第17話 彩那、最後の出動
とうとう水曜日がやって来てしまった。
「お父さん、今日はおとり捜査の日よね?」
彩那は新聞を読んでいる父親に声を掛けた。
「そうだ。放課後、菅原と合流してくれ」
「分かったわ」
「お前、今回はフィオナと綿密に打ち合わせていたようだな」
剛司は新聞を傍らに置いた。
「それで、上手くいく自信はあるのか?」
そんな半信半疑な顔に向かって、
「きっと成功させて見せるわ。私の出番もこれで終わりにしたいからね」
彩那は一気に牛乳を飲み干した。
昼休みは奏絵と一緒に昼食をとった。
「また水曜日になっちゃったね」
「そうね」
彩那は短く答えた。先週の出動から心は何も変わっていない。いろんな感情が押し寄せては消えていった。結局何も新しい境地には達しなかった。
しかしながら奏絵の助言を参考に、菅原刑事と被害者を訪ねて、数多くの情報を得た。今回はそれを最大限に生かすべく、フィオナとも話をしてある。きっと上手くいく筈である。彩那は自分を奮い立たせた。
ほとんどの被害者に共通する特徴は三つ。百六十センチ前後の身長、長い髪、そして五センチ以上のヒールである。あとこれは共通するとまでは言えないのだが、首筋にほくろやそばかす、やけどの跡や湿布などをしている者が何人かいた。
彩那の身長は百六十八センチだから、そこにヒールを履けば、百七十センチを優に超えてしまう。これでは狙われる確率が低くなると思われた。
そこで彩那はフィオナに一つの提案をした。友人、筑間奏絵の活用である。
彼女の身長は条件を満たしているし、その他の特徴は意図的に作り出すことができる。
しかしフィオナはそれは絶対に認められないと突っぱねた。
警察関係者でない民間人を捜査班に加えることはできないと言う。万が一、怪我を負った時のリスクは計り知れず、おとり捜査班のプロジェクトそのものが立ち消えになるとも言った。
それではせめて現場には出ない、ブレインとしての参加はできないかと食い下がると、それは彼女の推理能力をかって、上司と掛け合ってみると約束してくれた。
ただし奏絵本人と両親にも承諾を得なければならず、すぐにどうこうできる問題ではないと付け加えた。
しかし一方で彩那は複雑な気分だった。たとえ、奏絵をメンバーに加えたところで自分は抜けるのである。それではまるで張り合いがない。
「ねえ、奏絵はもし仮に、警察の仕事を手伝ってくれって言われたらどうする?」
と訊いてみた。
彼女は口元に笑みを浮かべた。
「それって正式な依頼なの?」
「いえね、仮の話としてよ」
彩那は慌てて言った。
「私は喜んで参加するわ。だって少しでも彩那や龍哉さんの力になれたら嬉しいもの」
「ありがとう」
「それに、彩那には元気を取り戻してもらいたいし」
そんな友人の優しさに心が大きく揺れた。
「ご両親はどう言うかしら?」
重ねて訊くと、
「その点は問題ないわ。二人とも好きにしなさいって言うと思う。特にお母さんは彩那の大ファンだから、きっと大賛成よ」
「分かったわ、ありがとう」
「今日は私、何の力にもなれないけど、頑張ってね。陰ながら応援してる」
奏絵はそう言ってくれた。
それ以上、彼女は詳細を訊きはしなかった。まだ今の段階では守秘義務がある。捜査内容は話せないという事情を分かった上でのことに違いなかった。
放課後、彩那と龍哉は覆面車の後部座席に身を委ねていた。短い期間だったが、仕事にもすっかり慣れた気がする。これで最後になるのかと思うと寂しい気にもなった。
スマートフォンが呼び出した。彩那はすぐに応じる。おとり捜査班の専用回線が開いた。
「こんにちは、彩那」
いつものフィオナの声がした。
「気分はいかがですか?」
「まあまあです」
「家族関係はうまくいってますか?」
「フィオ、一体何の話なの?」
彩那が過敏に反応すると、
「悩みを抱えている人間は平常心を失い、判断力が欠如するものです。捜査員がそんなことでは、いざという時に失敗を犯す可能性があります。ですから今の彩那の心理状態を聞いておきたかったのです」
「そんなものかしら?」
「特にお父様とはうまく行ってますか?」
「まあ、一応」
どこかで、誰かの咳き込む音が聞こえた。
「それなら安心です。無理をせず、私の指示に従ってください」
「分かってるわよ」
車は例の銀行の前で停まった。
「彩那はここで降りてください。前回とまったく同じやり方です」
「了解」
いよいよ出動である。
まずは銀行の自動預払機で現金を下ろす振りをして、外に出た。
「それでは、開始します」
フィオナが宣言した。
今日の彩那は、長い髪にミニスカート、そして極めつけはハイヒールという姿である。
全てが普段とは違うため、どうにも落ち着かない。特にヒールは生まれて初めて履いたので、歩くのもどこかぎこちなかった。
さらに、どこまで効果があるか分からないが、首筋に大き目の白い湿布を貼って、時折髪をかき上げてそれを晒すことも忘れなかった。
いつもの通りを歩く。交差点まで達すると、銀行まで戻る。一行程の所要時間はおよそ三十分。二度、三度と同じことを繰り返した。
ミニバイクが彩那の横を通過してはいくのだが何も起こらない。今日もまた不発に終わるのだろうか。少々焦りを感じ始めた。
五度目のターンだった。すでに街は薄暮に包まれていた。慣れないヒールに足が痛かった。
「彩那、気をつけろ!」
突然、龍哉の声が飛んだ。
後ろを振り返るのを我慢して、バイクが来るのを待った。ここで不穏な動きを見せれば、全ては水の泡だ。
バイクの音が聞こえる。スピードを落として迫っている。
来た。
バイクが隣に並んだかと思った瞬間、運転手の手が伸びて、ハンドバッグの肩紐が勢いよく引き剥がされた。同時にエンジンがうなり声を上げた。
「フィオ!」
彩那は思わず大声を上げていた。ついに網に掛かった。ヒールで足がもつれたが、すぐに駆け出した。すぐに背後から龍哉が追い越した。
菅原刑事が車から飛び出すのが見えた。見事なまでの連係プレイ。これでバイクは挟み打ちにできる。勝算が見えた。
と、その時である。
バイクはタイヤを軋ませて、刑事の手前でくるりと反転した。スピードを上げてこちらに向かってくる。
バイクが龍哉と重なって見えなくなった。彼は真正面に躍り出たのだ。このままでは衝突してしまう。
「龍哉、道を空けなさい!」
フィオナの指示。
バイクは猛スピードで彼に迫っていた。一瞬身体を覆い被せようと試みたが、そのスピードでは無理である。ぎりぎりのところで身体を翻し、進路を譲った。
次は彩那が正面に立った。
バイクはスピードを落とさずに近づいてくる。ここで突破されては後ろには誰も居ない。まんまと逃げられることになる。
「彩那、無茶しないで。そのスピードでは危ない」
「何とかやってみる!」
「止めなさい!」
彩那はぶつかる寸前で体勢を変えて、すんなりと進路を開いた。そう油断させておきながら、バイクが真横を抜ける時、すかさず両腕を伸ばした。
見事、バイクの後端部、アルミのキャリアに手が掛かった。離されないようしっかり掴んだ。そのままヒールを潰して路面を滑走した。
思いがけないスピードで身体が持っていかれる。バイクを倒そうと力を入れるのだが、今は食らいついていくので精一杯だった。これ以上何もできない。
バイクはすぐに異常に気づいたのか、急カーブを曲がるほどの勢いでわざと体重を移動させた。彩那の手は、見えない力に耐えきれず振りほどかれた。
民家の軒先に並べられた植木鉢に突っ込んだ。そのまま全てを壁に押しつけてようやく身体を止めることができた。
バイクの運転手は一度振り返って、彩那の様子を確認したようだった。そしてそのまま大通りに消えていった。
「彩那!」
フィオナの声が響いた。
しかし応答はない。
「早く彩那を」
その声よりも早く、菅原刑事と龍哉がすでに駆けつけていた。
彩那は大破した植木鉢の中から顔を出した。髪の毛から土の塊が落ちた。
「大丈夫か?」
「怪我はありませんか?」
龍哉と菅原が同時に声を掛けた。
「平気よ」
無事な姿を見せようと、彩那はわざと勢いよく立ち上がった。しかし足がもつれて倒れそうになった。
龍哉が彼女の身体を受け止めた。
「負ぶってやるよ」
「いいわよ。恥ずかしいじゃない」
龍哉の汗の臭いを感じた。それから手を振りほどいた。
「どうしてあなたはいつも心配ばかり掛けるのですか?」
フィオナは怒った声だった。
「だって、もう少しで捕まえられたのよ」
「あれほど無茶をしないように言ったのに。もっと自分の身体を大事にしたらどうです」
フィオナは珍しく取り乱していた。
「フィオ? 今日の得点は?」
彩那はおどけた調子で訊いた。
「採点不能です」
「えっ?」
「命令に従わないばかりか、足まで怪我をして」
彩那は黙っていた。
「あなたのような大馬鹿者は、もう知りません。勝手にしなさい」
それは半狂乱になった声だった。さすがに彩那も萎縮した。
フィオナはもうそれ以上何も言わなくなってしまった。
菅原刑事もただならぬ雰囲気を察してか、
「警察病院へ行って診てもらいましょう。それから自宅までお送りします」
と言った。
「足なら大丈夫です。ちょっと捻っただけですから」
「いえ、念のため、診てもらいます」
刑事は強い調子で言った。
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