三話目
還る
ジークリットが喫茶店に着いた時、すでにいつものテーブルに人影があった。軽く癖のある明るい茶髪。クロエだ。彼女は肘をついてぱらぱらと雑誌をめくっている。ジークリットはマスターに軽く挨拶し、いつもの場所へ向かう。
「今日は早いんだね。」
クロエの向かいの席に腰を下ろし、声をかける。
「少し読み直した方が良いかなって、ね。」
雑誌をジークリットに向け、読み直していた場所を開く。そこにはモノクロの中、強調された「世界を震撼させた凶悪事件」という文字。この前、クロエが買っていた雑誌だ。
「結構面白いんだけど、オカルトチックなとこが多くてねぇ。そこは少し残念ね。」
特集記事には「悪魔」だの「神のお告げ」だのの言葉が見える。
「昔のことだしね。記録なんてほとんど残ってないだろうから、ほとんど人伝のものでしょう? なら多少の脚色は仕方ないんじゃない?」
ジークリットは自分に向けられた雑誌を軽く眺める。幾らかの事件の名前を目で追った後、顔を上げ、クロエを見た。
「で、読み直しってことは今日はこれを使うってこと?」
「そのつもり。」
クロエは雑誌を自分の方に寄せ、鞄から取り出したペンで記事の中のある事件の部分を丸で囲う。
「『血の風呂に沈む男』? もしかして、ネタ尽きたの? 何だったら、役目交代する?」
「別にネタが尽きた訳ではないわ。まあ、最近のはそんなに興味深くないけどねぇ。」
ジークリットは問いかけるような視線を向ける。
「今回は少し遊び方を変えようかなって。」
ジークリットはその言葉を飲み込めず、眉を寄せる。その様子に小さく笑い、クロエは言葉を続けた。
「別にこの遊びが楽しくなくなったって訳ではないよ? ただ、より楽しむためにルールを変えるのは当然のことで、今日はそのための実験みたいなもの、かしらね。」
そこまで言って、ほんの少しカップに残っていたカフェオレを飲んだ。
「だから、今日はこの雑誌にあるこの事件を題材に二人で物語を作りましょう。」
「考えましょう、錆色の湯船に沈んだ男の最期を。作りましょう、真紅の夢に溺れた男の最期を。」
「昔、それはもう昔の話よ。」
「昔ねぇ……まあそれだけ分かれば十分だね。」
いつの間にかクロエが頼んでいたコーヒーを傾けながら、話し始める。
「そうね。それだけ分かれば十分。私たちには彼らの生活を語ることはできない。推測どころか、推察もできやしないわね。歴史家だったら、また別でしょうけど。知識が足りないわ。今と昔じゃあ、全く違うもの。」
目を瞑り、想像力をかき集める。それでも、コーヒーの香りが深まっただけで、やはりファンタジー、あるいはSFでしかないのだ。
「昔のことをSFというのも変な話ね。」
「仕方ないね。だって、今を生きる私たちにとって、文献すらまともに残ってない時代の……しかも今よりも文明が栄えていた時代なんて、空想科学小説に他ならない。私はそう思うよ。」
「二十を少しばかり越えた男と小柄な十四歳の少女が登場人物。」
「うーん、これぞ雑誌って感じね。人の悪いところを……まあこれは今回の場合、良いところよりも悪いところをあげつらうほうが話題になるからでしょうけど。」
「雑誌なんてみんなそんなもんでしょ?」
「それもそうね。」
雑誌には「二十代男性」「無職」という言葉が並んでいる。
「ロリータ・コンプレックスねぇ……」
「まあ、本当のことかは分からないけどね。被害者が少女だから男がローティーンを性愛の対象としていた、というのも早計だと思うの。」
「今となっては確認しようがないけどね。まあ、嘘でも本当でも構わないでしょ?」
クロエはその言葉を肯定するように目を細めて笑った。
「で、この男についてはこれ以上ないんだね。」
「まあ、この事件で一番ぶっ飛んでるのは、加害者でも被害者でもないからねぇ。」
嬉しそうにクスクスとクロエが笑う。
「この二人はどんな関係だったんだろうね。兄妹ではない、親戚でもない。」
「歳の離れた友人かしらねぇ? 近所に住んでいて、公園で彼らが会っていたのを度々見た人がいた。」
「友人というのが一番自然かな。片方がもう片方に脅されていたということも考えられはするけれど。」
ちびちびと飲んでいたコーヒーはいつの間にかカップの半分だ。
「少女は……そうねぇ、仮にどう呼びましましょうか? 彼らの国の言葉はよく知らないわ。ええと、ニホンとかいう国の。」
「少女はイノリ、男はジュンなんてどうかな? 後輩の話に出ていた名前なのだけど。たしか、ご先祖様だとかなんとか。少し名前を借りるだけ……いや、そもそも二人だけだよ? いるかな?」
クロエは目を輝かせ、少しテーブルに身を乗り出した。
「そうねぇ。いらないかもねぇ。……なら、なしにしましょう。今回はなし。」
手をパンと鳴らし、クロエは急に表情を変える。歳が歳だったら目の端にシワが寄っていただろう。それほどの笑顔だ。
「で、シン君だっけ? あのかわいい後輩君。」
「そうだけど。」
乗り出した体を戻し、その勢いのままに足を組む。
クロエはかわいいものが好きなのだ。人でも、物でも、なんでもだ。
「うーん、あの初心な感じが良いわよねぇ。怖い美人のお姉さんに騙されちゃいそうなあの感じ、たまらないわぁ。」
実際のところ、そんな初心でもないし逆にお姉さんを騙しちゃいそうな男なのだが、自分の世界に入りかけているクロエにジークリットは声をかけるのをやめた。それに、クロエは実際の後輩について話しても、それはそれでかわいくて良い、と言い始めるのだろう。彼女のかわいい談義が始まれば、今日のゲームは「また今度」へ持ち越しだ。クロエの脱線をジークリットには止められる気がしなかった。
「さて、この事件の本番に話は移るわけだけど。」
「お風呂の話ね。」
クロエはにこにこと笑いながら言う。
「まあ、そうだけどさぁ……」
「間違ってはないでしょ? ね、始めましょ?」
それはそれは嬉しそうに笑うのだ。
「発見されたとき、男は自分の足を抱きかかえるように湯船の中。少女は肩から上と下で二つに分けられ、頭は湯船の縁に置かれていた。」
「下は湯船の中ね。」
クロエは自分の臍の位置を指で指し、ゆっくりと下へなぞる。
「お臍からだいたい恥骨まで鋭利な刃物で切り開かれていた。その中の内臓を露出させる形でね。要するに、子宮ね。子宮を丸出しにされていたのね。」
なぞっていた指を離し、今度は両手で下腹部を抑え、扉を開けるように手を開いてみせる。
「こう、パカッとね。」
ジークリットはふぅと息を吐き、コーヒーを一口飲む。
「……湯船には男と少女が入って約八割たまる程度の水が入っていた。」
「お湯だったかも?」
「もっと細かく書かれてれば分かるけど、この程度の記述じゃどっちかは分からないね。」
頬杖をつき雑誌をパラパラとめくりながら、クロエは髪先をくるくるといじる。
「顔面は何度も殴られたのかひどい有様だったみたいねぇ。他にも傷があるのかもしれないけれど、これら以外についての記述はないわね。」
ジークリットはその言葉に頷く。
「じゃあ、少女はどうだったのかというと、これも記述がない。困ったものね。」
少しも困った様子はない。クロエのあの小さなクスクスという笑い声まで聞こえてきそうだった。
「さて、これで雑誌にある情報は全て出たわけだがね、ジーク君。そろそろ、次に移ってもいいかね?」
「ずいぶん嬉しそうだね、クロエ。」
二人のコーヒーはあと少しになってしまっている。少し飲むペースを抑えなければならない。
「男が少女になにか恨みがあった、というだけではないだろうね。」
「でなきゃ、自分も死なないわよ。えっと、確か『心中』、今回の場合は『無理心中』かしら?」
クロエは一瞬笑顔を崩すが、すぐに元の表情に戻る。
「本来はね、愛し合った男と女が双方一致の意思で一緒に自殺、あるいは嘱託殺人することなの。転じて、二人以上が合意の上で自殺することも指すわね。そして、その合意がなくても……つまりは殺人のちの自殺でも、無理心中と呼ばれることもあるわ。」
「殴ってから、もしかしたら殴り殺したのかな? まあ、どっちであれ、同意はなかったようだね。」
弄んでいたスプーンをソーサーに戻し、ジークリットは組んだ手の上に顎をのせた。
「そして、その後、首を切ったと。大変だったでしょうねぇ。いくら小柄な女の子とはいえ、ただの一般人でしょう? とても大変だったでしょうね。」
「つまり、わざわざ頭と胴体は別にする必要があったと。」
「ポイントの一つね。」
クロエはクスクスと笑い、指を一本立てて言う。
「浴槽の縁に頭をのせたるために、頭と胴体をばらばらにしたんでしょう。でも、なぜ? なぜ、浴槽の縁に頭をのせる必要がある?」
「そうねぇ……少女に浴槽の中を見せようとしたとか?」
「とりあえず、後回しにしない? 他のことを考えていくうちに、また違うことも思いつくとおもうんだ。」
「私としては、男が浴槽の中で自殺した方法はどうでもいいの。どう自殺したかなんて、どうでもいいわ。だって、『あの時代の薬』と言えばだいたい説明はついてしまうもの。」
簡単に説明のついてしまう謎には興味がないらしい。
「それよりも、なぜ彼も浴槽に入ったのかということの方が興味がそそられるわね。ね、そう思わない?」
ジークリットは少し肩を竦めてみせ、苦笑いを作る。
「……もぅ、なぜだと思う?」
「さぁ、さっぱり分からない。でも、これも必要があったからしたんでしょ? わざわざ、自分が殺して解体までした少女を浸からせた湯船に入るんだよ?」
「そうね。その通りだわ。私もさっぱり。でも、確かにそれが彼とって必要な行為だったことだけは私にも分かる。」
クロエはコーヒーを一口飲む。考え事をすると、頭が糖分を求める。シュガーポットからいくらかのコーヒーシュガーと取り出し、クロエはそれを舐めた。
「……そんなに甘いものが欲しいなら、奢ろうか?」
「んー大丈夫。お昼前にデザートは少し早いわ。」
カバンから出したハンカチで手を拭う。
「ほら、次に移りましょう。」
「なんで、下腹部を裂いて子宮を取り出したかって?」
クロエは満足そうに頷いた。
「それは子宮がどんな役割があるか考えれば簡単に分かる……かな?」
「そう考えるのが一番良さそうね。そう、子宮は新たな生命を宿すところ。まあ基本的にはこの考えで良いでしょう。」
「……で、浴槽は子宮の延長として考えるってのはどう?」
「なら、水は羊水?」
ジークリットは頷く。
「子宮の中にいる男は少女の胎に宿った赤ん坊、これがいいんじゃない?」
「この事件の奇妙なところは粗方語り終えたのだけど、一番最初の謎が残ってるわ。」
ジークリットが口を開くのを待つことなく、クロエはすぐに言葉を続ける。
「で、『胎内回帰願望』って言葉があるのだけれど。」
「はぁ……それがほぼ全てじゃない。」
クロエはこれが言いたかったのだとでも言いたげな、そして得意げな表情をみせた。
「『胎内回帰』、『母体回帰』とも言うね。恐怖やら不安やら……そんなものからの逃避の最終形態かしら?」
「間違ってはいないんだろうけど……」
ジークリットは足を組み、コーヒーを飲む。
「で、つまりは男には逃避したい現実があった訳でしょう?」
「その通り。でも、これについては……どうしましょうか? まあ、
なんでも良いわね。考えている時間はもうあまりないわ。だって……コーヒーはもう一口分も残ってないんだもの。」
ジークリットはクロエに目線で促され、語りだす。まだ、考えていないこともある。つまり、行き当たりばったりだ。
「……男には逃げ出したい現実があった。」
「例えば、恋人に手ひどく振られた、親友に裏切られた。なんだって良いのよ。少女しか信じることができなくなった。とりあえずはこれが良いでしょう。」
クロエがコツンと指で一回テーブルを叩く。
「男にさらなる悲劇が起こった。」
「少女を殺してしまった、とか? なにか事故で……違うな。」
浅く息を吸う。
「信じていたはずの少女に裏切られた。彼にとっては裏切りになる言葉をかけられた。少女にとっては彼への励ましの言葉だったとしたら、より悲劇的。……『がんばって』とか?」
「もうがんばってる人に、『がんばって』なんて言葉は残酷に聞こえるでしょうね。だからって、どんな励ましの言葉をかければ良いのかなんてすぐには思い浮かばないけどね。」
「壊れた機械を叩くように、彼は少女を殴った。何度も、何度も。」
ジークリットは目の周りがこわばっているのを感じ、目頭を指で抑える。
「少女を殺してしまった現実か、もう自分には信じることがのできる人がいないという現実か、その両方か。男は逃げたかった。このどうしようもない恐怖から。」
「それが、胎内回帰願望へつながると。」
「彼は逃げて逃げてこの状態だったとしたら、もう選択肢なんて彼にはあまりなかったんじゃないかと思うのよ。」
にっこりと笑いながらクロエは続ける。
「彼は少女を、彼が信用できた最後の女性を彼の還る『母』に見立てた。」
「しかし、残念ながら男の体はそこにおさまるにはあまりにも大きかった。」
「そう、だから彼は少女の胎をどうにか大きくする必要があったのね。」
ジークリットは目線を少し下へとずらし、頬杖をついた。
「だとしたら、彼が頭だけを浴槽の縁に置いたのは……そうだな。浴槽が子宮だとするのなら、母親の頭がそこにあるのはおかしいんだよ。もちろん、それ以外もあってはおかしい。でも、とっさに断ち切ることを考えるとしたら、やっぱりある程度細いところを切ろうを思うはずなんだよ。だとしたら、やっぱり首を切るんじゃないかなって。」
「だから、頭だけを浴槽の縁に置くことになった、と。」
確認するクロエの言葉に、ジークリットはこくりと頷く。
「そして、最後に彼は自分自身を『母』に還した。」
二人は最後に残ったコーヒーをどちらからともなく飲み干した。
会計を済まし、ジークリットは外套を、クロエはコートをまとう。外に出れば、いつも通りの曇り空だ。
「ところでさ。」
ジークリットは日傘のレースのシワを指先でいじっていたクロエに声をかけた。
「いや、なんでもない。」
「なによ。気になるじゃない。」
「……いいの。自己解決したから。」
クロエは少し納得できない様子のまま、日傘をさした。
「ご飯、一緒に食べましょう?」
「近くに少し気になってるレストランがあるんだけど。」
クスクスとクロエが笑い、ジークリットは静かに微笑んだ。
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