偽装の心理15

翌日の午後、鳴海徹也の姿は、真代橋署の捜査一課にあった。


彼の目に野デスクに座っている鏑木課長の手には、


数枚の報告書があった。




「これを見る限り、衣澤康祐は自殺のセンで


  間違いないんじゃないか?」




「ええ・・・まあ」


鳴海の気の無い返事に、鏑木は顔を上げた。




「何だ?まだ納得していないように見えるな。


  衣澤康祐は漫画家への道も閉ざされ、


  実兄が自殺に使った凶器を、誕生日に両親から贈られてきた。


  それに絶望して自殺を計ったというのは、充分説得力があると思うんだが」




鏑木はデスクの上に、報告書を放り投げながら、


頭の後ろで手を組み鳴海の顔を見つめた。




「まだ納得していないような顔だな」




図星だった。鳴海自身、まだ腑に落ちないことがある。


衣澤康祐は漫画家への夢を閉ざされ、その直後に心無い―――


ユングの娘の説明に寄れば、道徳的知的障害者である―――


両親から、実の兄が自殺に使った凶器を贈られている。


果たして本当に、その二つが原因で彼は自殺を選んだのか?


まだ何かを見落としている気がしてならない。




「氷山先生は何と言ってるんだ?」


鏑木はため息混じりに言った。




「それがまだはっきりと自殺だとは断言してないんです」




「そうか・・・。ユングの娘がそうだとすると、


  まだ調べる価値はあるかもしれんな」


鏑木がそう言った直後、鳴海の背後から河合聡史の声がかかった。




「鳴海さん!」


振り返った鳴海は眉を潜めた。




「おい、今何時だと思ってんだ?大幅な遅刻だぞ」




「違いますよ。僕、氷山先輩に頼まれて、午前中駆けずり回ってたんですよ」


河合は息も切れ切れに答えた。




「ユングの娘に何を頼まれたんだ?」




「第一発見者の市来静江っていたでしょ。


  彼女の前歴・・・特に以前、どんな職業に就いていたか調べてくれって」




市来静江の前職?鳴海には、その意味がわからなかった。


あの学者先生が何を知りたいのか・・・


いや、何に感づいているのか―――。




「それで、市来静江の経歴はわかったのか?」




「ええ、今のご主人と結婚する前まで、


  十年以上も看護師をしていたようです。


  それも緊急病棟の・・・。すでに氷山先輩にはその事は連絡済みです」




緊急病棟の看護師?それが今回の事件とどんな関係があるのか、


鳴海には皆目見当がつかなかった。




「氷山先輩、すぐにでもこちらに向かうそうです」




鳴海は鏑木の方へ視線を向けた。


彼はため息混じりに手をひらひらさせた。




「お前が・・・いや氷山先生が、納得するまで付き合ってやれ」


鳴海は口元に自然と笑みを刻みながら、


自分でも意識しないまま、武者震いのようなものを感じていた。




ユングの娘―――氷山遊と行動を共にすれば、


この事件の真相が見えてくるような気がしたのだ。




「よし、河合、行くぞ」


鳴海はそう言うと、椅子の背もたれに掛けていた


いつもの赤いダウンジャケットを手に取り、真代橋署の玄関へ向かった。




外に出ると、真代橋署の駐車場に1台のタクシーが停まっていた。


鳴海は何気にその後部座席に目をやると、そこには氷山遊が座っていた。


彼女は鳴海たちに気づくと、その視線で彼らを招くような素振りを見せた。




「首都出版までお願いします」


鳴海と河合が乗り込むと、氷山遊はタクシー運転手に行き先を告げた。


それを聞いた鳴海は少し驚いた。


てっきり市来静江のいる『龍来軒』へと向かうと思っていたからだ。


鳴海は率直な疑問を口にした。




「河合に市来静江の経歴を調べさせてたらしいが、


  彼女に会いにいくんじゃないのか?」




氷山遊は鳴海に視線を向けて言った。


「それはまだ後で。その前にもっと大事なことを確認したいの」




「大事なこと?」




「百合加って名前の人物よ」


鳴海はその名をすっかり失念していた。


確かに衣澤康祐の日記には百合加という女性のものと思われる名前が、


幾度となく登場していた。


ユングの娘は、その百合加なる人物に重点を置いているらしい。


それは氷山遊から向けられた強い視線からも感じられた。


しかし、それと首都出版とどういう関係があるのか?


鳴海には見当もつかなかった。




30分ほどして、首都出版に到着した。


タクシーを降りた鳴海は、氷山遊の服装に目がいった。


今日の青空のように真っ青なロングコートに白いタイトスカート、


濃紺のブーツを履いていた。


会うたびに印象の異なる女性だなと鳴海は思った。


それに今日は一際美しく見えるのは気のせいだろうか。




河合が事前にアポをとっていたらしく、


すんなりと『週刊キャピタル』編集部へ通された。


編集部に入る直前、氷山遊は鳴海を見て言った。




「鳴海さん、その赤いジャケット脱いでくれる?


 それとそのジャケット、編集者の目に入らないように後ろに隠して」




「言われなくても脱ぐよ」


鳴海は憮然として言いつつ、なぜ彼女がそんな指示をするのか、


その真意がわからないでいた。




今回は編集長の姿はなく、


直接、衣澤康祐の担当編集者だった西川が出迎えた。


しかし、西川は露骨にうんざりした表情を崩さなかった。


面倒臭そうに編集室の隅にある応接セットに鳴海たちを案内した。


西川は向かいのソファに不遜な態度で座った。




「今日は何の御用でしょうか?こっちも忙しい身でね。


  手短にお願いできますか」


言葉の内容こそ丁寧だが、


あからさまに鳴海たちを嫌悪している様子が伺える。


目つきは敵意を剥き出しにしていた。




今日、『週刊キャピタル』編集部を訪問したいと望んだのは、


氷山遊だ。鳴海自身、これといって、改めて西川に対する質問は無い。


彼は隣りに座っている彼女の横顔を覗いて、少し驚いた。


氷山遊は優雅な笑みを浮かべていたのだ。


それは包み込まれるような微笑―――例えるならそれは、


女神の微笑みのように鳴海には感じられた。




彼女の笑みに魅惑されたのは、鳴海だけではなかった。


しかめっ面をしていた西川までもが、その面持ちを変えたのだ。


表情は柔和になり、鋭かった目つきからは、剣が取れている。




「今日は私からいくつか質問させてください。衣澤康祐さんについて」


氷山遊は、魅力的な笑顔とともに、澄みきった美しい声で、西川へ語りかけた。




「はあ、オレで答えられることなら」


西川は顔を少し紅潮させて、頭を掻きながら言った。




「衣澤康祐さんはアルバイトをしながら、漫画を描いていたそうなんですが、


  そのアルバイトってどんなことをしていたかご存知ですか?」




氷山遊の質問に、西川は視線を斜め上に向けて、


記憶を辿るようなしぐさをした。


「アルバイト?衣澤君はコンビニのバイトを


  やってるとはききましたが、

  

  どこのコンビになのかは詳しくはし知りませんね・・・」


西川はそこで急に思い出したように顔を上げた。




「ああ、思い出しました。


  彼、ウチで描いてもらっている牧野善治先生のところで


  アシスタントをやってましたね。まあ、オレが紹介したんですけどね」




「漫画家のアシスタント?」


と鳴海は訊き返した。




「ええ、漫画家の先生のほとんどは


  数人のアシスタントを雇ってるんですよ。


  背景や効果、仕上げを手伝ってもらうんです。


  一人で作品を仕上げてる連載作家はほとんどいないんじゃないかな?」




「牧野善治って、もしかしてあのサッカー漫画描いてる・・・・?」


隣りでメモをとっている河合が、興味深そうに言った。




「そうです。牧野先生はウチでも看板作家の一人でね・・・」


西川が自慢げに話を続けようとした時、


それをさえぎるように氷山遊がゆっくりと言った。


その質問を耳にした鳴海は、思わず彼女の顔に視線を走らせた。




「その牧野さんのアシスタントの中に、


  百合加って名前の人はいませんか?」


百合加―――。ユングの娘が、ここに来たのは、


それが目的だったのだ。


衣澤康祐の日記にたびたび出てくるその名前。


もしかしたら今回の事件に関係する重要な人物かもしれない、その名前・・・。


たしかに、漫画家を目指していた衣澤康祐と


深い接点があるとすれば、同じ職場だと考えるのが普通だ。


そんなことに気づかないとは、鳴海は自身を内心で恥じた。




「百合加・・・ですか?


  さあ、オレも漫画家先生のアシスタントの名前も、


  いちいち覚えてませんからね。


  特に牧野先生のところはアシスタントの入れ替わりが激しくてね」


西川はそう言って苦笑した。




「それじゃ、牧野先生に直接お尋ねしたいのですが、


  先生の住所と連絡先をお教えくださいませんか?」


この氷山遊の要求には、西川も渋面をつくった。




「そう簡単に漫画家の住所を教えるわけには・・・」




そこで鳴海は上半身をせり出すようにして、


西川の顔を正面から見据えた。


「お忘れのようですが、これは警察の捜査なんですよ。


  そちらが非協力的とあらば、


  こちらにも、それ相応の対処をさせていただきますが」




ベテラン刑事の鳴海の眼光はすさまじいものがあった。


何しろ鳴海徹也という刑事は、数々の凶悪犯を検挙してきた猛者だ。


大手出版社の社員とはいえ、


所詮一般人にすぎない西川を縮み上がらせるのには充分だった。




西川はデスクからコピー用紙を手にすると、


その漫画家の住所と連絡先を書いた。


彼の手は、微かに震えていた。

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