第9話 雨は好きですか?
「そろそろ時間なんだけど……」
二階へと続く階段を、リビングから彩七さんがちらり。人影はなく、物音も特に聞こえてきません。
(うーん……どうしたんだろ)
スマートフォンで時間を確認してみると、九時五十五分。
待ち合わせ時間まであと五分です。
(寝坊、なのかな……?)
彩七さんの頭に浮かんだ選択肢の中で、一番可能性が高いのはそれでした。
「ドぉラぁ~……。早く出かけるドラぁ」
ソファーに寝っ転がりながらぶーぶーと不満を口にする
横髪に変な寝癖がついていることと、おでこに文字が書かれたままであることから、彼女がまだ鏡を見ていないことは明白でしょう。
「……ちょっと電話してみます。もう少しだけ、時間をください(なんでおでこに[おでこ!]って書いてるんだろう……?)」
そう言って、彩七さんは昨日新しく登録されたばかりの番号に発信します。
すると、意外なことに発信してまもなく電話はつながったのでした。
「……もしもし?(起きてる……? あれ?)」
恐る恐る呼びかけてみるも、返事はありません。
「もしもし?
『……あ、お、おはようございます……』
再度の呼びかけでようやく聞こえた八美夜さんの声は、電波のせいか少しだけ震えているように聞こえます。
「はい、おはようございます。……もしかして、今起きたばかりですか?」
『い、いえ……そんなことはないです……』
起きているのに何故? と彩七さんは受話器越しに首を捻ります。昨日の印象の限りでは、八美夜さんは嘘をつくような人には見えませんでした。というよりも、そもそも人じゃありませんでした。
「体調悪いんですか?」
『そ、そういうわけではないのですが……』
なんだか歯切れの悪い八美夜さんの態度。
彩七さんには、なんだか申し訳なさそうということくらいしかわかりません。
「ドラぁ! 起きてるなら早く行くドラぁ」
「もう少しだけ待っててください。ね?(あのおでこ、自己主張強いなぁ)」
口の前に人差し指を立て、静かにしていてくださいとお願い。
烈火さんは露骨なくらいつまらなそうにぷっぷくぷーとほっぺたを膨らませるも、
「烈火ちゃん。リンゴ剥いたけど、いかがぁ?」
「食べるドラ!」
(ありがとう、お姉ちゃん)
心の中で感謝を述べつつ、彩七さんは意識を受話器の向こうへと向けました。
「……八美夜さん。何かあったんですか?」
ずばり尋ねます。お姉さんの時間稼ぎもそう長くは持たないという直感が彩七さんにはあったのです。烈火さんは食いしん坊で飽き性なので。
『……雨はまだ降っていますか?』
「雨、ですか? はい。本当に小雨って感じですけど、まだですね」
『そ、そんな……!』
絶望に嘆き果てるような弱々しい叫び。彩七さんにはなんのことだかさっぱりです。別に雨が降っていても、絵を見に行くことは出来ます。
『あ、あの……』
「……八美夜さん?」
『わ、私、雨が怖くて外に出られないんです……!』
「はい? いや、それって、」
『ごめんなさい……!』
その言葉を最後に八美夜さんとの通話は切れてしまったのでした。
(……雨が怖くて外に出られない。なるほど。……なるほど?)
彩七さんにはなんとなく八美夜さんの話がわかるようなわからないようなわかるようなわからないような気がしました。7:3でどちらかというとわからないのほうが強いです。
「ドラ? もう終わったドラ?」
もぐもぐと口を動かしながら烈火さんが尋ねます。
「はい。雨が怖くて外に出られないそうです」
「ドラ? もー、怖がりすぎるドラ。……
「なんでわざわざロシア語で雨って言ったんですか?」
「な、なんでロシア語ってわかるドラ?」
「自分で言ってましたよ。大学でロシア語を勉強してるって(そういうのって、つい使いたくなりますよね)」
「第二外国語で取ってるだけドラ」
「もしかして、どうして、と
「そ、そういうことは気づいても言っちゃ駄目ドラ! ……しかし、雨が怖いドラねぇ……」
烈火さんもやっぱり釈然としない様子でゆっくりと首を捻ります。
(やっぱりよくわかりませんよね。雨が苦手、じゃなくて、雨が怖いってイマイチ)
彩七さんも雨は好きではないですが、怖いなんて思ったことはありません。
熱帯雨林のような、大規模スコールに襲われる場所に住んでいるならともかく。彩七さんが住んでいる範囲には、常識的な雨しか降りません。大雨洪水警報が最後に出たのはいつのことでしょうというレベルなので、雨が怖いという言葉にイマイチ実感はわきませんでした。
「あらあら、それじゃどうするのかしら彩七ちゃんは?」
それは困っちゃったわねと微笑む春七さんに尋ねられ、
「……八美夜さんと直接話してみる。ドラさんは車を出しておいてください(あと、よくわかんないですけどそのおでこのも消しといてください)」
なんとなく。
行かないほうが後悔するのではないかと思った彩七さんは、リビングを出て、二階へと向かうのでした。
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