落とした消しゴム

甲乙 丙

出席番号15番「蝶番隆太」

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『一匹の蝶の羽ばたきが、地球の裏側で竜巻を引き起こす要因となりうるのか』


 蝶番隆太ちょうつがいりゅうたにとって、そのカオス理論だとか、バタフライ効果だとかいうお話は、なんだか頭が痛くなって熱が出てきそうな難しい話だったのだけれど、とにかくも今の隆太の気持ちと照らし合わせれば、それは背中を後押ししてくれる鼓舞激励の言葉でもあった。


 ――小さな変化が、時に大きな状況を生む事だってあるんだ――。


 隆太は筆箱の中から真新しい消しゴムを取り出した。青白黒のストライプ柄がデザインされた、信頼性において他の追従を許さない隆太愛用の消しゴム。紙からはみ出した部分、四つの角の内、まだ一つしか丸くなっていない。まるで「俺に任せりゃ万事解決だぜ、相棒」とでも言いたげに、ツヤリと光を反射している。隆太はその頼りになる相棒を握りしめ、顔を上げた。


 三年五組の教室。五時間目の授業は中盤に差し掛かり、教師の念仏を唱えているような声と春の陽射し、昼食後という理由も手伝って、生徒の皆がトロンとした表情を浮かべている。

 チラリとさりげなく視線を左に向けると、憧れの斎藤さんが丁度サラリと垂れた黒髪をかきあげる仕草をしたところで、小さな可愛らしい右耳が見えて、隆太はポッと顔を赤くした。


 隆太は斎藤さんと三年間同じクラスだったが、まだ一度も会話をした事がなかった。目の前に彼女が来ると顔がポーッと熱くなって、ドクンドクンという音が胸からだけじゃなく、首や、耳の裏や、こめかみからも聞こえだす。喉がつっかえ、口が上手く回らなくなる。時にはフウッと気が遠くなる事さえある。隆太はその性格をどうにかしたいと思っていた。


 ――よし、やるぞ! 消しゴムを落として斎藤さんに拾ってもらう。僕はお礼を言う。優しい斎藤さんはきっと「どういたしまして」と微笑んでくれるだろう。それが僕の小さな第一歩だ。例え小さな羽ばたきであっても、きっとこれまでとは違う状況を生んでくれる、そんな第一歩だ。よし。よし!――。


 隆太は握りしめた左手を机の端にさりげなくもっていき、ゆっくり開く。

 淡い恋心を宿した消しゴムは、スルリと床に落ちていった。

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