巧くもねえのにこれ見よがしにドヤ顔して速弾き披露してる奴とか、嗤っちまうじゃねえか。速く弾くのなんて、別に誰だって出来んのによ。自惚れた瞬間、そいつの向上は絶たれたも同然だしな。だからお前も、」と言ってミリアに向き合った。「モデル続けていくんなら、しっかり撮影の度に反省してよ、そんでもっといい写真撮れるように工夫していけよ。金を貰うっつうことは、そういうことだから。」


 ミリアは肯いた。


 そう言ってリョウはギターを弾き始める。ミリアはじっとその様を見詰めた。澄んだ音。繊細なメロディー。


 リョウのプレイを賛美する声は喧しい。ファンも、ライブハウスやらレコード会社の関係者も、雑誌のインタビュアーも、誰もがリョウのギターは日本のメタル界を牽引するものだと、口を揃えて言う。けれどリョウはそれに甘んじることは、一切、ない。毎日ギターの練習は欠かさないし、メタル以外のジャズやらヴォサノバやらといった、苦手なジャンルこそ音楽理論を丁寧に分析し、時間を掛け練習しているのをミリアは知っている。


 「リョウが、一番かっこいい。」ミリアは呟くように言って、リョウは一瞬手を止めたが口許だけ綻ばせると再びギターを弾き始めた。「ミリア、絶対リョウと一緒にいるから。」


 リョウは答えない。それがよいのか悪いのか、自分のエゴなのかミリアの幸せのためなのか、まだ自分の中では明確な答えは出ていなかったから。ただ、あの女の下でミリアが過ごすということだけは、感情的に許せなかった。だから、「俺だってまだ、お前を手放しやしねえよ。」と呟いた。




 ミリアはリョウの静かなギターを聴きながら、傍のテーブルで勉強を始める。サキが言っていたように悲しいことを思い出すだけで泣けるだろうか、計算式を解きながらそんなことが頭の中を占めてくる。


 サキの舞台での演技は素晴らしかった。本当にロミオを思い、それだけの純真な思いで自害し、果てたのだ。よもや彼氏とのいざこざで泣いたとは、誰も思ってはいない。


 ミリアはペンを止めてふと回顧する。父親に家を追い出されたこと、意味も分からず殴られたこと、路傍の干からびたミミズを見て父親にも早くこうして死んでほしいと希ったこと、――。幾らでもある。ミリアの頬が喜びに上気する。――これだけの材料があれば、きっと、サキのように、やれる。


 その時、インターフォンが鳴った。




 リョウは「来たかな。」と言うと、ギターを壁に掛け、重々しく立ち上がり玄関を開ける。案の定、そこには中年の、どこか柔和な表情の中に厳しい眼差しを有した女性が一人立っていた。


 「家庭裁判所から参りました、調査官の上妻です。」と言って、ポケットからえんじ色の使い込まれたレザーのケースを取り出し、一枚の名刺を差し出す。


 「あ、ああ。よろしくお願いします。お待ちしていました。どうぞ。」リョウはそう言ってリビングに案内した。女性はミリアを見るとにこりと微笑み、「初めまして。今日はミリアさんのお話を伺いに来ました。受験勉強で大変な中だとは思いますが、少しだけ、お時間、頂きますね。」と言った。


 ミリアは温和そうな女性であることに安堵して軽く微笑み、小さくお辞儀をし「お願いします。」と呟いた。


 「それでは、大変失礼ではあるのですがお兄さん、席を外して頂けますでしょうか。」


 リョウは一瞬たじろぐ。するとすぐさま女は「一方の保護者の方が同席されていると、お子様の意思の操作と取られてしまい、正確な調査にはなりませんので。御理解願います。」完全に慣れた口調で言った。


 リョウは「隣の部屋でも、いいすか。」と意気消沈しながら尋ねる。


 「できましたら、話の聞こえない場所に行って頂けると、助かるのですが。」と、調査官は丁重に撥ね退ける。


 リョウは「わかりました。」と言って「じゃあ、夕飯の買い物にでも行ってきますよ。一時間もあれば、終わりますよね?」


 「ええ。」女は無感情に答えた。


 「……リョウ。」ミリアは心細げに呼ぶ。


 「なあに、お前が思ってることを吐き出しゃいいんだよ。そうですよね、ええと、」


 「上妻です。」


 「そう、上妻さん。じゃあ、ミリアを宜しくお願いしますね。」と言って部屋を出て行った。




 玄関の扉が閉まる音がした。ミリアは鼓動を速めながらも「どうぞ。」と言ってソファを指さす。


 「すみませんね、受験勉強で大変な時に。」


 ミリアは「うん。」と肯き、「そうです。こんな時期に、裁判だなんて、酷いです。みんな勉強頑張ってるのに。」ミリアは懸命に口を大きく開けながら、そう言った。


 「ミリアさんは、お母さんのことはご存知ないのですか?」


 「ありません。」再び口を開けてきっぱりと言い放った。「私は、パパと、……じゃない父と、死に別れてから、母、には一遍も、会ってません。顔も名前も生まれの星も、猫好きか犬好きかも、生きてるのかも死んでるのかも、なあんにも、知らなかったの。ずっと、リョウと暮らしてきました。」鼓動が早まる。この一言一言が、リョウとの生活の存続に直結するのだと思うと、緊張で掌がじとりと汗ばんでくる。慌ててスカートで拭った。


 「では、お母さんに会いたい、と思ったこと、」言い切らぬ間にミリアは声を大きくして言った。


 「ないんです。一回も、ないんです。だって、」肩で息を吸うと「リョウがとっても優しいんですもの。ご飯も毎日必ず作ってくれるし、それも、すっごいすっごい上手なの。ミリアは調理部だけれど、もっともっと断然、凄いの。それにベッドも、こんなに凄いの、見て。リョウが買ってくれた。お金ないのに。」ミリアは立ち上がって天蓋付きベッドを両手で示した。「それにそれにリョウは、世界で一番ミリアが大切だって、言ってくれるんです。ぶたれたことも髪の毛引っ張られたこともないし、出てけって言われたこともない。……可愛いって、言ってくれるの。」荒々しい息を吐きながらミリアは言った。調査官は驚いて目を瞬かせる。


 「リョウのお陰でね、」ミリアは調査官の前に歩み出てスカートの裾を捲し上げると、膝小僧を指で示した。「ここにね、エクボがあるの。わかる? ミリア痩せてる痩せてるって言われるけど、それでも、ちゃあんと、肉が付いて来たの。リョウが毎日毎日美味しいご飯を作ってくれるから。」


 「わ、かりました。」調査官は「座ってください。」と言った。


 「だのにね。」ミリアはしかし攻撃の手を止めない。全身が熱い。自分でもこんなに喋れたのか感嘆する程である。「あの人、お母さんが、ミリアの膝小僧を怪我さしたの。見て。」いそいそとミリアは鞄から手帳を取り出し、一枚の写真を見せ付けた。そこにはミリアの青痣のついた膝が写し出されている。「こんなに、怪我さしたの。病院にも行きました。次の日撮影の仕事があったのに、こんな目に遭わされて、酷いの。あのね、校門で大声で叫ぶもんだから、先生は全員出てくるし、友達には笑われるし、散々だったの。」


 調査官はその写真を受け取ると、さすがに神妙に見入った。ミリアは内心歓喜する。


「その人ね、家にも何回も来て、勉強の邪魔をするの。おうちが大きいとか、新しいお父さんと一緒に暮らしましょうとか。でも、絶対にゴメンなの。」ミリアは盛んに撒くし立てる。


 「わ、わかりました。それでは少々込み入った質問をさせて頂きますね。」


 ミリアはようやくふう、と溜め息を吐いた。


 「お兄さんが随分ミリアさんに優しくして下さるとのことですけれど、その中で、ベッドの中に入ってこられたり、お風呂に入って来られたりすることは、今まで、ありましたか?」


 ミリアの心臓が早鐘のように鳴り出した。あったか、なかったかと言われればどちらもぎりぎり、一度ずつあったというのが事実に相違ない。しかしこの質問の意図は、おそらくは性的虐待の是非を聞こうとしている。そう思えば悔しく、悲しく、そして憤ろしかった。


 「またはキスをしたり、体を触られたり……、」言い終わらぬ内にミリアは叫ぶようにして言った。


 「あのね、そんなことは一度も、ないの。あのね、たった、一度も、ないの。」ミリアは調査官に向かって身を乗り出す。「リョウはね、この間お見合いに行ったの。断られちゃったけど。だから、お嫁さんを探してるの、それは、ミリアじゃないの。」それはミリアにとってこの上なく残酷な台詞だった。しかし、ミリアは一応これでもプロのモデルである。いかに絶望していても、また喚きたいぐらいに悲嘆に暮れていても、笑わねばならない場面では笑うのである。ミリアは一通り言い終えると、精一杯笑ってみせた。


 「リョウはね、でも優しいばかりじゃないの。勉強も、仕事も、ちゃんとしろって叱ります。ミリアが勉強しなかった時、勉強しないとギターを弾かせてあげません、と言いました。それで家庭教師を連れてきました。だからミリアはもう0点なんか、取りません。それに一度、モデル辞めるって言ったことがあって。リョウは大層叱りました。ミリアが泣くまで叱りました。お金を貰うってことは、中途半端じゃいかんって。……厳しいの。」


 調査官は頻りに肯く。


 「そうなんですね。教育面でもしっかりされていると、……では、」と言って壁に掛けられた数多のギターを見た。「ミリアさんは、お兄さんと一緒にバンドでギターを弾いているそうですが、こちらも、お兄さんに厳しく指導を受けられたのですか?」


 ミリアは必死に頭を巡らす。これは何を聞き出そうとしているのか。見誤っては、ならない。


「……違うの。」ごくり、とミリアは意を決して言葉を紡いだ。生唾を飲み込む。「リョウはギターの練習をしろなんて、言いません。ミリアが教えてって言った時だけ、優しく教えてくれるの。ただ、ミリアには、とっても才能があったの。」ミリアは飄々と語った。「リョウはギターの先生でしょ? 毎日練習するのよ。それで、ミリアもここに来た日からリョウのマネして弾いてたら、とっても上手になったの。ピアノ上手な子とか、バイオリン上手な子、いるでしょ? それと丸っきし、おんなじなの。」


 「でもそれで、」調査官はわざとらしく微笑む。「お兄さんたちと、夜遅くまで、ライブ? やってるのでしょう?」


 「違うの。」ミリアは負けじとばかりに微笑み返す。「ワンマンだったらそんなに夜遅くならないし、対バンの時でもLast Rebellionは、リョウのバンドは、とっても人気なのに、一番お客さん来るのに、トリで出ないの。何でか、わかる? ミリアが眠たくなっちゃうから。シュン、……メンバーが、そうやって、決めてくれるの。ミリアのために。あのねえ、それから、お酒なんて誰も飲みません。だって、演奏が大変なんだもの。酔っぱらったりしたら、まあ大変。」


 調査官はうんうんと肯く。「そうなんですね。わかりました。では、ミリアさんはお兄さんとこれからも、暮らしていきたいと、そう思っているのですか。」


 「そう。」ミリアはふと、父親との生活を頭の中に蘇らせた。「昔ね、パパと暮らしていた時は、ミリア、毎日ずっと外にいたの。おうちにいると、殴られるから。いっぱいいっぱい、怪我して、骨がわかるぐらい痩せて、お風呂も入れなかったの。頭にね、虫もできたの。」ミリアの眼差しが次第に濡れてくる。「でもね、ママは一回も助けに来てくれたことはないよ。きっとね、ミリアが雑誌に出たりして有名になったから、思い出しただけなの。それまで、ずっと忘れてたくせに。酷いの。」遂に、ミリアの瞳から涙が零れ落ちた。調査官は慌ててテーブルの上に置いたティッシュを一枚取ると、ミリアに手渡した。


 「そんな酷い目に遭っていたのね……。」


 「そう。リョウがいなかったら、……死んでた。リョウがご飯を食べさせてくれたから、今、ミリアは生きてるの。……そして、そればっかりじゃないの。ミリアが泣いていると、とっても心配して慰めてくれるの。ミリアが世界一大切で、可愛いって、言ってくれるの。こういうことを言ってくれるのは、リョウしかいないの。あの人は、自分のことばっかり言うよ。自分が可哀そうでしたってことばっかし、言おうとするの。ミリアのことなんて、ちっとも聞きたくないみたい。」ミリアはティッシュで目頭を押さえながら、言った。「だのに、あの人の所に連れてくなんて、言わないでえ。リョウといたいの。だって、そうでしょ? ミリアが大切だって、言ってくれるのはリョウしかいないんだもの。怖いように見えるかもしれないけど、ショクシツしたくなるかもしれないけど、本当は、全然違うの。お願い。」


 ミリアは濡れた眼差しで調査官を一心に見詰める。自分でもこれは演技なのかそうではないのか、胸がいっぱいでわからない。ミリアはごくり、と生唾を飲み込むとこればかりは誠心誠意、訴えた。「一生の、お願い。リョウと一緒に、いさせて。」

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