BLOOD STAIN CHILDⅡ
maria
第1話
夕焼けの眩い教室の一隅で、リョウは顔を引き攣らせながら机上の一枚の紙を凝視していた。
デスメタルバンドのフロントマンとして真っ赤に染め上げ腰まで伸ばした髪は、後ろに一つに引っ詰め黒いスプレーを存分過ぎる程に掛けているので、ちくちくとした妙な違和感があった。普段着慣れない一張羅のリクルートスーツも窮屈でならず、愛車のドラッグスター400に跨った瞬間、すぐ様にも脱ぎ捨てたいと思っていたのだが、それらが今、完全に、吹き飛んだ。
目の前に坐った初老に差し掛かったばかりの男性教師が、机上の成績表を丁寧に指さしながら説明を行う。
「これが、先週行った期末テストのミリアさんの結果です。国語、0点。英語、0点。数学、0点。理科、0点。社会、0点。……。」
「……ぜ、全部0点ですか?」リョウは呆気に取られた。
担任教師は眼鏡のつるを押さえながら、無言で肯く。その顔には無念さと悲痛とが入り混じっていた。
「……ミリアは、その、あの、……ちゃんと、受験したんでしょうか? 腹痛で便所に籠っていたとかでは、なく?」
「勿論です。ずっと鉛筆握り締めて、一生懸命に書いていました。……その、猫を。」
担任教師はおもむろに今度は、答案用紙を机上に差し出した。
信じられないとばかりに、リョウはさっとそれを引っ手繰るようにして見た。
名前が書いてあればまだマシな方で、数枚は名前もなく、確かにどれもこれも猫の絵ばかり描いている。いつか小学生の時に見た、冬休みの予定表と全く同じ有様だった。
「マジかよ……。」と、思わずリョウはいつもの口調に戻って、いかんいかんと首を振る。「あの、先生……。これ、いつも?」
「おおむねそうです。」教師は俯いて、「国語の問題で、漢字を書いてくる時はたまにありますが……。」と、何の慰めにもならない情報を付け加えた。
「漢字……。」これも小学校の時と同じである。言語教育に熱心だった女性教師のお蔭で、ミリアは漢字が自称、大変得意になったのだ。得意? それは無論他の壊滅的な教科から相対的に見て、ということではなかったか。
「大変言いにくいのですが、このままですと高校は、どこも……」と言って教師は言葉を濁した。
リョウは目を見開く。「ミリアは高校生になれないということですか? あの、どんなバカ高校でもいいんすけど。高校って名前さえ付いてりゃあ。」あまりの衝撃に、次第に飾った言葉は崩れていく。
「この学区内では、最も合格点の低い高校であっても、五教科で30点は必要です。」
「30点。……ミリアは、0点。」リョウは茫然と呟く。
「これからあと十ヶ月。受験まで真剣に勉学に取り組めば、あるいは……」。
リョウは頭を抱えた。ぱらぱらと、黒スプレーの繊維が机上に零れ落ちる。リョウは慌ててそれを手で払った。「何とか、言い聞かせてみます。」深々と溜め息を吐いた。
「毎年、部活動を引退してから必死に勉強を始めて、飛躍的に成績を上げる生徒は、必ず、います。」担任教師は振り絞るようにして言った。「部活動で培ってきた集中力というのでしょうか。それが勉強に向くのでしょうね。」
「はあ。」リョウは半ば茫然としながら答える。
「ミリアさんは、調理部でもそれはそれは大変な集中力をもって取り組んでいると顧問から聞いています。それにギターだって、」
リョウは、はっとなって顔を上げた。
「文化祭の時でした。軽音楽部のステージで、急遽病欠してしまったギター担当の生徒の代わりに、その場でミリアさんが弾いたのですが、いやいや実に感動的でした。あれがプロというものかと。……ミリアさんには集中力と熱意があります。それが勉強に向いてくれさえすれば、……」担任教師は再び机上の猫まみれのテスト用紙を悲し気に見下ろした。「きっと、高校生になれます。」
ミリアがリョウの家に来たのは、小学校一年の夏のことだった。物心つく前に母親に捨てられ、その後育児放棄に加え虐待を下す父親と共に生活をしていたが、ある日父親がアルコール中毒で頓死し、孤児となったミリアは、近所の世話焼きの老夫婦の捜索によって異母兄となるリョウの存在を教えられ、突然家にやってきたのだった。
当時のミリアは、当初酷く痩せ、笑うことも泣くことはおろか、喋ることもままならず、しかも夜になると意識の無いまま部屋を徘徊する始末で、リョウは途方に暮れたものだった。しかしあれこれ構う内にミリアは次第に懐き、中でも何気なく教えたギターが気に入ったこともあり、更に毎日飽きることなく練習に練習を重ねるものだから上達著しく、今ではリョウが結成したデスメタルバンドでギタリストとして活動を果たすまでになっていたのだった。
「ええ。先生の仰る通りで。あいつ、ギターだけは物凄い集中して弾くんですよ。本当に。大抵の曲は一回聴けば覚えちまうし、できないフレーズがあれば一晩中寝ねえだって……。」リョウはふと、それがここでは何の意味もなさないことに思い至り、口籠る。
「存じ上げております。文化祭でのステージしか私は見ておりませんが、あれは、凄かった。校長、教頭始め、全校生徒が挙って賛嘆しておりました。バンドの生徒たちもステージに出れたことを非常に感謝しておりました。」教師は満面の笑みを浮かべ、肯く。
「……じゃあ、何で勉強がこんなにできねえんでしょうか。」リョウは情けない声を出す。「俺も相当のバカだったけれど、流石にここまでじゃあ……。」
教師は溜息を吐いて、「私共も放課後残したり、一対一で勉強をさせたり、出来る限りミリアさんに勉強を頑張ってもらいたいと試みてはいるのですが、一向に効果が表れず……。いつも勉強とは違う所に興味が行ってしまうようで。特にギター……。あの、失礼ですがお兄様はミリアさんを将来ギタリストにするおつもりで……?」
「いやいやいや。」リョウは慌てて手を振った。「このご時世ギタリストなんざ食えたもんじゃねえすから。そんなん、絶対ぇダメです。」我が身を一切振り返ることなくリョウは言い切った。
「そう、ですか……。いえ、すみません。お兄様が勉強よりも音楽をさせたいとお思いなのかと思いまして……。」
「いえ、とんでもない!」リョウはぐい、と身を乗り出して「勉強が大事です。馬鹿は辛ぇ。」
担任教師はまさか長髪ギタリストからそんな言葉が出てくるとは思わず、目を丸くした。
リョウは頭を下げた。「この通り。申し訳ないです。うちでしっかり言い聞かせます。俺もこの間までギターのレッスン……否、仕事の方が忙しくて、ちょっと構ってやれなかったもんですから……。」
「伺っておりますよ。」教師はにこやかに言った。「お兄様は、素晴らしいギタリストで、そのお兄様に教えて頂いたからこそ、自分もギターが弾けるようになったのだと、ミリアさん、誇らしげに語っていました。そのように尊敬するお兄様が、勉強をするようにおっしゃって下さったら、ミリアさん、きっと勉強に向かってくれるのではないでしょうか。」
はあ、とリョウは肩を落としながら肯く。
「とにかく、ミリアには帰ったらすぐ、しっかり言ってきかせますんで。」リョウは体を竦めながら、再び頭を下げた。
三者面談の希望日時を記す用紙が提出されていないと学校から電話があったのは、先週末のことだった。学校からの連絡を帰宅するなり忘れてしまうのは毎度ながらのミリアの悪い癖で、またかと思いつつ、明日にもその用紙をミリアに持って行かせると約束をしたのに、三者面談の前に一度、お兄様に直接会ってご報告をしておきたいことがあると担任に請われ、リョウは着慣れぬスーツに、赤髪を黒スプレーで染め上げ、学校を訪れたのだった。
暴力沙汰を起こしただとか、煙草を吸っただとか酒を飲んだだとか、はたまた不純異性交遊をやらかしたとか、そういう意味での保護者召喚ではないと確信しつつも、ここまでの成績不振だとは流石に思わず、リョウは落胆とも憤怒とも異なる、おそらく一言でいえば不安、に属する感情を溢れんばかりに抱えたままドラッグスターを勢いよく飛ばし帰途に着いた。
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