キャロルと悪魔の夢

hibana

お嬢様と悪魔の海

 柔らかな白い髪が風に揺れる。空は彼女の髪によく似た曇天だ。抑えきれず零れ落ちたような、光が照らす。

「お嬢様」

 呼びかけられて、少女は振り向いた。白いブラウスの上に赤いワンピースを着た、人形のような少女だ。その瞳もガラス玉のように輝いて、一層人間らしさとの乖離を見せる。

 近寄ってきた黒服は、彼女の手元に落ちた蝶の羽を憂いた。

「ああお嬢様、また蝶をいじめて。いけませんよ」

 幼い子はひとつ瞬きをして、「どうして」と問う。その小さな体に不釣り合いな、凛とした声だった。黒服は微かに笑って、「いいですか」と言い含める。

「今この時、たとえば悪魔がやってきて、お嬢様の手足をもいでいじめるとしましょう。なんと恐ろしいことでしょうか。お嬢様、貴女はその悲劇をよしとするのですか?」

 少女はうつむいて、顔を赤くしていた。やがて鼻を鳴らして立ち上がり、黒服をにらみつける。

「主人に向かってなんて物言いなの。覚えてらっしゃい、お父様に言いつけてやるわ」

 黒服は恭しく頭を下げて、「過ぎたことを申しました、何卒ご温情を」と慇懃に告げた。少女はしばらくそれを見ていたが、ついにワッと泣き出す。何よ、何よ、と言いながら小さな掌で顔を覆った。

「お父様なんか全然帰ってこないのに、どうやって言いつけるつもりだって。そう笑えばいいじゃないの、他の召使いがそう話しているのを聞いたのよ。あなただって、そう思っているくせに」

 絹のような少女の髪が、濡れて頬に張り付く。「1人ぼっち、この世界で」と少女は泣いた。黒服が、そっと膝を折って彼女の涙をぬぐう。

「いいえ、お嬢様。2人ぼっちでございます。私がおりますゆえ」


 ここは、ミジュアリィ海の港町――――シュアナル。多くの悪魔が戯れに立ち寄り、悪魔に愛された街。

 少女の名はキャロライン=ベラ=ヴォッカ。

 黒服の名はマルクス=ヴェイカー。彼女の、執事だった。






『お嬢様、キャロルお嬢様』

 口うるさい召使いの声が聞こえる。もう、父の声も母の声も覚えていない。夢で自分を呼ぶのは、いつだって召使いだ。そんな声に交じって1つ、どこか父の声と似ているような、母の声と似ているような、そんな声がした。

「お嬢様、モーニングのご用意がブランチとなってしまいます」

 うっすらと目を開ければ、部屋の中はひどく明るい。ベッドの端に座ってにこにこと「ランチも腕によりをかけようと意気込んでいるコックが、さぞや悲しむことでしょう」などと笑っている男と目が合った。

「……マルク、主人のベッドに腰をかけるなんて」

「今後二度と致しません」

 それからマルクスは立ち上がり、服やらブラシやらを腕いっぱいに抱えてまた戻ってくる。「本日はどのお召し物にいたしましょうか?」とウインクまでした。キャロルは目をそらし、「裸でいるわ」と突っぱねる。

「なんということでしょうか! ヴォッカ家のお嬢様がそのような奇行、世間が」

「世間が、何よ。許さないって言うの?」

「世間が許さなくても私が許しますともお嬢様、当然でございます。それはそうと、それは置いておいて、しかしそれにしてもお嬢様。貴女の裸がそうも安く扱われる事態はまったく遺憾にございます」

「いいわよ、ヴォッカ家の娘はついに頭がおかしくなったんだわとでも思わせておけばいいのよ」

「……お嬢様は寝起きが悪くていらっしゃる」

 深いため息をついたマルクスが、無抵抗のキャロルから寝間着をはぎとり始めた。「シャヌはどうしたのよ、セイラは?」と、メイドの名を口にしたキャロルから、マルクスは目をそらす。ふうん、とキャロルが冷めた目をした。

「来ないのね、みんな私の面倒なんて見たくないんだわ。あなただって、わざわざ起こしに来たりしなくていいのよ」

「お嬢様……。みな、お嬢様にご奉仕したくないわけではないのですよ。このマルクスに、役目を譲ってくれているのです。私が誰よりもお嬢様を敬愛していることは、周知の事実ですので」

「いつもお上手ね、マルク」

 苦笑しながらマルクスは、キャロルに薄緑のワンピースを着せる。それからブラシで彼女の髪を梳かし、首の後ろで結い始めた。「よくお似合いですよ、お嬢様」と楽しげなマルクスの声が耳元で聞こえ、キャロルは反抗的に目を閉じた。そんな様子を見たマルクスが、静かにブラシを片付けながら「今日は買い物にでも行きましょう」と声掛けする。キャロルは顔をしかめながら、「行かないわ」と答えた。

「なぜ私がお使いなんてしなければならないの。あなたたちがすればいいでしょう」

「ああお嬢様……お使いなどと、そんなことをお嬢様にさせるはずがありません。お買い物ですよ、綺麗なお洋服や、新しい靴や……胸が躍りませんか?」

「おどらないわ! 外に出れば、いつもは聞こえない陰口が耳に届く。それに何を買ったって、この白い髪に似合うものなんてないもの!」

 マルクスが目を細めて、不意にキャロルを抱き上げた。有無を言わさずに鏡の前に立ち、じっとキャロルを見つめる。

「お嬢様の髪は、まるでシルクのように綺麗ではありませんか。肌も白く雪のようで、かの白雪姫も嫉妬するほどですよ。瞳だって美しいガラス玉でも入っているかのよう。貴女が自分の容姿を卑下しては、世の少女たちに恨まれるというものです」

「そうよ、髪はシルクで肌は雪のようで、目はガラス玉……。まるで人じゃないみたい、でしょ」

 鏡から目をそらしたキャロルが、無意識にマルクスの肩を掴んだ。「でも、そうね」と歯切れ悪く呟いた。

「帽子を、買いに行くわ。あなたが同伴するんでしょう?」

 驚いたような顔をしたマルクスが、すぐに破顔する。

「もちろん、私でよろしければ」






 コバルトブルーの海は、遠くで空の色と混じっている。レンガ造りの家々の隙間から見える太陽が、今日はどこか柔らかい。客を乗せたヨットが数隻、港へと戻ってくるところだった。水兵の格好をした男たちは、今日の食事を共にする女を探しているようだ。町は一気に活気づいた。

 アイスクリームを食べながら、キャロルは歩く。陽の光を遮るように、マルクスが立っていた。

「美味しいですか?」

「ばかなことを聞かないでちょうだい、アイスクリームはこの世で一番おいしいのよ」

「特にバニラが?」

「特にバニラが。わかっているじゃないの」

 不意にマルクスが、自分の口元を手の甲で隠した。どうやら、笑っているようだ。「何がおかしいのよ」といぶかしげに見るキャロルに、マルクスは「いいえ」と返す。

「お嬢様、私は本当にお嬢様のことが大好きなのですよ」

「どうして今、おべっかを使ってみせたの? ばかにしているのね」

 マルクスは黙って、キャロルの口の端を拭った。アイスクリームを食べ終えたキャロルは、また不機嫌な顔で前を向く。面白いものなどどこにもない。

 花屋の娘がキャロルたちに声をかける。愛らしいジャスミンの花が、キャロルによく似合うと言った。キャロルは帽子を目深に被り、ひどく居心地の悪い思いをした。自分とまるで正反対のような花を差し出され、『似合う』と言われても気まずいだけだ。楽し気に娘と話しているマルクスのことも、不愉快極まりない。

 キャロルはそっとその場から離れ、町を1人で歩き始めた。

 港の町、花の町、悪魔の町。

 シュアナル。海の青と空の青が交じる点に、ひっそり生まれたような町だった。青の中に浮かぶレンガの家々と、生える草花の対比が美しい。夕日の見まえる時間には、住人すら惚れ惚れするほどだった。

 こんなに美しい町だから、『悪魔の町』などと笑われても人が避けたりはしないのだ。

 ひとり、家路をたどるキャロルに、風が強く吹く。ワンピースを押さえると、買ったばかりの帽子が飛ぶ。思わず「あっ」と声を上げたキャロルは、いきなり陽の光にさらされて少し怖気づく。帽子はあらぬ方向へ飛び――――止まった。というよりは、人の手に掴まれて帽子の逃避行は阻止されたようだった。

「あ、あの」

 帽子を掴んだ男は、にっこりと笑ってそれをキャロルの前に差し出す。

「いい帽子だなぁ、お嬢ちゃん」

「ありがとう、その……」

「いやいや、いいんだよ。しかし可愛らしい」

「さっき買ったばかりなのよ」

「ん? 可愛らしいってのは、お嬢ちゃんのことだぜ」

 ごく自然に、男はそんなことを言った。それがあまりに違和感のない口ぶりだったので、キャロルは一瞬きょとんとしてから赤面する。なぜだろうか、それが社交辞令のたぐいだと、すぐに判断ができなかったのだ。

「そんなことを、いきなり……あなた、非常識じゃなくて?」

 言いながらキャロルは、逃げようと男に背を向ける。そんなキャロルに、男が「待って」と声をかけた。不意に、男はキャロルの耳元で囁く。

「俺は悪魔なんだ。信じるかい」

 思わず、キャロルは振り返ってしまった。

「え――――?」

 瞬間、体が浮き上がるのを感じる。あまりに突然のことで、何が起きたのかわからなかった。口を開けると、呼吸が泡になって上へとたゆたう。海の中なのだと思った。信じられないことに、そうだ。キャロルは海の中にいた。

「俺は悪魔なんだ」

 もう一度、男が言う。水の中でキャロルに手を伸ばしながら。キャロルは不安で仕方なかったが、しかし男の手は取らなかった。男は、目を細めて笑う。

「さあ呼吸をしてごらん、ゆっくりと……しゃべれるはずだ、マーメイド」

 言われた通りにゆっくりと呼吸を試みた。泡になって消えていくのが見えたが、確かに呼吸はできた。

「暗い……。海の底なの?」

「賢い子は大好きだ。さあ、お嬢ちゃん」

 男が差し出してきた掌の上に、いつの間にか指輪が載っている。赤く光る小さな石がついた指輪だった。

「君の願いは何かな? どんな願いでも叶える素敵な商品さ」

 キャロルはきっぱり、「いらない」と首を横に振る。つれないね、と男は笑った。

「だって悪魔が渡してくるものなんて。悪いものに決まってるわ」

「そうとも。悪いものだよ、お嬢ちゃん」

 くすくすと笑いながら、男は肩をすくめる。「俺は嘘をつかない悪魔なんだ」と明け透けに言った。

「だけど、それならお嬢ちゃんはいい子なのかな」

「え?」

「俺は悪魔だ。君を惑わす悪いやつで、その指輪はきっと悲劇を起こすだろう。だけど君は? いい子なのか。いい子でいようと思うのか。悲劇をその目で見たくはないかい」

 じっと見据えられ、キャロルは一歩引く。水中で思うように動けるはずもなく、ただ足が動いただけだったのだが。結局、何も言えなかった。

 悪魔は信じられないほど朗らかに、子どものように、笑った。






 道の真ん中でへたり込んで、キャロルは呆然と空を見る。もちろん、海の中などではない。夢でも見たのかと視線を落とすと、息をのむほど美しい石が左手の小指にはまっていた。驚くとともに、少しだけ納得してもいた。

「悪魔……」

 ゆっくりと立ち上がる。マルクスが走ってくるところだった。息を切らしたマルクスは、「お嬢様、なぜこのマルクスを置いてゆくのです」と嘆く。キャロルはとっさに、左手の小指を隠してしまった。

「マルク、あの娘さんと楽しくお話していたようだから」

「妬いてらっしゃる?」

「あなたのそういうところが大嫌いよ」

「さようでございますか……」

 顎に手を当てたマルクスが、「ふむ」と何か考えている。そんなマルクスに、どうにか世間話のような体を装いつつキャロルは尋ねた。

「ねえマルク、悪魔に会ったことがある?」

 マルクスはふとキャロルを見て、「ありますが」と簡単に答える。あるの? と思わず身を乗り出したキャロルに眉をひそめながら、「なぜ悪魔になど興味があるのです」とマルクスは首をかしげた。

「別に……興味があるってわけじゃないわ」

「悪魔とは、人と大して変わりないものですよ」

 淡々と、マルクスが言う。「お嬢様は、神がいるとお思いですか」と問われ、キャロルはすぐに答えられなかった。

「悪魔がいるのだから、神様もいると思うわ」

「なるほど、お嬢様は聡明でいらっしゃる」

「茶化さないでちょうだい」

 ふふ、とマルクスは笑う。先ほどの悪魔の笑い方とはまるで違う、親しみのこもった穏やかな笑みだった。それが何だか不満で、キャロルはムッとする。

 マルクスが手を差し出してきて、ごく自然にキャロルはその手を握った。いつもの癖で、仕方なく、だ。

「悪魔も、もとは人だったという話ですよ」

「嘘よ」

「美しい未練を残して死んだ者は天使に、醜い未練を残して死んだ者は悪魔に。あるいは、神に抗ったものが悪魔に。どちらにせよ、死んだ悪人が悪魔となるのです」

「……本当?」

 さあ、とマルクスが言った。悪魔よりひどいわ、とキャロルは内心で思う。あの男は『嘘をつかない』と言ったのだから。咳払いをして、「じゃあ神様って何なの?」と尋ねてみる。

「ああ、神様はですね、お嬢様。みんな子どもなのですよ」

「子ども?」

「未練を残して死んだ子どもは、天使にも悪魔にもならず神様になるのです。世界を1つ与えられて、それで思うがままに遊ぶのですよ。私たちがいるこの世界だって、子どもが1人ついていて、ころころと好きなように転がしているというわけです」

 歩きながらマルクスは、「生きるのが馬鹿馬鹿しくなりましたか」と笑う。ふと、キャロルは立ち止った。

「わたしも、いま死ねば神様になれるの?」

 マルクスも、立ち止まる。手をつないでいるのだから当たり前なのだけれど、そのことにキャロルはなぜだか驚いた。マルクスは何でもないことのように口を開く。

「未練がないと、なれないのですよ」

 そう、とキャロルは言ってまた歩き始めた。それじゃあ全然ダメね、と。






 美しい蝶を標本にしようと思ったことがある。それで、全て満足しようと思ったことが。たった1匹、永遠に自分のものにすればいいと。

 キャロルは羽の落ちた蝶を見下ろして、静かに瞬きをした。

「また蝶をいじめたのですか」

 そうよ、と答える。マルクスは蝶の死体をじっと見て、白手袋を脱ぎながら屈んだ。

「わたしのものにならないなら、全部嫌い」

「蝶がお好きなのですね」

「ねえ、わたし、あなたのそういうところが」

「大嫌い……ですか。お嬢様」

 蝶にそっと土をかけ、マルクスは微笑する。「貴女は本当は、優しい心を持っておいでだ」と、柔らかく断定した。知ったような口を、とキャロルはマルクスを睨み付ける。

「以前、猫を助けたことがあるとお聞きしましたよ」

「……違うわ、不細工な猫だったのよ。わたしとそっくり、可愛げのない猫だったの」

 雨の日だった。怪我を負った黒猫を、キャロルは自分の部屋へ連れて行き、せっせと看病してやったのだ。傷の治った猫は、キャロルに懐くこともなく逃げていったのだけれど。自分でも、なぜそんなことをしたのかわからない。やはり似ていたからだろう、自分に。断じて優しさなどではない。

「わたし、猫もそんなに好きじゃないのよ。だって気まぐれで腹が立つでしょう?」

「さようでございますか」

 手を叩いて土を払い、マルクスは立ち上がった。「お部屋に戻りましょう」と差し出してきた手を、やはりキャロルはいつもの癖で掴んだ。白手袋をはめていないマルクスの手は、心地よく冷たい。なぜだろう、母の綺麗な指を思い出した。

 ピアノが、上手な人だった。深い海のような瞳をしていて、キャロルのことをひどく愛していた。手のひらはいつも温かくて、キャロルの頭をなでるときには少女のような笑みを浮かべていた。

 ああ、そうだ。冷たい母の手など、彼女が息を引き取った後のことだ。

 そうわかってしまって、キャロルは。

「お嬢様? どうかなさいましたか」


――――あのね、キャロル。

 ベッドの上で、母は穏やかに笑っていた。


“大事なことを教えてあげる”

 なあに、ママ。おしえてちょうだい。

“ずっと覚えていてね、ずっとよ”

 おしえて、ママ。はやく、はやく。

“それはね、キャロル。ママは、世界で一番あなたのことを愛してるってことよ”

 なーんだ、そんなこと。キャロル、そんなことしってるよ。キャロルも、ママのことだいすき。

“そうね、キャロルは知っているのね。ずっと覚えていてね。あなたは愛されているということ、ずっと覚えていて”


 肩をたたかれて、ぼんやりと瞬きをする。マルクスがそっと顔を覗き込んでいた。

 でも、とキャロルは呟く。

「でも、ママはもういないじゃない。もう誰も」

 こらえきれなくなって首を横に振った。

「いらない、いらないわ。こんな世界、何もいらない」

 マルクスの手を振り切って、キャロルは走る。自分を呼ぶ声が、どこか遠くに聞こえた。キャロルは走る。彼女の小指にはめた指輪が、まばゆいほど赤く光っているのにも気づかずに。

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