偽装の心理 22

「彼の胸に、刃物が刺さっていました。


 その傷口から、まるで水道の蛇口をひねったみたいに


 血が噴き出していて・・・。


 私は何が起こっているのかわからないまま、


 パニックになって・・・悲鳴さえ出なかったんです」


前原百合加は搾り出すように、言葉を紡いでいるようだった。




「その時点で、衣澤康祐さんは、すでに亡くなっていたんですか?」


鳴海は確認するように尋ねた。




「いいえ、まだ微かではありましたが、意識はありました。


  私は彼の胸に刺さっている刃物を抜こうとして、手を伸ばしました。


  すると、康ちゃんは小さな声で『やめろ』って言うんです。


  ずっと後になって気づいたんですが、


  たぶん私の指紋が付くことを心配したんだと思います」




「ということは、衣澤康祐さんは、自らの意思で・・・


  つまり自殺を図ったということなんですね?」




鳴海の問いに、


前原百合加は泣き顔に表情を歪ませながら、うなづいた。




鳴海はそこで、大きく息を吐いた。


衣澤康祐の不可解な死は、やはり自殺だったのだ。


 だがまた別の疑問が起こる。鳴海はそれを口にした。




 「救急車を呼ぼうとはしなかったんですか?」


鳴海は彼女を責めるような口調にならないよう、


気をつけながら言った。




「勿論、そうしようとしました。


  でもその時、背後で人の気配を感じたんです」




「人の気配?」


鳴海は眉を潜めたが、すぐにその人物が誰なのか察しがついた。




「その人物とは、


  『龍来軒』の市来静江さんだったんじゃないですか?」


鳴海がその名を口にすると、


前原百合加は、はっとしたように、一瞬両目を見開いた。




それがわかったのは、別に驚くようなことではない。


鑑識課の長谷川から提出された報告書に、


現場にあったもう一つの毛髪が、


市来静江のものだということが記されていたからだ。




「そうです。市来静江さんです。


  静江さんは康ちゃんに駆け寄って、真剣な目で彼の様子を見てました。


  それから救急車を呼ぼうとしていた私を、


  頸を横に振りながら止めました。


  どうしてと私が訊くと、静江さんは言いました。


  この出血量だと、数分ももたないって・・・。


  救急車が着く前に、出血死するって言うんです。


  だから、最後まで彼から離れないでって、


  一緒にいてあげてって・・・。泣きながら言うんです」




なぜ、市来静江にそんなことがわかったのか―――?




鳴海はそこで、鳥肌が立つ感覚を覚えた。


鳴海の視線は、前原百合加から氷山遊の方へと、一瞬走った。




いつだったか、ユングの娘は河合聡史に、


あることを調べるように言っていた。それは市来静江の過去の経歴だった。


その当時、鳴海自身、氷山遊がなぜ


そんなことを知りたがるのか訝ったのを覚えている。


いったいユングの娘には何が見えているのか、


見当もつかなったのだ。だが今、その疑問が氷解した。




河合が調べた事実―――静江は市来吉雄と結婚し、


『龍来軒』で働く以前、十年以上も看護師を勤めていた。


それも緊急病棟だ。緊急病棟であれば、


当然緊急を要する患者をそれこそ数百人、


いや、千人以上も目の当たりにしていたに違いない。


その時の彼女の経験と知識があれば、


大量の出血をしている衣澤康祐の姿をひと目見れば、


すでに彼が死の際になっていることを判断するのは、


難しいことではなかっただろう。だから前原百合加を止めたのだ。


その行為は無駄なのだと・・・。




ユングの娘―――氷山遊は、


市来静江は嘘をついていると言った。そして、誰かをかばっているとも。


市来静江は第一発見者として証言していたが、


本当は前原百合加が第一発見者だったのだ。


ということは、市来静江は前原百合加をかばっていたことになる。




 しかし、衣澤康祐が自殺していたとなれば、


彼女をかばう必要は無い。それなのに、市来静江は彼女をかばった。


それはなぜか。


鳴海は数瞬の間、自問自答した。




 鳴海の脳裏に閃くものがあった。


市来静江は、その時か、もしくはそれほど時間を空けていない時期に、


前原百合加から事情を聞いていたのだ。


衣澤康祐が自殺に至った原因の一つに、


前原百合加がレイプを受けたことがあることに。


同じ女性として、前原百合加に同情したのは容易に想像がつく。


おそらく市来静江は、前原百合加の身に起こった悲劇の告白に驚き、


その隠蔽に協力したのではないかと思われる。




ということは、氷山遊は市来静江の『嘘』を見抜き、


早いうちから、その背景にある『事実』を


看破していたのではないだろうか。


もしそうなら、氷山遊はまさに、


天才ともいうべき心理学者であるといえるだろう。




ユングの娘―――か。なるほど、


そんな異名で呼ばれるのもわからないではない、


と鳴海は思った。




鳴海は、はす向かいに座っている氷山遊を見つめていた。


彼の瞳には、無意識に尊敬と畏怖の感情が、


ない交ぜになった色が浮かんでいた。


次の瞬間、鳴海と氷山遊の視線が合った。鳴海は慌てて視線をそらす。


自分の考えていることが、彼女に見透かされるような気がしたからだ。




鳴海は気持ちを落ち着かせると、前原百合加に向き直って言った。




「それでは、衣澤康祐さんの件は自殺ということを


  証言してくれますね?


  また正式に調書を取ることになりますので・・・」




「自殺じゃないわ」




鳴海の言葉を遮って、氷山遊が静かに言った。




鳴海と河合は驚いて、氷山遊の方を見た。




「たった今、前原さんの証言を聞いたでしょ?


  それにウチの鑑識課の報告書の裏づけもある。


  これは自殺としか判断できない。何を根拠にそんなことを言うんだ?」


半ば呆れ半ば憤然とした口調で、鳴海は言った。


それに反して、氷山遊は瞬き一つせず、鳴海の視線を見返した。




「私もそう思います。


  康ちゃんは殺されたんだと思います」


緊張した空気を破るように言った、前原百合加は涙を瞳に溜めていたが、


それを流すまいと懸命に堪えているようだった。




「何を言い出すんですか。あなたまで」


鳴海は再び、前原百合加に視線を戻した。


だが、彼女の真摯さを讃えている表情に鳴海は気圧され、


思わず言葉をつぐんだ。




「氷山さんに、いろいろなことを聞きました。


  康ちゃんの胸に刺さってた刃物・・・


  あれは彼のお兄さんが、自殺に使った物だったこと・・・。


  私、何も知らなかった・・・。


  康ちゃん、実家の事ほとんど話してくれなかったから。


  そんな物を自分の誕生日に、


  両親から贈られてきた彼の気持ちを思うと・・・。


  ただでさえ私の身に起こった事で、


  康ちゃんは怒り、混乱して、落ち込んでたのに。


  その上、デビューが決まってた漫画も、


  掲載されなくなって・・・。康ちゃんは殺されたんです。


  いろんな人に。殺されたも同じなんです」




鳴海は俯いた。確かに彼女の言う通りかもしれないと思った。


衣澤康祐自身に、何の落ち度も無い。


様々な悪意と不幸が、同時に彼に襲い掛かり、


耐えられなくなったのだろう。そして、死を選んだ。


それは理解できる。だが、しかし―――。




「鳴海さん」




不意に氷山遊の呼ぶ声がして、鳴海は顔を上げた。




「鳴海さんが、この事件を調べようと思ったのはなぜ?」




氷山遊にそう問われ、鳴海は瞬時に記憶を呼び覚まして答えた。




「それはこの事件が最初、自殺なのか他殺なのか、


  決めつけることができなかったからだ。


  ウチには特別優秀な鑑識官がいてね。


  その鑑識官でさえ、他殺のセンは拭えないって言ってたんだよ。


  それに、俺の刑事としての勘も、そう告げていた。


  だが、今回はその勘がはずれたってことだな」


鳴海は頭を掻きながら、苦笑を浮かべた。




「鳴海さんの勘ははずれてないわ。


  衣澤康祐さんは、自分が殺されたように見せたかったのよ」


氷山遊の目は、怜悧な光を帯びていた。人の心を見通すような光だ。




「殺人事件のように見せかけた、偽装だっていうのか?」


鳴海は氷山遊へ挑むかのように、身を乗り出した。




「そうね、第三者からは偽装にみえるかもしれない。


  でも、どんなに計画的に殺人を偽装しようとしても、


  刑事や鑑識の人を欺くようなことをやるのは、そう容易なことじゃないわ。


  それに衣澤さんの自殺は、発作的で突発的なものだったと思うの。


  彼はその時、極限的に不安定な心理状態だった。


  そんな心理状態で他殺を偽装することなんて不可能だと思う。


  でも彼はそれをやった・・・」




「続けてくれ」


鳴海は先を促した。彼女の導き出す答えが聞きたかった。




「衣澤さんに突きつけられた抱えきれないほどの苦悩は、


  彼の無意識に追いやられた。それも短期間に。無意識とはその人の生活、人生、


  そして意識にとってマイナスだと判断されるものを押しやっている、


  貯蔵庫のような働きもするの。


  衣澤さんは極めて短期間に、心的外傷を・・・


  心に重い傷を負った。それも立て続けに・・・。


  彼は彼自身も気づかぬまま、その無意識に深刻な心の傷を、


  追いやっていたのだと思う。


  それが、両親から贈られた心無い贈り物で、暴発した。


  彼は自殺するつもりはなかったのだと、私は考えてる。


  衣澤さんは、耐え切れないほどの精神的苦痛に殺されたの。


  様々な悪意に満ちた行為が、彼を死に至らしめた。


  彼は自分の意識に反する行動をとらされたのよ。


  これは私の推測でしかないけれど、


  衣澤さんは自ら自分の胸に銃剣を突き立てたその直前まで、


  自殺したのだとは思っていなかったと思う。


  だから警察にも自殺なのか他殺なのか判別できなかった。


  そういう意味では、自殺じゃないわ」




 そう語る氷山遊の瞳の中に、


ただ人の心を冷静に分析している心理学者とは別の、


鳴海の感情を揺さぶる光があることに気づかされた。




「康ちゃんは、最後に私に言ったんです。


  聞き取れないほどの微かな声でした・・・、


  でも、唇の動きで何を伝えたかったのかわかりました。


  彼は私に『愛してる』って言ったんです」


前原百合加の言葉に、鳴海は再び彼女に視線を戻した。




その前原百合加の双瞳には、涙は浮かんではいなかった。


むしろ、これまでの彼女にはない、強い感情が伝わってきた。




「私は彼の愛に応えたいんです。だから・・・」




鳴海は、前原百合加の次の言葉を待った。




「私、牧野善治を告訴します」

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