30:この世界に来た理由
呆けてハクアを見る。
ハクアもまた、自分の行為に驚いたような顔をしていた。
「…………あ。すまない。その……もう少しだけ待ってくれないか。少ししたら落ち着くから」
ハクアの身体は震えていた。
その細い手首には、足首と同様、手錠の痕がくっきりと残っている。
「すまない」
顔を伏せ、手のひらを握り締め、怯えを必死に隠そうとしながら、ハクアが繰り返した。
その声はいつもよりも高い、子どもの声だ。
トウカと変わらない、誰かの庇護が必要な、幼い子どもの声だ。
「もう少しだけ待っ――」
耐えられなくなり、新菜は両手のグローブを外してポケットに突っ込んだ。
跪いて小さな矮躯を抱きしめる。
「ごめんなさいハクア様」
涙ながらに謝罪する。
「わたしの判断が間違っていました。片時もお傍を離れるんじゃなかった。こんな目に遭わせてしまってごめんなさい」
さっき新菜は、怖かったでしょう、と言った。もう大丈夫ですよ、と。
(わたしは馬鹿だ)
そんなわけがないのに。
暴力を受けて囚われ、殺されかけた恐怖が、そんな簡単な一言で済まされるわけがないのに。
ハクアが過去に何度も似たような目に遭い、人間を怖がっていたことを知っていたのに。軽々しく、もう大丈夫だなんて。
「……なんでお前が謝るんだ。お前のせいじゃない」
ハクアの手が背中に回り、添えられた。
まだ小さな身体の震えは止まっていない。
それでも彼は新菜を気遣っている。
涙が一筋、頬を流れ落ちた。
「助けに来てくれてありがとう。さっきは見違えた。あんなに強くなっていたなんて……お前は本当に努力してくれたんだな……」
「はい。頑張りましたよ。ハクア様のために」
新菜は手の甲で涙を拭い、密着していた身体を離した。
虹色の瞳を見つめ、目じりに涙を貯めて微笑む。
「わたし、ずっと不思議だったんですよ。なんでこの世界に来たんだろうって。この世界に来たところで、伝説の勇者や救国の聖女の役割を求められることもなかった。魔物は出るけれど、大きな戦争もなく、レノン王国は平和でした。わたしがいてもいなくても関係なかった。だから、わたしがこの世界に来たのはただの事故、偶然なんだろうって、ずっとそう思ってました。でも、違いました。やっとわかったんです」
新菜はハクアの頬に触れた。
ミレーヌが残した爪痕を隠すように、ハクアの頬を右手で覆う。
「わたしはあなたに会うためにこの世界に来たんです、ハクア様」
「…………」
ハクアは大きな目をますます大きくした。
驚いたせいか、手のひら越しに感じていた震えが止まる。
やがて、ハクアの顔を覆ったのは困惑の色。
「……大げさだろう。そんなわけ……」
「いいえ」
新菜はかぶりを振って、ハクアの発言を押しとどめた。
「わたしはあなたのためにここに来たんです。綺麗な虹色の瞳を持つ、独りぼっちの竜を孤独から救うために」
「……おれのために世界を超えてきたと?」
荒唐無稽な話だと思っているらしく、ハクアは苦笑した。
「はい」
けれど、新菜は真顔で頷き、小さな手を取った。
「わたしはあなたを愛しています」
手を握り、万感の想いを込めて言う。
ハクアは唖然とした。
思ってもみなかった、そんな顔をしてから、目を逸らす。
「……何を言い出すんだ」
「本気ですよ」
断言すると、ハクアは視線をさまよわせた。
鉄格子や床に目をやり、また新菜を見る。
それでも新菜が発言を撤回しないからだろう。
やがて、絞り出すように言った。
「……違う。それは恋愛感情じゃない。お前は右も左もわからない状態で、初めておれに会ったから勘違いしてるだけだ。親鳥の後を雛が追う、刷り込み現象と一緒だ。きっと、おれの境遇が少しばかり特殊だから同情して――」
「違います。わたしは本当にハクア様のことが好きなんです」
焦れた新菜はハクアの頬を両手で挟み、軽く睨みつけた。
「もう。どうやったら信じますか? キスでもすればいいですか?」
「な……いや、ちょっと待て。どうしてそうなる?」
ハクアは新菜を見上げて狼狽した。
「イグニスに惚れるならわかるが、一体どこにおれに惚れる要素があるんだ。おれは竜だぞ? お前と同じ時間を生きられないし、身体だってこんなふうに縮めたりできるんだ」
「ええ、見てますよ。ちびハクア様ちょー可愛いです。そんなことができるなら早く教えて欲しかったです。お詫びに後で存分に愛でさせてください。撫で回しの刑を執行します」
「お詫びの意味が全くわからない。こうなりそうだから言わなかったんだ……いや違う。いま大事なのはそうじゃなくて、だから……」
ハクアはしどろもどろになった。彼がここまで狼狽する姿を初めて見る。
「ハクア様はわたしのことが嫌いですか?」
「それは」
「嫌いなら抱きしめたりしないですよね?」
痛いところを突かれたらしく、ハクアがぐっと言葉を呑んだ。
新菜はその虹色の瞳を覗き込み、にっこり笑った。
「ハクア様もわたしのことが好きだって、自惚れてもいいですか?」
「……。……でも……」
ハクアは俯いた。
「同じ時間を生きられないという問題には、アマーリエ様が素晴らしい解決方法を教えてくださいました。確かにわたしは人間で、どんなに頑張って長生きしてもハクア様の寿命には遠く及びません。でも、わたしはハクア様の子どもを産むことができます」
「!!??」
ハクアの顔が真っ赤になる。
「な、な、なにを」
(あら)
ハクアは新菜より純情だったらしい。
新発見だ。新菜はくすっと笑った。
「アマーリエ様は言いました。わたしがハクア様の子どもを産めば、その子がわたしの代わりにハクア様とともに生きてくれると。その子が死んだらまたその子の子どもが。そしてハクア様はわたしの孫やひ孫たちと、ずっと繋がって、関わり合いながら生きていくんです。ね? そしたらハクア様は独りじゃなくなるでしょう?」
ハクアは押し黙っている。
「……やっぱり、わたしと家族になるのは嫌でしょうか」
おそるおそる窺う。
「いや、それは……そんなことはない、けど……」
動揺の大きさを示すように、否定する口調はいつもと違った。
「……おれはお前に何もしてやれない。いまだって、助けてもらって……おれは何も返してやれない。お前に相応しい男は他に」
「ああもう! ほんっとにハクア様はマイナス思考の塊ですね! 自己評価が低すぎます! だーからハクア様以外の男なんてはなっからいらん、眼中にないって言ってるでしょーが!! 乙女が一世一代の告白をしたんですから、ハクア様はただイエスかノーか答えりゃいいんですよ!!」
とうとうぶち切れ、新菜はハクアの肩を掴んで激しく揺さぶった。
「いや、ちょっ、」
ねえ、ハクアって怪我人じゃなかった? と理性が突っ込んで来るが、ハクアは二本の足で立っているし、重傷を負っているようには見えないので大丈夫だろう。……多分。
「ただし断るなら覚悟してくださいよ! 断られたらわたし、イグニス様みたいな良い男を探しに出て行きます! メイドも辞めます! もう朝起こしてあげないし、紅茶も淹れてあげないし、大好物のハチミツケーキも作ってあげません! さあイエスかノーか答えなさい!!」
「わかった、わかったから離せ!!」
ハクアは新菜の手首を掴み、珍しく声を荒らげた。
「なんでお前はそう極端なんだ!? さっきミレーヌたちを叩きのめした冷酷無比なお前はどこにいった!?」
「あいにくですがこっちが地です!」
「知ってる」
新菜の手を掴んだまま、ふっと、ハクアが笑った。
「お前はその明るさでおれを救ってくれた。……何度救われたかわからない」
新菜は口を閉ざし、ハクアを見つめた。
静寂が落ちる。
そして。
「……本当におれでいいんだな」
ハクアがまっすぐに見返してきた。
「はい」
「後悔しないか」
「しませんよ。言ったでしょう。わたしはハクア様の傍にいられるだけで幸せなんです」
「……。じゃあ、今度は抱きしめても謝らなくていいか」
虹色の瞳に自分が映る。自分だけが映っている。
つまり、告白の答えは。
「……はい」
新菜は瞳を潤ませて笑んだ。
「どうぞ遠慮なく抱きしめてください。それ以上のことだって、したかったらいつでもしていいんです。わたしに許可を取る必要はないです。それはわたしにとってご褒美ですから」
「じゃあ遠慮なく」
言うなり、ハクアの顔が近づいてきて、唇が重なった。
「!」
不意打ちに心臓が跳ねる。
でも、新菜は目を閉じてその感触を受け入れた。
数秒して唇が離れると、ハクアは幸せそうに笑っていた。
新菜も照れ笑いを返した――が、その心中は少々複雑だった。
何しろ現在、ハクアの外見年齢は五歳。
正直に言って、幼児に手を出した犯罪者の気分である。
「……あの、やっぱりキスは大人の姿のとき限定でお願いしたいです。せめてわたし以上の外見年齢のときに」
「? わかった」
ハクアは不思議そうな顔をしたものの、頷いた。
「ブレスレット、つけてくれてるんだな」
ハクアの視線は新菜の左手首に注がれていた。
「はい。ありがとうございました。これから毎日つけますね」
ブレスレットを胸に抱える。
「気に入ってもらえたようで良かった。あと、すまない。預かっていたリボンを失くしてしまった」
ハクアは頭を下げた。
「いいですよそんなの」
新菜はその律儀さに笑いながら言った。
「ハクア様がこうして帰ってきてくれたんですから、お役御免です。さあ、いい加減にその目障りな首輪を外しましょう……触っても大丈夫ですか?」
「ああ」
新菜が首に触れても、ハクアはもう拒んだりはしなかった。
首輪に鍵を差し込み、外して捨てる。
「帰りましょう。みんな待ってます」
「ああ。そうだな」
右手を差し出すと、ハクアは小さな手を重ねて目を細めた。
手を繋いだまま牢屋を出て――新菜は硬直した。
すぐそこにある、地上へ続く階段に、野次馬たちがいた。
先頭にいるのはイグニスとアマーリエ。
その後ろにラオたち傭兵。
一部始終を見ていたらしく、皆、妙に生温かい視線でこちらを見ている。
「ほら、私の言った通りになったでしょう?」
アマーリエはどこか得意げに、隣のイグニスに話しかけた。
「ようやくハクアにも春が来たか……感慨深いな。息子が家に結婚相手を連れてきたときの親の気持ちを疑似体験している気分だ」
「ええ。問題児だったあのハクアが立派になって……」
アマーリエがそっとハンカチで目を拭った。
「寂しいような気もするが、俺たちは息子の新たな旅立ちを笑って祝福してやらなければ」
「ええ、あなた」
イグニスが口元を覆い、アマーリエが慰めるように肩を叩く。
ただしアマーリエの唇は弧を描いていた。
きっとイグニスも笑っていることだろう。
……完全に楽しんでいる。
新菜は頬を朱に染め、わなわなと震えた。
この人たちは何をしているのだろうか。
特にイグニス。
悪の首謀者を捕らえたいま、ハクアの保護者兼侯爵家当主として様々な事後処理が待ち受けているはずなのに、全て放っぽり出して出歯亀とは!
「そこで何してるんですかああああ!!」
「きゃー!」
「ニナちゃんが怒ったっすー!」
エルダとラオが笑い、皆がきゃあきゃあ言いながら退散していく。
「……もうっ」
新菜が真っ赤になって頬を膨らませる一方、隣ではハクアが首を傾げていた。
「……息子?」
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