異世界転生、失敗しました。

ピンクは狂乱

プロローグ

ビヨンド・ザ・ディープ・ブルー


 暗い嵐の夜は、必ずと言っていいほど海に落ちる夢を見る。


 いや、違う……あれは海に引きずり込まれる夢だったんだ。足を引っ張る“彼女”の手の柔らかさが、足首のあたりから少しづつ昇って、次第に脇腹へ、胸へ、ついに頬へとたどり着いて、深く深くへとぼくを連れていく。最後には息ができなくなって……そして目を覚ます。


 夢の中のぼくは何故か、もがくことも手を振り払うことも、意図的にしない。水面から差す揺らめく光が遠ざかっていくのを受け入れているようで、そうなることが運命のようで、“彼女”と一緒にいることを求めているようで、でも、どうしても苦しくて。


 ぼくは今でも、夢の続きを探している。もう見えなくなったあの小さな白い手を、ずっと探している。





 少年は戦慄した。


 中学三年生になる朝、携帯電話を踏み潰した。少年の名は結城ゆうき いたる。映画鑑賞と読書と、オカルト雑誌を読み漁ることが趣味の、少なくとも見てくれは普通の中学生だ。


 彼の耳の奥で繰り返すパキッという余りにも軽すぎる、クラッカーを割ったような音。足の裏にべったりと張り付いた一瞬の感触。と、割れた液晶。


 「あああああああッ!!!!」


 慟哭――――そして、深い深い絶望。真っ白になりかけた意識を現実に踏みとどまらせ、無残な死骸の転がるフローリングの上に、彼は一人両の拳を打ち付ける。何故こんなところに置いてしまったのか。何故足をそんなところに動かしてしまったのか。何故こんなにも容易く、何でもかんでも壊してしまうのか。物持ちの悪い到は、過去二度に渡って携帯電話を壊し、二回目の時に伯母から『次はない』と言われたばかりだった。言葉をそのまま受け取るなら、もう彼は二度と携帯電話を買い与えられることがないということだ。


 涙ぐみながらも通学用リュックを背負い、とりあえず“遺体”をポケットに詰めてトボトボと家を出ていく。自分には過失の無い何らかの事故を装ってまた伯母に買ってもらおうという算段だ。


 伯父と伯母の姿を見ながら、彼は挨拶さえせずに出ていった。二人も到が出ていったことを知りながら、気に留める素振りさえみせなかった。彼らの家族関係は冷え切っている。


 父と母を事故で亡くし、たった一人残された物心もついていない到を引き取ってくれたまでは良かったが、二人の目的は莫大な保険金だけで、到に愛情を注ぐことはなかった。それでも到は“したたか”に生きる術を探り、時に媚びを売り、時に反発し、結果的に何不自由なく生活を送っていた。兄弟もおらず、交友関係も狭い。それでも死ぬわけではない。充実していなくても妥協点くらい分かる。不満は上げだしたらキリがないが、マイナスではない。ごく普通であるように振舞っている奇妙な生き方だった。


 そんな彼にも中学生男子らしい夢がある。それは“異世界に行くこと”だ。全く荒唐無稽な話だが、彼は本気だった。昨夜もオカルト雑誌『新科学アナザースペース』を読み、彼の住む地球とは違う並行世界に関するトンデモ理論に目を輝かせていた。


 彼は自分を満たしてくれないこの地球、この世界にうんざりしている。自由に妥協しない、不満足に甘んじることのない人生が欲しいと願っている。


 時々彼は空を仰ぎ、その先にあるかもしれない異世界を見つめる空想をしていた。通学路を歩くときは特にそれに費やす時間が多い。剣と魔法、金銀財宝を探し求める冒険、助けを待つ麗しき女性と、勇者を迎え撃つ悪魔……典型的なファンタジーゲームのような世界が、自分を待っているかもしれない。そう思うだけで彼は胸が躍った。


(ああ……ぼくを待っている空の先の異世界に……神様の手違いか何かで行けないかなぁ……)


 彼が今ハマっている小説は、トラック事故で死んだ主人公が神様によって異世界に転生させられ、新たな人生を送るという内容だ。そんなことが自分にも起きたなら、勇者にはなれなくても、お供の魔法使いくらいにはなれるかもしれない。空を見上げながらの空想が今日も膨らみだした。


(勇者と共に魔王を打ち倒して、高名な賢者として名を轟かせ、道中で儲けたお金で家を買って牧歌的な生活をしよう。海の見える場所に家を建てて……ああだめだ、潮風でベタベタになりそうだな。けど海まではそう遠くない方がいいな。時々旅の仲間と一緒に泳ぎに行ったりして……それで……それで……)


 脈絡もなく、キーンという耳鳴りのような音が頭の奥から鳴りだしたと思えば、途端に視界を満たす青空がグルグルと回転し、体がふわりと重力から解放される――――


「……あれ?」


 ――――いや、重力は到の体を手放しかけただけで、またすぐにその手でしっかりと彼を掴み、大地に引きつけた。僅かに近づいたと思った青空が勢いを増して離れていく。そして――――ゴンッという重苦しい音。景色が空と大地のとっかえひっかえを繰り返し、どちらが上でどちらが下だったか分からなくなる。到はまず、自分の体が地面を転がっているのだと察知した。そこからどうしてそこに至ったのかを逆算する。驚くほど思考が冴えており、瞬時に答えがはじき出された。


(そうか、事故ったのか)


 彼の答えが正答であると知らせるファンファーレのように、甲高い女性の叫びが聞こえた。体は空の方を向いて止まった。足と頭が熱くなり、到は幸福感に満たされた。


 ついにあの世界へ行ける。


 突発的な笑いが止まらなくなった。空が真っ黒に染まっていく様子を見つめながら、到は延々と笑い続けた。全身の痛みがそのまま笑いのツボを押さえられているかのように愉快で仕方なかった。


 結局彼は、気を失うまで“わらい”続けていた。伯父を、伯母を、世界を、そしていつまでも子どものままでいる結城到という人間を。


九つの宇宙論

異世界転生、失敗しました。

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