三月彩七さんの優しい世界

十千しゃなお

第1話 シェアハウスに住みませんか?

 三月彩七みつきあやなさんの世界は今日も優しい世界でした。


 ここは、とある世界の神奈川県相模原市にあるシェアハウス三月みつきです。


「うん……うん、わかった。じゃあ、気をつけて帰ってきてよね? はーい」


 お姉さんとの通話を終えると、


「お姉ちゃん、もう着くみたいです。先に軽く自己紹介しておいてって言ってました」


 彩七さんは食卓に集まったみなさんにざっと説明し、邪魔にならないよう、スマートフォンを近くの棚に置きました。


「いただきます?」

「んー、まだ待って? お姉ちゃんが来てから乾杯しよ」

「わかった」


 彩七さんの左隣の席に座るこうさんは、素直にこくりと頷いてくれました。が、その対面に座る烈火れっかさんは、物欲しげな顔で食卓に並んだ料理を見つめています。両手で口を押さえて我慢する仕草はまるで幼稚園児。とても二十一歳には見えません。今にもヨダレが垂れてしまいそうです。


「というわけで、お姉ちゃんに代わって私がみんなを紹介しますね」

「……あ、はい……。よろしくお願いします……」


 彩七さんの正面に座るのは新入りさん。緊張しているのか、消えてしまいそうなくらい小さな声で返事をしてくれました。透き通るような細い声は、麺類で例えるなら素麺そうめん。汁物で例えるならすまし汁のような繊細な味をしています。


「こちら、101号室に住んでいる真藤香しんどうこうちゃんです。この春から高校一年生」


 左手を向け、香さんのことを紹介。香さんは新入りさんと目を合わせたまま、うんともすんとも言いません。にらみつけるでもなく、目で何かを語っているわけでもなく。ただ目と目を合わせています。


「ほら、香。ちゃんと挨拶」


 しょうがないなぁと促すと、


「……ぺこりぴょんス♪」


 香さんが真顔のまま軽く頭を下げ、新入りさんは戸惑ったように目を丸くしました。


「ぺこ……?」

「ぺこりぴょんス♪ ここ独自の挨拶」

「挨拶……?」

「ぺこりぴょにータ☆ こう返すのが一流ぺこりスト」

「はぁ……?」


 淡々とどうでもいい嘘をつく香さんに、彩七さんは、


(まったくもう……)


 と心の中で注意します。本気で注意をしようなんて微塵みじんも思っていないので、実際に声に出したりはしません。むしろ、とても香さんらしい自己紹介だと感心すらしています。

 ぺこりぴょんス♪という、ちょっと謎な挨拶からもうかがえるように。

 前髪を斜めにぱっつんと切りそろえた、ちょっと前衛的なボブヘアーからもうかがえるように。

 真藤香という女の子は、普通の女の子とはちょっとだけ違い、よく言えばちょっと個性的で、雑に言ってしまえばちょっと変な女の子なのでした。

 そんな香さんの言葉を、


「そうなんですか……」


 新入りさんは何度も何度も頷いて、どうやら完全に信じ切ってしまったご様子です。

 あまりにも簡単に信じるので、


(この人、詐欺にあいそう)


 とも彩七さんは思いましたが、郷に入れば郷に従おうとしている可能性もなきにしもあらずです。


「もう、香ったら」

「狙いはリフレッシュ」

「そんなに空気にごってたかな?(トップバッターから?) ……まぁ、この子のことはとりあえず置いておくとして。そちらが201号室に住んでいる龍ヶ峰烈火りゅうがみねれっかさん。東京の大学に通ってらっしゃいます」


 次に烈火さんのことを紹介します。


「ドラ! よろしくドラ!」


 いつも元気な烈火さんらしく、彼女は新入りさんに向かって微笑みました。褐色の肌とのコントラストで、真っ白な歯はちょっとうざったいくらい綺麗に見えます。案の定、新入りさんは控えめながら素っ頓狂な顔をして……。


「ドラ……?」

「ドラ? ドラはドラドラ! 挨拶ドラ!」

「はぁ……」


 生返事でぎこちなく頷く新入りさん。


(あー。ドラさん、ちょっと特殊ですもんね)


 と少し共感出来ないこともありません。

 ドラドラうるさいことからもわかるように、烈火さんもちょっと変な女の子なのです。香さんとは別の方向で。


「そして、私は家主である三月春七みつきはるなの妹、三月彩七です。香とは幼稚園から一緒で、同じくこの春から高校生になります」


 ウケを狙うでもなく。勢い任せでもなく。そつのない彩七さんの自己紹介も、彼女という存在をよく現しています。

 どんなことが起きても、ほとんど動じずにそつのない対応が出来る彩七さん。人当たりがいいこともあってか、第一印象で得をすることが多く、関係各所からは真面目でいい子だと評判です。

 そんな彼女の一番の特徴は、そう思われていることを自覚していることでしょう。


「こ、こちらこそ……ぺ、ぺこりぴょんス♪ドラです……?」


 やっぱり新入りさんは郷に従おうとしているようです。香さんと烈火さんの見よう見まねで挨拶を返してくれました。

 恥ずかしさと自信のなさが入り交じった赤ら顔はとても愛らしく、


(綺麗だけど可愛らしい人だなぁ……)


 と彩七さんはしみじみ。嘘を信じたままなのはかわいそうなので、どれも全然挨拶じゃないですよと教えてあげます。


「……え、え……? どれも挨拶ではないのですか……?」

「はい。全部挨拶じゃないんです(もう、ぺこりぴょんス♪なんて変な嘘をつくから新入りさんが困っちゃったじゃない)」


 白々しいくらい素知らぬ顔でそっぽを向く香さんのことを肘で突いてやります。香さんはわざとらしく口笛を吹こうとしているみたいでしたが、音はちっとも出てきません。


「ドラぁ! 挨拶じゃなくないドラ! ドラは挨拶ドラ!」

「え? え……?」


 ぷんすかぷんすかと烈火さんは不満げで。新入りさんは戸惑いがちに烈火さんと彩七さんのことを交互に見ます。烈火さんが介入してきたことで、また少し面倒なことになりました。烈火さんは大体いつも面倒です。


「ドラさん。ややこしいことダメです」

「でも、ドラは間違ってないドラ……」

「そうですけど……。そうですけど、三月に特別な挨拶はありません」

「ドラぁ……」


 間違ってないもんと烈火さんが唇を尖らせます。烈火さんのほうが年上だというのに、何故か年下をいじめているような怪しい空気が漂い始めていました。


「あーちゃん」


 ねぇねぇと、香さんが彩七さんのことを手招きます。


(これは助け船を出してくれるのかな……?)


 僅かな期待を抱かずにはいられません。


「なに?」

「好き」

「え?」

「好き」

「ああ、うん。ありがと(それは知ってる)」


 よくわからないタイミングでの告白。

 真顔で右手の親指を立てる香さんを見ても、


(平常運転だなぁ)


 としか彩七さんは思いません。多分頑張ってという意味なのでしょう。烈火さんがいつでも烈火さんであるように、香さんはいつだって香さんです。


「とにかくですね、」


 彩七さんが適当に事態を収拾させようとすると、今度は玄関のほうからガチャッという物音が。続いて、「ただいまー」と春七さんの声が聞こえてきました。

 家主様のナイスタイミングでの帰還です。


「ごめんなさいねぇ、みんなぁ」


 スリッパをパタパタ鳴らし、ダイニングへとやってきた春七さん。ハンドバッグを置き、台所で丁寧に手を洗って着席。栗色の髪の毛が僅かにふわりと広がりました。いわゆるお誕生日席。長方形のテーブルの短い辺の部分にある席が、シェアハウス三月の代表である春七さんの特等席でした。


「彩七ちゃん。今、どんな感じなのかしらぁ?」


 春七さんがゆったりとした口調で語りかけます。それまでのよくわからないものとよくわからないものとよくわからないものしか入り交じっていなかった空気はどこかに消え、みなさんの緊張がほぐれていくのがわかりました。温和そうな春七さんの人柄がなせる業です。


「私と香とドラさんの紹介が終わったところかな」

「あらあら。じゃあ、ちょうどよかったみたいねぇ」


 偉い偉いと目を細めて頷くと、春七さんは新入りさんのほうを向き、右手を自らの心臓の位置にあてました。


「ようこそ。シェアハウス三月へ。私が家主の三月春七です」


 そう言ってゆっくりと頭をぺこり。ゆったりとした動作とふわふわ揺れる髪の毛。思わず目を奪われてしまいそうなおもむきがあり、みなさん春七さんが頭を上げるのをついつい眺めてしまいます。


「あの……この三月には特別な挨拶があるのですか……?」


 恐る恐る顔の高さまで手を上げ、新入りさんが尋ねました。明らかに疑心暗鬼です。先ほどまでなんでも信じそうだったのに、今では何も信じてくれなそうです。


「特別な……? いえ、三月にはありません。安心してくださいねぇ」


 春七さんの優しげな微笑みを見て、ほっと胸をなで下ろす新入りさん。不安そうな雰囲気が和らいだのが、目に見えてわかります。


「……おっかしいな。私も同じこと言ってたような……」


 彩七さんが、つい、ボソッと小さなボリュームで漏らすと、


「人徳、董卓とうたく劉備元徳りゅうびげんとく


 隣の香さんが三国志の英雄で韻を踏みながら耳打ちしてきました。


「私が董卓ってこと?(漢王朝牛耳っちゃう感じ?)」

「酒池肉林」


 彩七さんが悪名高い董卓で、春七さんは仁義の人として名高い劉備元徳という例え。

 だとしたら、なかなかアレな例えですが、彩七さんは少しもムッとしません。

 春七さんと比べられて、春七さんのほうが上品だとか、大人っぽいとか言われることもあります。けれど、彩七さんは全然傷つきませんでした。歳の離れた姉である春七さんは、彩七さんにとって既に憧れで、大勢の人と同じように彩七さんも春七さんのことが大好きなのです。

 だから、春七さんが褒められると彩七さんは自分のことのように嬉しかったりするくらいで……。


「ところで、はーちゃん」


 そんな春七さんに香さんから質問です。


「どこへ?」


 確かに、と彩七さんもお姉さんのほうを見やります。歓迎会の準備が出来てから、急に「いけない、忘れていたわぁ……!」と慌ててどこに行ったのでしょう。気にならないはずがありません。


「今の話かしらぁ?」

「そう」

「それはねぇ、」


 そう言いかけると、春七さんは潤いある唇に人差し指を押し当てました。

「ひ・み・つ」


 悪戯っぽくウインクをして、大人の妖しさを醸し出そうとする春七さん。


「色っぽい」


 感心したように香さんはパチパチと淡泊な拍手を送るも。

 妹である彩七さんは気づいていました。


「お姉ちゃん」

「なぁに?」

「もしかして、お酒飲んできたでしょ?」


 ほのかに赤らんだ頬。

 かすかに潤んだ瞳。

 しっかり残ったアルコールの香り。

 そうです。

 春七さんはお酒が入ると、いつも顔に出てしまうタイプなのでした。


「うふふ。だって、近所におでんの屋台が来てたのを思い出しちゃったんですものぉ」

「へー。珍しいね今どき(私、屋台って見たことないかも)」

「でしょう? 地元の人間としてご挨拶しないとって思ったのよねぇ」

「で? のぞいてみてどうだった?」

「美味しかったわぁ。今度はみんなで一緒に行きましょう?」

「あ、いいかもそれ。ちなみに何がおすすめ? やっぱり大根とか? たまご?」

「んー、多分彩七ちゃんはダメよぉ?」

「私が? ……えっと、ちくわぶとか?」

「えっとぉ、熱燗かしらぁ?」

「あー、なるほどね(私と香は無理か……)」


 歓迎会があるにも関わらず、先に一杯引っかけてきてしまうのはちょっとなんだかなぁな事態です。が、むしろそれも春七さんらしかったりするのかもしれません。


「訂正。馬鹿っぽい」


 色っぽいという発言を取り消し、香さんが何故かまた感心したようにパチパチと拍手するのを眺めながら、


(仕方ないなぁで許せてしまうのは香の言っていたとおり人徳なのかな?)


 と彩七さんは納得しておくことにするのでした。


(……というか、本当に一杯引っかけてきただけで、おでんは食べてないんじゃ……)

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