第9話 Into The Darkness

 ――相良龍一君ですね。私は高塔百合子です。お母様からあなたのことを頼まれました。

 それが彼女の第一声だったが、幼い龍一は不遜にも「この人、嘘が下手だな」という感想を抱いた。本当に彼女が母の知人なら、龍一の父の話に出てこないはずがなかったからだ。おそらくは人の良すぎる父を丸めこむなど造作もなかったのだろう。第一「子育てより仕事の方が楽しい」などと抜かす女が龍一のことを気にかけるだろうか?

 もっとも、彼女の話の真偽など龍一にはどうでもいいことではあった。彼はすでに恋に落ちていたからだった。

 まだ子供である龍一の目から見ても、お伽話の中から抜け出てきたような少女だった。写真や動画の中でしか見たことのない異境や異国の人々の話、祝祭や奇妙な風習を彼女はせがまれるままに話した。一緒に歩きながら「綺麗に見える歩き方」を教え、とても静かに歩くと龍一を褒めた。

 テーブルマナーを龍一に教えたのも彼女だった。スプーンやフォークが思うように使えず癇癪を起こしかける龍一を前に、彼女は手本を示して見せ、テーブルの上の料理が完全に冷え切っても、龍一が同じようにできるまで決して席を立たなかった。

 あの時の少女が時を重ね、より美しくなって龍一の前に立っている――だが奇妙なことに、その美しさは彼の胸に何の感慨も呼び起こさなかった。あてもなく歩き続けた挙句、月の裏側に迷い込んだような違和感のみがあった。

 崇はしばらくの間二人をかわるがわる興味深そうに見つめていたが、さすがにしびれを切らしたらしい。「BGMに『トリスタンとイゾルテ』でも流しましょうか?〈愛の死〉なんてぴったりだと思いますがね」


 それで、と彼は口を開いた。「俺をどうするつもりです」

「どう、とは?」

「警察にでも突き出しますか」

 夜は明けかけていたが、その場にいる誰も眠気を訴えなかった。品の良い色彩の調度品に囲まれた応接室。3人の前には湯気の立つコーヒーカップが置かれているが、手をつける者はいない。

 龍一の刺すような視線を受けても、百合子の整った容貌には毛一筋ほどの揺らぎもない。崇は馬鹿げた冗談を聞いたように吹き出す。

「サツに突き出すためだけにこんな手間暇かけるもんか、どうせろくに感謝もされねえのによ。第一、お前をここに連れてくるだけでも俺たちは充分危ない橋を渡ってるんだ――何しろ、おまわりさんよりおっかない連中がお前を探しているんだからな」

「初めに話しておきたいのは」百合子が静かに口を開く。「これからあなたに話すことに、私たちは一切の権限を持たないということです。あなたが気に入らなければ、断ることも、ここから出ていくことも、あなたの自由です」

「そ、人はみんな自由なんだ。俺にもお前にも自由はある。檻の中で好きなところに座れる自由がな」

 望月さん、と諌めるように彼の名を呼んでから、百合子は龍一に改めて向き直る。色素の薄い、灰色に近い瞳が真正面から見つめてくる。「相良龍一さん。私たちの元で働く気はありませんか?」

「働く。どんな」

「一言で言えば請負仕事だな。高塔家の当主であらせられるこちらの御令嬢から依頼を受け、結果に応じた報酬を受け取る。必要経費も出る――ただし、失敗した場合、当然報酬はなしだ」

「大っぴらにはできない仕事なんだろうな」

「求人サイトに乗ってないことは確かだ」

「うさんくさい仕事ですね」

「仕事には違いないだろ。使うものがレジスターかカラシニコフかの違いってだけだ」

 崇の軽口には付き合わず、龍一は百合子の目を見返す。あの違和感がさらに強まる――月の裏側にさ迷い出たような違和感。「よくわかりませんね。それがどうして俺なんです?」

「わからないってことはないだろ。別に嬉しくないだろうが、俺をあれだけ手こずらせたのはお前以外にいない」

「俺が動くより速く撃てる奴はごまんといる、そう言ったのはあんただぜ」

 もっともな質問です、と百合子は軽く頷く。「私が求めるのは能力より、むしろ動機なのです。相良龍一さん、波多野はたのひとしの死の原因を知りたくはありませんか?」

 動揺を抑えた声が出せるようになるまで、数瞬の間が空いた。

「……どうしてその名前を」

 誰も知らないと思っていた――この世の誰からも忘れ去られていたと思っていた、その名を。

「あなたは彼がなぜ死んだかを知るために戦い続けてきたのでしょう。ただ一人で」

「一人でできることの限界はさっき思い知ったばかりだろう。お前が真相に――まあそんなものがあるとしての話だが――たどり着くまでに、いったい幾つ死体を転がすつもりだ」さりげないが、冷たい口調だった。

「そもそもそれを突き止めて、お前はどうするつもりなんだ」

「それは」言いかけて、彼は口ごもった。その問いへの答えが自分の中に何もないことに気づいたからだった。

「まあたとえば――その何とかさんとやらを殺したのがモサドみたいな国家機関だとして、お前はどうしたら満足するんだ? 関わった人間を一人残らず殺しでもすれば、お前は満足するのか。手を下した奴、支援した連中、命令した上司、その一族郎党。どこまで殺れば気が済む? それができると思うんなら、お前には医者が必要だ。おつむ専門のな」

 返す言葉がない様子の龍一を見て、崇は心底気の毒そうな顔をした。「自分が何をしたいのかもわからないか……じゃ、わかるまで俺たちを手伝うんだな」

「あなたの望みがそれであれば、私の力が及ぶ限りですが、調査を行います。――それで、あなたが満足するのであれば」

 百合子の色素の薄い灰色を帯びた瞳が、改めて龍一の顔を見た。見覚えのある瞳だった――かつて一目で龍一を虜にした、あの少女の瞳だった。

「過去を忘れることはできないかも知れません。でも、振り払うことはできるはずです。離れて生きることはできるはずです。……私は、そう信じています」自分に言い聞かせるような百合子の声だった。

 龍一は百合子を見た。次に興味しんしんといった顔の崇を見た。そしてもう一度、揺るぎない視線の、しかしどこか祈るようにも見える百合子に目を戻した。その時にはもう、答えは決まっていた。

「わかった。……それで、何から始めればいい?」龍一の答えに、崇は微かだが頬を緩めた。彼なりに緊張していたのかも知れない。

「そうだな、まずは……」そこで彼は百合子と目を交わした。心なしか、百合子の表情も少し和んで見えた。

「まずは、お前を磨いてやることからかな」

「……は?」


 美容師の朗らかな「ありがとうございましたー!」の声に送られて龍一は店を出た。表に停まっていた崇の車に乗り込む。

「頭がすかすかする。落ち着かない」

「いいじゃないか。あのもっさい髪形に比べりゃ充分男前に見えるぜ」

「美容院なんて生まれて初めて行ったよ……顔を剃ってくれないのか」

「勉強になったろ。さて、次は服と靴だな」

「おい、本当に買うつもりなのか?」

「いいじゃないか。経費に勘定していいってご当主の仰せなんだからよ」

「経費って……」

「仕事着と作業靴だと思えよ。それともお前、ソマリアだのナゴルノ・カラバフだのに送られるとでも思ったか」

 なんだか調子が狂うな、と龍一は溜め息を漏らし、前髪をいじった。

「あんたといい百合子さんといい、何を考えてるんだか……」

「気分はましになったろ?」車が走り出す。微かに開いたウィンドウから微風が差し込んでくる。短くなった頭髪が風になぶられる感触を覚えながら、龍一は「まあな」と呟いた。

「人間の気分なんて、卸したての服を着てたらふく美味いもん食えば、それだけで変わっちまうのさ」

「あんたもその気になれば、まともなことも言えるじゃないか」

「……何だと?」

「まあ、別に不思議じゃないか。俺だって冗談が言えるくらいだからな」

「お前……案外根に持つタチだな」

 崇が目を剥くのを見て、龍一は少なからず留飲を下げた。

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