第32話 チェシャ猫の嘘 3
これが口裂け女か。
綺麗って答えたらダメなんだったか? ならなんて答えよう。──じゃあ。
「おう、
口裂け女は顔を背けた。後ろから見る耳がほんのり赤くなった。チラッと薫を見ては、悶絶するように体をうねらせた。薫にはその意味が分からない。
「おにーさん、ホントすごいよ。こんなの初めて見た。で、なんだっけ? あー、そうだった。えっとね、僕の能力は『嘘を具現化する』んだ。だから『真実』は変えられない」
「ふーん。面倒だな」
──でも俺には関係ねぇや。
桜木の号令で襲いかかってくる都市伝説モンスターたちに、薫はニヤリと笑ってみせた。ポマードを三回唱えなくても、無駄な動きをしなくても簡単に片付けられる。
片足を上げた。
大きく口を開けて走ってくる人面犬が、汚いよだれを垂らした。
上げた足に全身の力を集中させる。
ナイフを握りしめて襲いかかる口裂け女が狂気的な笑い声を上げた。
二人(?)の姿が至近距離に入ったのを見計らい、薫は──
床を踏みつけた。
「燃やせばいいだろ」
床を伝って伸びる炎の渦は天井に届くまでの火柱をあげた。敵の刃が薫の体に触れる前に、ドロドロに溶けて消えていく。
桜木も小さく悲鳴を上げて飛び退いた。
炎の中に飛び出して桜木に一撃、鉄パイプに床の炎を纏わせて斜めに振った。飛び出した炎の刃は、桜木の腹を斬り捨てて階段を登って消えた。
しかし、そこに桜木はいなかった。
「あっついなぁ」
炎の中に立つ桜木は、液体化した口裂け女を蹴って不機嫌な表情見せる。それよりも、薫は驚愕する。
炎は千度近くある。能力者でもないような、生身の人間が耐えられるような熱さじゃない。
そんな奴が
急いで手を伸ばした。桜木が危険だと思った。
真っ赤な海に佇む桜木は虚ろな笑みを浮かべていた。手を伸ばさないで薫を待っている。
「僕はもっと上にいるからね」
あともう少しで届く。その距離で桜木が消えた。階段を登っていく音が後ろでしていた。
薫はさっと手を振って鎮火すると、階段を登っていく桜木の背中を見送った。
──アイツはどこに居るんだ?
ふと浮かんだ疑問に思考が囚われる。
エレベーターの表示階数がまた変わる。薫は不意に、少秘警で何度も聞いたことを思い出した。
──ありえない事が『常識』。それが自分たちの『普通』。
薫は鉄パイプを犠牲にして、エレベーターのドアをこじ開けた。
* * *
一段登るたびに足が悲鳴をあげる。
吸っても足りない酸素を必死にかき集める喉から鉄さびの味がした。
汗を拭い、休みたい気持ちを押し殺して辿り着いた屋上からの景色はとても虚しいものだった。
灯りもない音もない。冷たい風が体を刺しては嘲笑う。闇に浮かぶ月さえ、知らんぷりを決め込む暗さ。本当にとても虚しいところだった。
フェンスも無いビルの端に桜木は背を向けて立っていた。遠くなった地面を哀れむように見つめていた。
「······お疲れ様。よく着いたね」
「ホンットだよ。あぁ······しんど」
震える膝を抱えて大きく息を吸いこんだ。汗で滲む視界では桜木の顔が分からない。
どんな表情をしているのか。笑っているのだろうか。薫は目を細くして桜木の顔を認識しようとした。
「でも、残念だよね。せっかく屋上まで走ってきてもらったのに、僕はここにいないんだもの」
「それはねぇよ。お前は嘘で逃げられない」
桜木がポケットからボイスレコーダーを取り出し、高く掲げた。そしてまた、舌を出して笑った。
能力発動する気か? させるものか──
桜木が再生ボタンに指を重ねた。しかし、音声は再生されることなくボイスレコーダーは地面へと落下していく。
「······へぇ、おにーさんソレ、使うんだ」
薫の手に握られた麻酔銃。それは小刻みに震えていた。
「外したらどうしようもなかったけどな。なんせ残り一発だけだったからよぉ。はぁ······何時間も早く来てさぁ、待っててくれて悪ぃけど、こっからは短期戦でいく」
「っ!!······どうしてそんなこと知ってるの」
「爆弾仕掛けてくれたじゃねぇか。全部爆破を吸収しちまったけど。あんな下手くそな爆弾売ってるかっつーの。それにお前、エレベーター使ったろ」
薫が鉄パイプで無理やり開けたエレベーターの扉。中には、あるはずのワイヤーが無かった。火の玉を落として下を窺うと、一階当たりにエレベーターの箱と、千切れたワイヤーが落ちていた。
「使えないエレベーターを使ったところがミスだったな。来た時から俺が相手してたのは、お前が具現化した嘘。そりゃ、あちこちで消えたりするもんだ」
「さっすが。それでこそおにーさんだよ。僕の見込んだだけあるね」
ようやく汗が止まり始めた。薫は呼吸を整え前髪を直す。
「おにーさんって、不思議な人だよね。能力者的な意味じゃなくて」
邪魔な上着を脱ぎ捨てて身を軽くした。射撃よりは得意な体術戦に持ち込みたかったが、桜木はニヤニヤと薫を笑っていた。
「経歴的な意味で」
「······そりゃどういう事だ。普通の人生しか送ってねぇよ」
「そう? 僕はよぉく知ってるよ」
動けなかった。体が言うことを聞かない。ただのはったりだ。時間稼ぎだ。そうだと分かっていても、胸の奥がざわめく。動物的直感が次の言葉を嫌う。血流が全身を拍動させる。脳裏を過ぎった炎の海が、薫の心を蝕んだ。
桜木は口角を上げて言った。
「関東最凶──『不良殺しの
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