Double Devotion-オペラ座の怪人-

野嵜やさ

プロローグ

私の人生と言うのは、とても幸福だと思う。

父は早くに亡くなったが、母はとても優しく愛情を込めて私を育ててくれた。

そして妹、彼女は私を慕ってくれていたし何より私も彼女を慕っていた。いつの間にかいて、いつの間にかそれが自然になっている、それが家族。

私が高校三年生になって彼女は中学1年生に上がった。

スカートを翻し、彼女は改札口を目指して駅構内の階段を軽やかに上がっていった。私はと言うと二人分の切符料金を握りしめて彼女の数段後ろを位置してゆっくりと上がる。

今日は彼女が私と出掛けたいと言ってくれたのだ。だから電車でも使って休日を過ごそうというわけである。

私たちの住んでいる町は都会に行くには便利だが、町そのものは特別賑わっているわけでもない。

だから休日と言っても昼時を過ぎれば駅構内は空いている。

「お姉ちゃん、今日はわたしのわがままに付き合ってくれてありがとう」

にこにこと緩い笑みを浮かべる彼女、園原麻爾 ( そのはらまに ) 。内巻きにくるりと歪んだ髪はふわふわと揺れている。彼女の髪は茶色がかっていて綺麗だ。私は幼い頃こそ黒い髪で写真に写っていたが今では彼女と同じく茶色がかっている。私はこの色の方が気に入っている。光にあたると茶色の髪がきらきらと光っている様で、彼女と似ている部分でもある様で嬉しかった。階段を上がっている途中、そんな彼女は足を止めてふと此方を向いた。懐っこい目、その目が私を見つめていた。

「どうしたの?」

私は足を止め、彼女を見上げた。

ゆっくりと彼女が私との間を詰める様に階段を一段降りる。彼女との間は僅か一段。

「お姉ちゃん、昔は歌を歌っていたんでしょう?賞状、たくさん見つけちゃった」

唐突に開かれた話題に思わず目を丸くする。賞状、歌。それは私が幼少期にあった出来事だ。

「何、他に変なものでも見つけたの?」

「ううん、たくさんの賞状。お姉ちゃんは歌が上手かったんだね。どうして今は歌わないの?」

「…歌は、小さい頃に辞めたの。麻爾が大きくなる前にね」

「どうして?」

「……好きだったけど、続ける程の気力はなかっただけ。それよりも、その話はママから聞いたの?」

「…ママは歌、続けて欲しかったって言っていたよ」

「……でも、もう辞めたの。未練なんて全くないし、それに麻爾に言われるまで忘れていた」

やはり母からかと確信して、当時はコンクールに出ない事を告げると残念がってくれていた事を思い出す。小さく笑うと、麻爾も笑った。

「だから、どうして?」

「え?」

「だからどうして、ママの期待も裏切って小さい頃に歌を捨てたの?未練もなく、自分勝手に」

麻爾が、怒っている。

はぐらかそうとしたのが気に障ったのか。しかし彼女のこんな棘のある言葉、初めて聞いた。

「それは……」

覚えている。クラスメートの男子に「必死過ぎて気持ち悪い」と言われた。周りの女子も「ちょっと上手いからって媚びている

」と。歌のテスト、文字通り私は気持ちを歌に乗せて、込めて歌った。

先生は褒めてくれたが、クラスメートは違った。今思えばやっかみの一つだったのかもしれないが、当時は本当にショックを受けた。歌声を伸ばそうとするだけで皆の目玉が冷えていくのが分かったからだ。皆がそんな風に私を見ていた事、そしてその中に私がいた事にぞっとした。辞めた事に未練は一切無かった。

何かに秀でない方が角も立たず、友人が増えたからだ。それからは今までよりも全てが楽しかった。

歌の練習よりみんなでお出かけして、美味しいものを食べる。流行りの洋服を見てまわり、どれが好みかと楽しく話す。

機会があって歌を歌えば皆が上手いとちやほやしてくれた。

歌なんて、本気じゃない時の方が楽しい。コンクールに出ていた時だって、母に誉められて、周りにもちやほやして貰えるから続けていただけに過ぎない。本気でなんて続ける事は恐ろしい事だ。期待に沿えず落ちぶれていったら、恥ずかしい思いをしたら、そんな事を考えたらやっぱり辞めて良かったと思えたのだ。歌の先生にはいつも『努力が足りない』と冷たく言われていたし、そんな毎日からも抜け出せた。

「麻爾、私は──」

彼女がもし、歌を始めたいと言うなら心から応援しよう。こんな生半可な気持ちで始めて、辞めた私。こんな私に応援されても嬉しくないかもしれないが、未練は本当にない。だから彼女と自分を重ねて劣等感を感じる事もないだろう。なんて弱い考え方。けれど、私はそう思って麻爾を見つめた。

「歌なんて無くても生きていける、責任も、何も必要のない子供。歌を手放して、未練の一つも有ったら赦してやったのに」

彼女に似つかわしくない、低い声。彼女が、彼女でない。怖くて、ぞっとした。

「麻爾、ごめんね。ええと、何を怒っているのか私に…」

麻爾の両腕が一度微かに後ろに下がったかと思うと、そこからは駒送りの様に彼女の動きが見えてくる。

ぐ、と私の肩まで来たかと思った瞬間、私は彼女に突き飛ばされたのだと理解った。

ぐらりと身体が後ろに引かれ、反射的に手を伸ばしても空を切るだけ。誰も、何も私の手は掴めない。掴んではくれない。

私の身体が宙に浮き、コンクリート造りの地面に向かってただ落ちていく。何も考えずに二人で上った階段を今度は私一人が下る。落ちていく。

手に握っていた二人分の切符料金、小銭が私と同じく宙に舞う。

何が起こっているのか、いまいち分からない。

だんだんと離れていく妹、麻爾は階段に立ったまま笑っていた。

「──だったら、お前が行け」

確かに、そう聞こえた。

麻爾、麻爾、私の大切な家族。

私は地面に思い切り叩きつけられ、じわりと頭部が熱くなるのを感じた。生温い。

目の前には、散らばった小銭。麻爾と一緒に、出掛けるんだ。一緒に何処へ出掛けようか考えた。何をして、何を食べようか。

麻爾、私は───貴女に憎まれていた?

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