定規一本分の

ばね

測定中

 教室に並べられた机と机の間の距離について考えを巡らせてみたことはあるだろうか。


 小学校から高校まで、この学習用に各々へと割り振られた学校机というやつは、60×40センチの自分だけの王国である。

 それは王国というにふさわしく、持ち主によって物の配置、汚れ、落書き、置きっ放しの教科書といった要素によりそれぞれの机をそれぞれが唯一無二の王国足らしめんとしている。

 これら王国は他の王国とは絶対不可侵の条約でもって結ばれており(中にはこの相互不可侵条約を物ともしない暴君もいるが)、目も眩むような正確さで等間隔に教室内へと配置される。時にはビニールテープでそれぞれの机の足の位置を目張りまでする教師もいた。

 これにより小学校から高校までそれぞれが築き上げた王国間の距離は、こと前後においては15センチの定規一本分ほどの距離で保たれてきたわけである。

 しかし、左右の距離となるとどうであろうか。これはまた事情が変わってくると私は考えている。


 小学校では、二つの王国はなんとも仲睦まじくぴったりと隣接している。時々貿易も行われ、消しゴムの輸入の対価には算数の答えが輸出されたり、苦手な給食の処理にはとびきりの笑顔という返礼がもたらされることもあったりしたろう。

 もちろん、それぞれの国王の友好度によっては絶えず戦争が続く王国もあるだろうし、ひと時も温まらない冷戦が続くことだってあるだろう。

 私の国はといえば、六年間なんの因果か同じ女王の治める国と隣接することとなった。

 その国を治める女王は控えめにいって、名君とは言えなかった。本来所持してしかるべき教科書の類をしょっちゅう忘れてきては、我が王国から架け橋が渡され王国民たちは活発な交流を余儀なくされたし、雑然とした彼女の王国からは予期せぬ来訪者が我が王国へと転がり込んでくることが幾度もあった。その度彼女は「いしし」となんとも可笑しそうに微笑んだものである。

 しかし彼女が暴君であったかと言えば、そうではない。天真爛漫で、どの王国ともほわほわ朗らかに交流しようとする彼女は陽だまりの権化ともいうべき穏やかさと癒しを兼ね備えており、どんな機嫌の悪い人間も彼女と話せばたちどころに「まぁどうでもいっか」と自身の悩みを小さきものと片付けてしまえるほどの人間的柔らかさを備えた人物であったと断言できる。

 彼女は肩口ほどで切りそろえられたおかっぱ頭で、ワンピースを好んで着ているどこにでも居そうな普通の女の子であったが、特徴的なところが二つばかりあった。すなわち大きな瞳ととろけるような笑顔がそれであり、その二つが相対する人をふにゃっとした気持ちにさせていたのであろう。

 かくいう私も、彼女のかもし出す雰囲気を前には特段教科書を見せることに抵抗も無く、休み時間や給食の時間には近所のネコがどうのこうのといった他愛も無い話を良くしたものである。


 中学に上がってからは、小学校でのそれとは違い左隣の王国との距離は15センチの定規二本分ほど開くようになった。隣国との交流はおおよそどちらかが教科書を忘れた時の一時的友好条約によってのみ成り立つものとなり、思春期を迎えたそれぞれの君主たちはそれまでほど積極的な交流を求めようとはしなくなっていた。

 しかし私はと言えば、中学の三年間を振り返ると、なぜかそれまでの六年間と同じく常に傍に陽だまりの姫君の笑顔があった。彼女は相変わらずもってこなければならない教科書を自宅へ置いてくるという能力に長けており、小学校の時のそれと変わらない頻度で私と彼女の王国は架け橋が渡されることとなっていたし、それこそ定規やらマーカーやらホッチキスやらといった文房具の貸し借りは、小学校よりも科目の増えた中学校ではより顕著になったと言える。

 とはいえ、普段から机が隣接しなくなったために彼女の王国からまろび出た亡命者は、これまでのように私の王国へと侵入することなく二つの王国の間の渓谷へと身を投げる羽目になっていた。仕方なしに私が拾い上げてやると、その度彼女は「いしし」と申し訳なさが同居しつつもやはり可笑しそうに微笑むのであった。

 私はその笑顔を見るとなぜかむず痒いような照れくさいような、それでいてどこか心地よさのある複雑な感情を味わったものであるが、この感情を溜池でアホ面さらして人間からの餌投与を待ちわびる魚類と同じ二つの音節を持つものであると断定するには、私は些か知識と勇気が足りなかった。

 休み時間の他愛の無い雑談は、近所のネコがといった話題から多少の広がりを見せ、どのお笑い芸人が面白いとかどんな音楽が好きだとかいう文化的な、有体に言えば趣味の話なんかもされるようになった。

 後になって当時の友人に話を聞いてみたところによると、私が彼女と会話その他の交流する際に何らかの脳内物質が分泌されていたであろう状態だったことは火を見るよりも明らかであったようで、気づいていなかったのは私と彼女だけであったという。人の感情の機微を解さないお調子者や無骨な運動部連中にすら知れ渡っていたとなると、もう何年も前のことながら羞恥の念に体が弾け飛びそうになる。

 話を戻そう。

 とにかく、中学時代の私と彼女の関係も特にどうということも無く良好であり、良好であるとはつまり大きな波乱も胸をときめかせるようなドラマティックエピソードも存在しなかったということである。


 歳月人を待たず。我々は時計の針に追い立てられるようにして中学を卒業し、高等学校へと進学した。

 私が入学したのは地元の公立高校だった。家に程近く、偏差値もまぁまぁ、部活に力を入れすぎているわけでも、進学校になろうと力んでいるわけでもない、なんともちょうど良い学び舎である。

 ここで過ごした三年間は、今後の私の人生の中でも特に思い出に残るものと言えるだろう。個性的な面々の揃う文芸部、友人たちとの初めての旅行、中学までにはなかった文化祭というやつも、男子全員が女装をさせられた忌まわしき記憶をのぞけば概ね胸を張って楽しかったと断言できる。

 そして、私の高校生活が楽しいものであったと胸を張れる理由の一つ(もしかすると一番大きい理由かも)が、とあるクラスメートの存在である。

 ここまで来れば「聡明なる読者の皆々様、ご明察!」と先んじて喝采を上げたくなる私の気持ちもお分かりかと思う。どういうわけかやはり私の王国の隣には陽だまりの彼女の王国が鎮座ましましていたわけである。もちろん三年間。

 高校に入ってからも、彼女は必要なものを自宅へと置き忘れてくる才能を遺憾無く発揮し、私は自他共に認める彼女の教科必須物提供係と化していた。

 ここまで来ると、運命かはたまた神の悪戯か、あるいは私が度を越したストーカーであるかのように感じられるかもしれないが、最後については断じて違うと言わせていただく。これは偏に、彼女と私の学力レベルの近似と我々の苗字が五十音表で近くにいるというただそれだけなのだ。

 彼女はここへくるまでの九年間で間違いなく三桁に達しようかという「忘れたので教科書を見せてください」宣言について、未だに気恥ずかしさを感じているようだった。いつも忘れたことに気づいた瞬間、焦ったようにカバンの中を捜索し、机の抽斗を検め、もう一度カバンの中を確かめた後、一度ロッカーの中を確認、最後に悪あがきのようにカバンをひっくり返したところで、非常に申し訳なさそうにおずおずと「いつもごめんね、次の時間教科書みせてほしいなぁ」と申し出るのである。

 その様が、なんだか洗い物をしている内に川の流れにブツを奪われてしまったアライグマのように愛らしく、私は苦笑しながら机を近づけるほかなかった。

 この頃になると、私は否が応にも彼女という存在を意識せざるを得なかった。小学校の時は肩口ほどまでだった髪の毛も、いつのまにか緩やかなウェーブを描きながら背中の中程まで流れ落ちていたし、特徴的だった大きな瞳は成長と共に伸びていった睫毛によってよりはっきりくっきりと見る人の印象に強く残るようになっていた。

 なにより、彼女が教科書を忘れたことによるやむを得ない一時的接近の最中、ちょっとした身じろぎから香る芳香は、私の嗅覚神経をいたずらに刺激して止まなかった。いや、刺激的な香りというわけではない、むしろ柔らかく、花のようで、焼きたてのマフィンのような豊かさと甘美さすら備え、私が犬であれば今後一切の他の匂いを嗅することを断固拒否すると表明せざるを得ないような幸福感に満ち満ちていた。

 もはや休み時間の恒例ともなった雑談会の内容は、どんな小説家の作品にハマっているだとか、オリンピックで見ただれそれ選手を応援しているだとかいった、相も変わらず他愛も無い内容ばかりであった。これまでと違うのは、気恥ずかしさから私がそれほど彼女の目を直視できなくなっていたところくらいである。

 しかし私は高校二年生の文化祭まで、彼女との一時的接近において無闇と高まる鼓動やこの幸せな香りが、思春期特有の強まりすぎた異性への性的欲求であるに違いないと断じ、決して自分の中で育ちつつある感情を認めようとはしなかった。

 振り返ってみれば、そこまで意固地になって意識している時点で拡声器を片手に正解を叫びながら練り歩いているのとなんら変わりはなく、周囲の人間からすれば「わかりきったことを認めようとしない往生際の悪い男」という評価でしかないのは確かなのだが、その時の私は控えめにいって超絶天邪鬼であり、陽だまりのように柔らかく愛らしい彼女に引け目を感じていたのは確かだ。

 だが、如何に自分騙しの天才、稀代の韜晦師である私も自分の気持ちを認めざるを得ない時が来る。それが、先ほども申し上げた高校二年生の文化祭である。正確には後夜祭だ。


 高校二年の文化祭。思い起こすもおぞましいことに、我々のクラスは数の暴力もとい民主的な過半数の賛成でもって「反転喫茶」を行うこととなった。「反転」とはつまり、男子が女子の、女子が男子の格好をすることを指し、要は男装と女装入り乱れるなんとも退廃的な企画である。

 これを企画したのは、クラスメートの漫画研究部員で自身もコスプレを嗜むというガチオタ女子であり、なぜか殆どの女子の大賛成を持って提案された。当然男子の九割九分は抵抗を試みたのだが、そもそも我がクラスは女子が若干名男子の人数を上回っていた上、数名の裏切り者の存在も手伝って投票はほぼほぼ出来レースだった。こうして、家族に白い目で見られながらすね毛を剃り落とし、頰を赤らめながらメイド服に身を包む見るも面白おかしくおぞましい男子高校生家政婦たちが産み落とされることとなった次第である。

 この時起こったあれやこれやの珍事については、今回の主題ではないから割愛させていただこう。ただし、大方の男子の予想とは裏腹に、この「反転喫茶」の評判は著しく高かったことだけは付記させていただく。なにせ、文化祭ベスト出し物の決選投票にまで勝ち残ったのだから。

 二日間に渡る盛大なお祭りのフィナーレ。後夜祭の開始が近づいた頃、私はメイド服を身にまとったまま教室でぼんやりとしていた。

 別に「こんなのに盛り上がっちゃって、まったくお子ちゃまだらけだぜ」と中二病をふかしこいていたわけではなく、初日に評判が高まりすぎたために異様にお客が増えた反転喫茶の最後のシフトに割り当てられてしまって、着替える気力もないほど疲弊していただけである。すっかりお客も捌け、クラスメートも後夜祭に向かってしまい、人のいなくなった教室で居眠りでもしようかとぼんやりしていたところ、誰かが教室に飛び込んできた。


「あっ、いた!ほらほら、後夜祭始まっちゃうからいかなきゃ!」


 それは、燕尾服に身を包んだ彼女であった。

 普段はウェーブのかかったハーフアップの髪型を、頭の上ですっきりとまとめ、すらりとしたスーツに身を包んだ彼女は、いつもとは打って変わった魅力を醸し出していた。

 彼女は小走りで駆け寄ると、ぼんやりしている私の手を引っ張った。


「せっかく今年はうちの出し物評判なんだから、行かなきゃソンだよっ!」


 「執事が女性の手を引くにしては乱暴じゃないか?」なんて冗談を言う余裕もなかった。煩わしかったのか、手袋を外し少し汗ばんだ彼女の手のひらが、私の手のひらに吸いつくようだった。

 少し冷えて乾燥している私の手は、彼女の瑞々しい手によって一気に熱を帯びたようで、どこまでが自分の手でどこからが彼女の手だかわからなくなってしまった。

 掴まれた右手から電気が走り、私の脳天から爪先まで全てが新しい何かに生まれ変わるような感覚を味わった。


「お、おいおい」


 なんだか照れくさくなり、思わず突込みともいえない呻きを上げた私の前を行く彼女が、振り向きざまにいつもの笑顔を見せた。


「いしし」


 電気が走るどころではない。間違いなく雷に打たれた。

 私がベンジャミン・フランクリンならロンドン王立協会への招待状が届いたことだろう。


 なんということか。

 全くもって、寸分の狂いもなく、答えは明白であった。


 私は、彼女に、恋をしている。


 そう、ここで、ようやく、私は自身の恋心を自覚したのである。

 考えてみれば、こんなことは中学の時分に気づいていてしかるべき問題であり、改めて自問自答してみれば「フレミングの左手の法則は、どちらの手で行うものですか」という質問よりもなお簡単であると言わざるを得ない。

 この瞬間、私はどうしようもなく彼女に恋焦がれ、疲れ切っていたはずの身体はまるで全身の血をエナジードリンクに総とっかえしたかのように活力に満ちた。


 しかし、この本祭の興奮冷めやらぬまま恋の雷に打たれた勢いで彼女に想いを告げるほど、私は性急でも愚かでもなかった。その夜、自宅に帰った私はベッドにどっかと腰を下ろし、ロダンの考える人もかくやとばかりに思考をめぐらせた。

 何せ、向こうはこちらのことをどのように捉えているのか、現時点では全くもって五里霧中、曖昧模糊として展望などというものは推して知るべしといった状況である。

 もちろん、これまでに幾度と無く教科必須物不在の窮地を救ってきた友好国の君主として、少なくとも嫌われているということは無いだろう。しかし、彼女に殊更好かれるような魅力溢れる人間であると自信を持って自己肯定できるかと問われれば、私は自信を持って「否」と答えられる。

 確かに私は困っている彼女を助けてきただろう。しかしそれは広い世界の中のとある一つの学校というせまいコミュニティ内のさらに狭いコミュニティであるところの教室をさらに細分化した「隣同士」、つまりは人間関係の最小単位の範囲内でできることのみである。

 果たして私は彼女を魅了してやまないネコのような愛らしさを持ち合わせているだろうか。彼女の好きなロックバンドのリーダーのように類まれなる音楽センスは?彼女の応援するアスリートのような運動神経は。彼女のこよなく愛する小説家やお笑い芸人のような機知と驚きに富んだユーモアの在庫を持っているだろうか。

 隣席同士の他愛も無いやり取りで聞いた、彼女の好きなもの、興味のあること、驚いた話といった彼女を構成する要素が、まるで阪神タイガース優勝後甲子園球場で解き放たれるジェット風船かのように頭の中を飛び回る。やがて推進力を失い、最後の一つに至るまで風船が地に落ちても、私は彼女の興味の埒内に自分が居ると自信を持つ事はできなかった。

 少しでも良い!多少なりとも私が胸を張れることはないか!と躍起になって胸の奥の引き出しを片っ端からひっくり返してみたところ、ひとつだけ、心当たりのようなものがあった。

 それすなわち、やさしさ、である。

 考えてみれば、この「やさしい」というヤツだけは割合良く自身のこととして耳にする。確かに、友人が困っていれば話くらい聞くし内容によれば手助けもする。道で困ったおばあさんが居れば話しかけて荷物を持つくらいのことはするし、(自分としては)大らかであまり腹を立てたことが無く、一般的に「やさしい」とされるラインはどうにかクリアしているように感じはする。事実、彼女が教科書を忘れた時に見せてあげるのはルール上そうなっているから、というのはもちろんのことながら、どこかしらにやさしさの気持ちを持ち合わせているということに他ならないのではないか。

 そうだ、第一に彼女に言われたことがあるぞ!「やさしいね」と!

 このカンフル剤によって私の精神はすぐさま昂揚を始めんとしたが、どうやら看護師が分量を間違えたようで昂ぶりきる前に元の底辺へと帰ってきた。


 ここで、読者の皆々様にも考えていただきたい。

 古今東西の恋愛四方山話を紐解いていけば、ラブロマンスとは常にドキドキしてハラハラして、冒険に満ちたものだということが見て取れる。

 何も映画やドラマに限った話ではない。たまの土日にワイドショーを見ていれば、誰それがくっついただの別れただの、不倫がどうだのといった話で溢れているし、別にそんな四角い画面の中でなくても、我々の周囲にはいつだって男女が惚れた腫れた弾けて飛んだなんて事柄が野良犬に片っ端から食わせてやりたいほど転がっている。

 さて、そんな有史以来飽きるほど繰り返されているのに未だ多くの人に興味津々である恋愛話に関してよく聞くフレーズがある。


 それは「やさしいだけの男なんてつまらない」だ。


 先ほども述べたように、ラブロマンスとは常にドキドキしてハラハラして、冒険に満ちたものであるらしい。しかし、やさしいだけの男は包容力こそそれなりにあるものの、ドキドキもハラハラもワクワクもしない。簡単に言えばときめかないのだそうだ。

 さきほど恥も外聞も無く自身の良き所を探し回った私が見つけたのは何であったろうか。

 勉強も運動も、その他の才能についても特筆すべきところを持たなかった私が唯一、「これくらいなら」と思えたそれは何であろうか。

 紛うことなく「やさしさ」である。それのみである。

 つまりは、「やさしさだけの男」であるという証明ではないか。

 私は絶望した。自宅のベッドに転がり、のた打ち回った。自分で自分のことを「やさしい人間です」なんて評価することの恥ずかしさ、自意識の過剰さなどというものに意識を向けている余裕なんてなかった。

 これでは全人類が等しく参加してしかるべきであるところの恋愛競争に、そもそも不適格の烙印を押されコース外に出されてしまっているようなものではないか。


 それなりの冷静さと明晰さを自負している私の頭脳が突きつけてきた恋愛落伍者の烙印に、私はどうしようもなく打ちのめされた。お布団の大いなる包容力に身を委ね、ひたすらに右へ転がり左へ転がりを繰り返し続けた。惨めな回転運動の末に血中の赤血球と白血球が遠心分離を起こすのではと思い始めた頃、私は窓の外の景色が白んできたことに気がついた。夜明けである。

 私は一睡もせぬまま昨夕お別れした太陽と再び相見えたのだ。

 その時、太陽が日の出によって新たな地平を生み出すとともに、私に一つのひらめきをも生み出した。

 そうだ。そもそも彼女が恋愛にスリルを求めるタイプの女性であるとどうして断言できよう。彼女はあの窓から覗く太陽のような陽だまりの君である。人付き合いにおいて常にほわほわと周囲を和やか足らしめんとする彼女が、どうしてこと恋愛においては心拍数を増大させかねない方向性を好むと断じれようか。

 そんな都合のいい考えがむくむくと私の中で沸き起こり、まるで膨らし粉の分量を間違えた生地がパン焼き器をぶち破って飛び出そうとしているかのような気力が私の内部から溢れ出す。

 人間とはかくも現金な生き物である。つい先ほどまでこの世で一番不幸な人間であるかのように海よりも深い自己憐憫に浸りきっていた私は、今度は爽やかな春の草原で目一杯陽の光を浴びて深呼吸をしているような気分へと急上昇を遂げていた。ちなみに私はひどい花粉症であるので、実際には春の草原で深呼吸したいとは思わない。あくまで表現的な問題だ。多くの人にとっては、春の草原は気持ちのいいものであるらしいから。

 さて、一夜のうちに人生最低と最高のテンションを交互に味わった私は当然のことながらつまり、人間が一日のうちに必要とされる睡眠時間を毛先ほども肉体に供給しようともしていないということに他ならなかった。

 学祭最終日翌日、つまり片付け日の私は、硬貨の一枚も入っていないお財布よりも役に立たなかった。


 その後、彼女への好意を自覚してからの私はまさしく恋する乙女であった。いや、男であった。これまでもただでさえ正面から目を見ながら話すことを苦手としていたのに、横目ですら視線を送るのが憚られる。

 やたらと彼女との距離が気になってしまい、下手に近づけば馴れ馴れしさと絶妙なるキモさを醸し出しかねないと恐れ慄き、かといって離れすぎては相手に無用なストレスを与えかねない。結果として、私と彼女の机の距離は学校中のどの机間距離よりも正確に15センチ定規三本分の長さでもって保たれていた。これこそパーソナルスペースの考え方で言えば(机が)ギリギリの密接距離になるし、机に向かう我々人間本体の距離は個体距離近接相という付かず離れずな繊細的友好距離といえる。

 私は密かにこれを「定規三本分の恋愛距離」と呼んでいた。

 まぁ私が物理的距離と精神的距離の相関についてどれだけ悩み研究を尽くしたとしても、そんなことは御構い無しに彼女は教科書を忘れ、結局精密に調整された机間距離などあってないようなものではあったが。


 もちろん私は日和見主義的なところはあれど、何もしないままで事態が好転すると考えるほど楽天主義でもなかった。

 これまで特に興味もなくスルーしてきた情報番組中の女性の趣味に関するコーナーにそれとなく聞き耳を立ててはいざという時に役に立てようと必死に頭に刻み込んだし、コンビニの雑誌コーナーでは恥を忍んでデートのオススメスポットだの、話題にすると盛り上がるネタだのといった情報を仕入れたりもした。

 同級生たちの恋愛ネタについても事細かに情報を集め、同年代の男女が何で遊び、何を語らい、何が原因で喧嘩をして別れていくのかといったケーススタディにも余念がなかった。

 もちろんこれは全て来るべき日の自分と彼女の為に行なっていたわけで、別にゴシップが大好きなわけでも、噂を流して喜ぶ趣味があったわけでもない。そういうわけで校内の恋愛事情に誰よりも精通しつつも絶対に秘密は漏らさない男という評判がいつのまにか高まり、自分が恋愛上級者であるわけでもないのにあらゆる人から恋路に関する相談を受けるという事態があとを絶たず、最終的に「東高の恋地蔵」の異名を取るまでになってしまったがこれもまた別の話だ。

 これだけ書くとまるで私が外堀を埋めることだけに血道を上げているように見えてしまうかもしれないが、断じて違うと言わせていただく。

 私は彼女を休日の映画館に誘ったこともあるし、カラオケやらボーリングやらといった若者らしい遊びを一緒にしたこともあるのだ。二人きりということはなく、常に誰かしら共通の友人がいたのは少々いただけないが。


 とまぁ、彼女と特別イイカンジになれたわけではないものの、高校時代は非常に充実していて楽しかった。

「恋愛は片思いが一番楽しい」とは巷でまことしやかに囁かれる言説の一つではあるが、半分くらいは同意してもいいと思える。少なくとも、私はこの片思いをものにしようとあくせく走り回った高校時代を悪くなかったと思えている。生憎と成就した恋の妙味は味わったことがないものの、彼女と過ごす薔薇色の未来が嬉し恥ずかし楽し喜ばしでないはずがないので、残り半分は成就したのち否定を待つばかりかもしれないが。


 さて、読者の皆々様。もはや飽きてきたかもしれないが今一度お付き合い願いたい。

 私は特別勉強が大好きなわけでもできるわけでもなかったが、ほとんどの同級生と同じく無難に大学進学の道を選ぶことにした。私が進んだ大学は偏差値帯としては並。中の中の上ほどであったが、文学部にそれなりに名の知れた教授たちが集まっているというそこそこの歴史と知名度を誇る学校だ。

 そして、この段の冒頭でお断り申し上げた通り、お約束の時間である。

 私は、遂には、大学までも彼女と同じであったのである!

 …正直に白状しよう。今回に関しては全くの偶然というわけではない。彼女がこの大学の指定校推薦を受けることを雑談の合間に知り、自身の受験校リストに加えたのは他ならぬ私自身である。全く。中学時分や高校二年の夏までは「同じ学校行こうねっ」とキャッキャやっている連中に「おいおいそういうのは自分の意思で進路決めるもんだよチミたち」とか内心小馬鹿にしていたというのに、自身の手のひら返しっぷりに呆れてため息も出ない。その時馬鹿にしてたよっちゃん、まきちゃん、たかしくん、みほちゃん、それから…まぁいいや、みんなごめん。

 しかし、学科まで一緒だったことについては一切私の意思は介入していないと言い訳させていただく。これに関しては本当に知らなかったし、彼女とは昔から話が合うから興味の方向性も似通っていただけに違いない。うむ。


 大学では、我々はもう自分たちだけの王国を持つことはなくなった。

 何せ講義室に備え付けられた机は、横一列数席で一枚の天板を各々でわけあって使用するタイプであるからだ。小学校入学から高校卒業までに我々が築き上げた王国はその国境を放棄し、周辺諸国と同盟を結ぶこととなる。

 これまでは、隣国の君主が如何に気にくわない輩であろうと学校の定めた規則に従い勝手に移動することなど許されはしなかったわけだが、この大学での国家同盟はそれとは百八十度事情が変わる。気に食わなければ隣に座らなければいいし、その時々で同盟を組む相手も変わる。最初の授業で友好条約を結んだはずの君主が翌週から姿を見かけないままに半期終了なんてこともざらである。

 では、王国のあり方は変わったとして、距離の方はどうであろうか。

 こちらも大きく大きく変化があったと言えるだろう。なんといっても一枚の天板を複数人で分け合う形なのだ、これまでの一人一王国時代からとは両隣との感覚が随分と曖昧になってしまった。机も椅子も固定式であるから、自分の感覚で位置を調整することも叶わない。

 こうなると、高校時代に私が築き上げた「定規三本分の恋愛距離」など何の役にも立たない。徐々に徐々に、定規半分くらいの距離から縮めて行こうと考えていた私の作戦は入学と同時に砕け散った。なにせ、椅子の方は最初から隣席と密接距離に分類されるくらいしか離れていないし、机の上の教科書やレジュメの類は定規一本分ほどの距離も開いていないように思えたのだから。

 またまた、彼女は相変わらず教科必須物を自宅に置いてくることが最早義務なのではないかと思わせる頻度でお忘れになり、同じ高校、もしくは昔の私たちの関係性を知っている人間の余計な入れ知恵(もといファインプレー)により、相も変わらず私は彼女の教科必須物提供係の立場を欲しいままにしていた。レジュメの忘れ物に関しては、最早書き込みを彼女に任せるまでになっていた。私が不真面目ながら単位を落とさずに済んでいるのは、偏に彼女に教科書を見せなければいけないという使命感(という名の口実)に後押しされた出席率と彼女の丁寧なメモによるところが大きい。

 つまり、結局のところ彼女と私の間の距離はどれだけ調整を取ろうと定規一本分ほどしか開かないことことが自然の摂理か法律かアカシックレコードのどこかに刻まれているようで、私は「定規三本分の恋愛距離」を「定規一本分の恋愛距離」へと改定せざるを得なかった。


 そして、ここでようやく私の回想は終わりを迎えることとなる。何せ、私は今花の大学二年生。いくつかの居場所も見つけ、成績は低空飛行気味ながらなんとか単位を逃してはいない状況であり、人生で一番自由な時期であると言えよう。

 ここだ、ここが勝負なのだ。この人生で一番自由な期間。人生のモラトリアムを彼女とともに過ごすことができれば恐らく一生幸せな思い出として心に刻むことができるだろう。

 しかし、それがわかっていながらまだ私は最後の一歩を踏み出せずにいた。

 もし仮に、今彼女へ自分の想いを打ち明けたとして、受け入れられなかったらなんとしよう。その場合、このモラトリアムはただただ灰色一色、何十年も前の無声映画のようになんとも刺激にかける青春を過ごさねばならなくなるのではないか。無声映画はあれで風情もあれば楽しめもする素晴らしい芸術作品だが、一体私の人生が無声映画化されだれが楽しめるというのか。誰一人して楽しめないだろう。当人である私が楽しめないのだ、自信を持って断言する。

 石橋を叩いて叩きすぎることはない。むしろ叩き壊して自分で新しい橋をかけた方が安全ではないのか。そんな思いが拭い去れず、私は二の足も三の足も踏み続けている次第である。


「お前さ、いつんなったら彼女にちゃんとアタックするんだ?」


 この男は私が小学校時代に出会った友人であり、大学で偶然再会した地元仲間というやつである。呆れたような声を出しつつ、その顔はニヤニヤと笑っている。

 ここは学食であり、私の背後を眺める視線の先には彼女がいるのだろう。確認したわけではないが、見なくてもコイツの目つきで察しはつく。


「そんなこと、お前に何の関係がある」


「いつまでも外堀埋めるようなやり方してても、あの子絶対気づかないぞ。昔から天然入ってるもん」


「うるさいな」


 そんなことは私が一番よくわかっている。


「結構いい感じだと思うんだけどなぁ。お前ら見てるとなんかこう…」


「なんか…なんだ?」


「モヤっとする」


 多少は益のあることを言うかと思えばこの男は…。


「まぁなんでもいいけどさ。彼女、結構モテるんだし、なんもしないで誰かに取られちゃってもしらねーかんな」


「ええい」


 また痛いところを突いてくる男だ。全く。

 せめて、彼女の好みだけでもわかればなぁ。

 そんな女々しいことを考える私はこっそりと振り返り、内容はわからないが楽しげに友人と話す彼女の笑顔に少々頰が崩れるのを感じた。


「キモっ」


「うるさいっ」


 ニヤニヤ笑うヤツの皿から唐揚げを一つ奪った私は、乱暴にそれを口に放り込んだ。


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