プロケスタの老婆が、その日は鍵穴から粘土を取り出していた訳


 婆様が、その婆様から襟袖のだらしなさを咎められていた頃の話。

 ただ、見晴らしという言葉だけが形容するに値する四辻を拓き、そこをプロケスタと名付けて集落を興した男やもめがいた。


 未だ切株の目立つだだ広い土地に、なんの冗談かと揶揄されるほど豪勢なゲートなど据えて、そのすぐ外に雨風をしのぐばかりの掘っ建て小屋に娘と二人暮らしていると、まず初めに宿が一軒、ゲートの内側に建てられた。


 荷馬車がすれ違う辻に宿。必然的に酒場が生まれ、交易所が生まれ、馬車小屋が生まれ、そして十を越える商店と、工房が建ち並ぶほどになった。

 渡りの群れが行き来する頃にはちょっとした集落に。二度行き来する頃にはゲートに相応しい村に。そして三度の渡りを空に見送る頃には、ゲートの方が恥じいるほど大きな町になったのだ。


 そして入居の礼金が、掘っ建て小屋の奥へ建てられた屋敷へと姿を変える頃には。そこは見晴らしほどの形容しかできぬ集落の入り口ではなく、風光明媚の町・プロケスタを拓いた偉大なる町長の住まいと呼ばれるようになった。


 ……そんな町長が盛大な葬儀で送られると、町には世にも珍しい噂が流れることとなる。その噂とは、このプロケスタの全てが手に入る書面が存在するというものだった。

 眉唾な話を真に受けた者、あるいは半信半疑で足を運んだ者。その誰もが目にした物は、かつて先代の町長が暮らしていた掘っ立て小屋に置かれた宝石箱。傾いだテーブルに馬鹿丁寧な織物が敷かれ、プロケスタ創始者の、見目麗しい一人娘がその上に置かれた宝石箱の鍵穴を示して曰く。



 あなたが人生という旅を往く者ならば、必ず銭袋に忍ばせる、安全を約束するお守りを取り出しなさい。そう、親御様より譲り受けた古鍵のことです。

 あなたの古鍵で、見事この錠前を開くことができたならば。プロケスタの全てとは申しませんが、中身を宝石箱ごと、いえ、この小屋ごと、いえいえ、小屋から割り石で繋がる屋敷ごと、さらには家の主である私ごと差し上げましょう。



 噂は噂ではない。そんな噂が馬車に乗り、数多へ駆ける。

 すると、旅人を相手にするのにちょうど良しとばかりに店へと名札を挿げ替えた掘っ建て小屋は、いつも長蛇の列を馬車道へ沿わせることとなった。

 だがどれほどの者が挑んでも、その宝石箱の鍵はうんともすんとも言わず。あぶくの如き夢から覚めた旅人は皆、里へ帰るに必要な支度と土産話とを手に、店を後にすることしかできなかったのだ。


 噂は次第に、うまい商売と内容を変えて噂されるようになる。

 そして時は流れ、世迷言に大枚をはたいた者も皆、それを口にするを目の前に迫った皆との別れに泥を塗る行為として忌避する頃、とうとう噂は消え失せた。

 夢の如き噂はその姿を物の語りへと変え、さらにお伽噺へと身をやつし。終いには子を叱るための戒め語りとして世に溶け込む。


 プロケスタの町の出入り口。

 婆様が、その婆様から襟袖のだらしなさを咎められていた頃。


 そんな話があったのも。

 ただの噂だったのかもしれない。




 ――雨露が、軒に下がる苔を伝って糸を引く。木板はおろか屋台骨も傾いでいるせいで、なにが垂直に立っているのやら判別に苦しい店が、馬車の乗り合い所から通りを挟んだ所に建っていた。

 そこには、旅に必要なものと、旅には必要の無い物が売られていた。前者は旅人に売りつける品で。後者は、旅人から売りつけられた品だった。


 軒下に開け放たれた戸口は、積もる土埃のおかげでどこからが外で内なのやら。商品も、仕入れた木箱をぞんざいに開いたものが床に並ぶといった有様。


 そんな商店には古く日に焼けて、今にも土色に還ろうとする品が三つ。中央に置かれたテーブルの織布と、その上に置かれた宝石箱。そして、テーブルの隣で息をするように軋む安楽椅子に積まれたぼろ布の塊。


 ぎし。ぎし。


 ぼろ布は椅子を鳴らし。そして一月ほどもゆっくりと考えあぐねた言葉をようやく、その小さく開いた隙間から吐き出した。


「……小娘。それが気に入ったのんじゃ?」


 当人には気にもならない雨漏りが、ぼろ布のかかった肩を打つ。

 そんな老婆の白く濁った眼が追う先で、泥跳ねに模様され、当て布をしたドレスの裾を握る少女がこくりと頷いた。



 ……旅人が不要に感じて、二束三文ながらも路銀に換えたいと置いていった有象無象。木棚から溢れ、床にすら積まれ、蝋浸しにした糸で提げられた値札も、字がかすれて読めぬ程に放置されたゴミの山。

 その中から、少女が小さな両の手でいつも取り上げる小箱があった。


 ゴミ山の中では比較的新参と思しきその品もまた宝石箱。テーブルに置かれた品と同じほどの世を亘って来たのだろうか、表面の塗装はところどころ剥げ落ちて、鍵穴の細工には緑青も浮かぶ。

 いつだったろう、イデラから来た遊女のなりをした女が、里へ帰るのに邪魔な荷物と言って置いていったいわくつきか。老婆は、この少女には似合いかもしれぬと歯のない口を二度ほど波打たせて考えた。


 最近、近所へ流れて来た没落貴族。詐欺にあって身ぐるみ剥がれたお人よしでは町の中へなど住まいも持てず、荷馬車屋が使い古した御者の仮眠用の小屋で惰眠をむさぼる毎日。こいつは、そんなろくでなしが手を引いてきた一人娘だ。


 老婆は不思議といつもの嫌気が湧いてこず。パンの焼き方も男の臭いも知らなそうな小娘に教えてやった。


「勧めはせんのんじゃ。酷いものが入っているかもしれんよ?」


 赤い字で書かれた値札は、銀貨で十。

 だがつい昨日まで、花は枯れる前の晩に刈られるのが当たり前という暮らしをしていた物知らずにそれを求めるのも無理からぬ。少女が銅貨を十枚、老婆のぼろの上に並べると。雨音に詩をつけるに値する程度の間をおいて、皺に埋もれた口から一つ、諦めのため息が漏れた。


 購入という行為にどれほどの意味があるのか。くすんだ茶の色が浮いたドレスを床に付けて少女はしゃがみ、ここ一月ばかりとまるで変わらず、その箱を振るだの回すだの、気に入っているのやらいないのやら、おおよそすら判断もつかぬ様で弄ぶ。


 ……その箱も、あんたも。一体どれほどの優しい気持ちで作られ、そしてどれほど疎ましく感じられながら捨てられたのやら。老婆は、高級な仕立てとしか見えないドレスを見つめて歯のない口を波立たせる。

 汚ればかりか、臭いも酷い有様のワンピースは、いっそぼろの方が美しく思えるほど醜悪に感じられたのだった。


 飽きもせずに、日がな一日をこの小屋で過ごす少女。初めて転がり込んで来た時から我が物にいじり倒す小箱をようやく本当に自分のものとした今日。彼女は、初めて机の上に置かれた宝石箱に、未だ高貴なとび色を湛える瞳を移した。


「……これはやらんのんじゃ。運命の女神アトロポスが、人には見えぬ糸でこの箱を開く運命の人を繋いでおるのんじゃ」


 老婆はしわがれをぼろの内から零すと。

 自分の宝石箱を改めて見つめた少女が問いただす。


「おばあさま。それは、プロケスタのお伽噺? 私、馬車小屋の皆様から教えていただいたわ」

「ほう。今は儲け話ではなく、お伽噺と呼ばれるか」

「じゃあ……、これが私の宝石箱?」

「…………そうなるのんじゃ。買うてしもうたからな」

「あら大変。それでは、これが開かないと私もお嫁に行けない」


 物も知らぬ貴族の娘の行く末を思えば、枯れた涙も蘇るを感じるが。今はただ、その危機感の無い浮世離れに笑みが湧く。


「……そんなものに縛られてはいかんのんじゃ。星空に夢を見るとな、目の前に転がる宝石に気付かぬのんじゃ」

「夢? 夢はよく見るわ。ここに来てから、甘いバターのパンがどうしてもお皿に乗らないから。眠っている間にたらふく食うの」


 一月。子供が汚い言葉を覚えるのに十分な期間か。既に粗暴な馬車小屋連中が、凛々しく真っすぐに育とうとしていた野薔薇を汚し始めている。

 だが、御者の娘として生まれた子とこいつとに何の違いがある。悲嘆など馬鹿馬鹿しい感情か。

 雨漏りが老婆のぼろへ落ちると、それきり会話は終わった。


 再び訪れる静寂。

 床を軋ませる少女。


 そして定期の馬車が一輛、ぬかるみに気を張る速度で通りの向こうへ到着すると。中から随分大きな鞄を抱えて、一人の若者が姿を現した。


 この雨にくたされたスーツは、きっと所領に持ち帰ること無く捨てられるのだろう。そんなことが容易に想像できるほどの身なりは肩から飛沫を跳ねさせて、店へ飛び込んでくるなり少女の両肩を掴む。


「マリアンヌ!」

「……ステファンなの? まあ、私はずいぶんと遠くへ越したので、知り合いとは会えぬとお父様は言っていたのに」


 どう見ても貴族の御曹司。この少女とは、誼のあった家同士の付き合いか。まあ、そんな憶測などほんの些事。

 なぜならここに、過去は必要なく。道の先には未来しかないのだから。


「なんて姿になってしまったのだ……! ああ、可哀そうなマリアンヌ! 今すぐ私の屋敷へ連れて行くから安心おし!」

「それはどういうことなのでしょう。私はプロケスタへ越してしまったのよ?」

「もう一度越せばいいのだ! 私がかつての約束を果たしてあげよう! 結婚して欲しい!」


 物を知らぬ少女とて、プロポーズとなれば話は別。見る間に頬を染め、少女が本来あるべき流麗な仕草で立ち上がって裾を摘まむと、花も恥じらう程に美しいお辞儀を披露する。


 ……だが。


「有難き申し出ではあるのですが、それは困りましたわ」

「お父様のことかい? もちろん君と一緒に迎え入れよう。安心するんだ」

「そうではなくてね? 宝石箱を鍵で開くことができた方だけが、私と結婚できるの」


 つい先ほど、運命の女神アトロポスにより縛られた一つの枷。少女は、そのお伽噺が夢か現かの判断も付けることができず、青年を困らせる言葉を紡ぐ。


 だが、長きにわたる誼は青年の眉をひそませることもなく。真摯に彼女の言葉を、その深い青色をした瞳で受け止めると。


「宝石箱とは? これのことかい?」


 何の価値もないはずの、古びた宝石箱をその手に取った。


 片手にすら余る軽い品だが、その蓋の内には他に代えがたいほどの未来が詰まっている。青年は宝石箱を慎重に眺めると、その最後に鍵穴を片方の目で深くまで覗き込んだ。


「しかし、鍵と言っても……。お父様が所領と共に下さった古い鍵しか持ち合わせていない」


 そう言いながら、スーツの内に潜ませていた高級な銭袋を取り出すと、これもまた豪奢な意匠の古い鍵を一つ摘まみ上げた。

 翡翠の三つ細工に金の浮彫。宝石箱の方がかつての姿かたちをしていたとて、到底釣り合うはずもない。


 だが、何かを言おうとした少女を鍵を摘まんだ手で制した青年は、厳格な父母から教えられた豪胆な勇気を奮い起こして鍵穴へそれを差し込むと。



 …………かちり。



 長く固まっていたはずの留め金は、驚くほどに軽い音を立てて外れ、開いた蓋の中からは、綿に詰まった二つの指輪がその姿を現したのだった。



 ああ。

 なんという奇跡。



 青年は大きく息を吸い込み、喜びの余り咆哮すると、少女は感動の余り涙を零してその場に膝をつく。


「まあ、なんということでしょう。お伽噺はこうして、真の物語へと姿を変えたのですね……」


 青年も貰うように双眸に涙を浮かべると、その勇敢な手は称えられるかの如く女性の両手で温かく包まれて、額へと導かれる。


 そして青年は、旅路の間ずっと信じていた言葉を、現実として耳に入れることができたのだ。



「不束者の私ですが、未来永劫、どうぞ幸せにするのんじゃ」


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