ずっとキミを好きだった
シェリンカ
1.痛い自覚
あいつと初めて会ったのはいつかと聞かれれば、それはもうママのお腹の中にいた頃からで――。
仲良し姉妹が同じ時期に生んだ子供同士だったからこそ、まるで双子の兄妹のように、なにをするにもずっと一緒だった。
ただ違っていたのは――。
健康優良児で表彰までされた私とは違って、あいつは生まれつき心臓に病気を抱えていたということ。
そして、そんな運命さえ前向きに受け止めていた伯母さんが、長くは生きられないと言われていたあいつよりも先に、亡くなってしまったこと。
まるで遺志を受け継いだかのように、私をあと回しにしてまであいつの世話を焼くママを、嫌だと思ったことは一度もない。
そうすることであいつが――海里が一日でも長く生きられるのなら、私にとってはそのほうがずっとずっと大事だった。
「だから……今日はちょっと用があるから、学校休むんだよ……」
受話器の向こうから聞こえてくる海里の声は、珍しく歯切れが悪い。
「寝坊したからって、ズル休みするんじゃないでしょうね?」
ちょっと探るように問いかけてみたら、案の定、一瞬言葉に詰まる。
「うっ……違うって」
「じゃあ用ってなんなのよ……病院?」
「いや、そうじゃないんだけど……」
のらりくらりとはぐらかすことで、学校を休む理由をなんとか誤魔化そうとしているんだと、ピンときた。
ちょっと腹が立って、つい責めるような言い方になってしまう。
「いいご身分ね……やっと通えるようになったと思ったら、もうサボるわけ?」
「サボるって……」
「違うの?」
「いや……違わない」
思わずため息が出た。
大きな大きなため息を、受話器越し、海里の耳にもよく聞こえるように吐く。
「いいわよ……『一生君は病院です』とでも言い訳はしてあげる。だからせめて行き先ぐらいは教えて」
「本当にたいしたことじゃないんだ。ひとみちゃんが学校から帰って来るよりは絶対に早く帰って来るし」
そこまで秘密にしたいのかとカチンとくる。
この私に対して――いつだって海里のことばっかり優先して、十六年間生きてきた私に対して。
「つまり、言いたくないってわけね」
畳みかけるように確認したら、そこだけははっきりと返事がある。
「はい……」
「だったら、最初っからそう言いなさいよ! 私が遅刻しちゃうでしょ!」
本当に頭にきて、大声で怒鳴りつけてから受話器を置いたら、ママが心配そうにキッチンからこちらを見ていた。
慌てて声のトーンをちょっと下げる。
「……海里、学校休むって……別に具合が悪いわけじゃないらしいから、心配は要らないわ」
「そう……」
ホッとしたように胸を撫で下ろしたママは、「どうして」だとか「なぜ」だとかは聞かない。
私が学校を休もうとしたって、ちょっとやそっとの頭痛じゃ休ませてくれないことと比較すると、不公平な気もするがしょうがない。
――海里なんだから仕方ない。
迎えに行く必要がなくなったぶん、時間に余裕が出来た登校時間を有意義に使おうと、私は早速玄関へと向かった。
「ひとみ……先生にはなんて言うの……?」
靴を履いている背中に向かってママが問いかけてくるから、ふり返らないままに答える。
「病院って言っとくわよ……まさか十ヶ月の入院を経てようやく入学した高校に、一ヶ月で飽きたみたいですとは言えないでしょ……?」
「別にそういうわけじゃないと思うんだけど……」
(それぐらい私にだってわかってる……! だてに十六年も一緒にいるんじゃない!)
何に対してだかハッキリしない怒り混じりのセリフは、心の中だけにしまっておいた。
小さな子供の頃ならともかく、高校生にもなった今では、いくら同級生の従兄妹同士だからって、何もかも一緒といかないことくらいは、私にだってわかっている。
でも、少しずつ私と距離を置いていこうとするあいつの行動に、最近妙に焦る。
そしてそんな自分の心理に、もっともっと焦る。
「……ちゃんと上手く言っとくから大丈夫よ。じゃ、行ってきます」
「いってらっしゃい。気をつけて」
すっきりしない思いを追い払うように頭を振って、私は玄関の扉を開けた。
雨上がりの空気が清々しい庭を抜けて、大通りへと通じる細い路地に一歩を踏み出す。
新緑に萌える木々の間から、朝日が顔を出して眩しい。
珍しくよく晴れた6月の朝だった。
中学三年の夏に大きな発作を起こした海里が、特別配慮で受けた試験に合格し、退院と同時に私と同じ高校に通い始めたのは、つい一ヶ月前のことだ。
みんなよりひと月後れの入学を心待ちにしていたのは、海里本人ばかりではない。
伯父さんや五つ年上の陸兄。
それからうちのパパとママ。
――もちろん私だって、当然嬉しかった。
急に容態が悪くなった時に備えて、一緒に登下校する上に同じクラス。
その上、席まで隣同士。
私が所属している美術部にも上手く引っ張り込んで、これで安心だ、なんて私自身はすっかり満足していたが、ひょっとして海里はそれらが嫌だったのだろうか。
なんだかスルッとすり抜けて、上手く逃げられてしまったような気がしてならない。
(なによ……! 嫌なら嫌だって言えばいいじゃない! こっちだって好きでやってるわけじゃないんだから……!)
我ながらなんとも説得力がないセリフを心の中だけで呟きながら、学校までの道をひさしぶりに一人で歩いた。
途中、一番の大通りを抜けるあたりに、海里が一ヶ月前まで入院していた病院がある。
十ヶ月の間、朝と夕に顔を出し続けたその建物を、ちょっと懐かしい思いでふり仰いだ。
二階の西端の部屋の窓から、いつも私を見送っていた明るい色の頭は、もちろん今はもうそこにはない。
でも毎日学校で顔を会わせているから、これまではなんの心配もいらなかった。
(でも今日はいない……まったくどこで何するつもりなんだか……!)
十ヶ月前、海里がひどい発作を起こして倒れた時に、私は傍にいなかった。
そのことで私は自分をひどく責めたし、深く後悔した。
だから二度とそんな失敗はおかさないと心に決めている。
なのに――。
(まったくもう! どこをほっつき歩いてるのよ!)
気を緩めると不安に覆い尽くされてしまいそうになる心を、代わりに怒りで満たして、私は足を早めた。
(絶対に明日、問い詰めてやるんだから!)
でも翌朝、やっぱり同じくらいの時間に私の家に、学校を休むという海里の電話がかかってきた。
「そう……うん……わかった……」
海里のなんともハッキリしない説明を大目に見て、担任に嘘の欠席理由を伝えるのも、もう今日でいったい何日目になるんだろう。
(……一週間じゃないのよ!)
欠席ぶんの授業のノートをコピーしてやるにしても、授業が進んだぶんを私が直接教えてやるにしても、そろそろ限界がある。
海里はきっと、伯父さんや陸兄には何も言ってないはずだ。
そうでなけりゃ、弟命の心配性の陸兄が、こんなこと黙って許すはずがない。
(いくら私が大目に見てあげてるからって……甘えるのもたいがいにしなさいよ!)
意を決して翌日の朝、海里がうちに電話をかけて来るよりも先に、家に乗り込んで行ってやった。
でも結果はあまり芳しくなかった。
「それは……お前にとって、学校に行くより大事なことなのか?」
弟が学校を休んでいたことに驚きながらも、そう問いかけた陸兄に、海里が今までにない真剣な顔で頷いた時、嫌な予感がした。
「陸兄!」
抗議の声を上げて、座っていたソファーから立ち上がってももう遅い。
「いいじゃないか。海里にとってそれが大事だっていうんだったら、学校よりそっちを優先させても……ね……?」
海里の実の兄である陸兄に、笑顔でそんなふうに言われれば、私に異を唱える資格はない。
「陸兄は海里に甘い! 甘すぎる!」
憤懣やるかたない思いでいくら叫んでも、あとの祭りだった。
「そうかな? そんなことないと思うけどなあ……」
私の叫びなんて笑顔で軽くかわしながら、陸兄は海里の隣から立ち上がり、サイドボードの引き出しを開けて、白いスマホを取り出す。
「でも、もしもの時に困るから、これからはこれを持ってろ。俺とひとみの連絡先は、先に登録してあるから。何かあったらすぐに言え。ちょっとでも具合が悪くなったら、絶対に連絡するんだぞ」
「ありがとう……」
それはまさに、これまで病院や病気に縛られてきた海里が、生まれて初めての自由を手にした瞬間だった。
これからは誰にも報告しなくても、自分の意志で自分のやりたいことが出来る。
それを海里がどんなに喜んでいるのかは、よくわかった。
目を輝かせながら、陸兄からスマホを受け取る笑顔が眩しい。
だけど――。
これまで海里の為に海里の為にと生きてきた私にとっては、いったいどう使ったらいいのかさえわからない自分の時間を与えられても、戸惑うばかりだった。
(じゃあ私は、これからなんの為に海里のいないあの高校へ行くの……? 何をして毎日を過ごしたらいいの?)
思わず喉が熱くなったが、私はそれに耐えた。
私はこれまで、人前で泣いたことなんてない。
人に弱みは見せたくない。
海里の前だったら、それは尚更だった。
「ひとみ……お前もこれからはもう少し自分のことを優先してもいいよ……もう高校生なんだもんな……」
傍から聞くぶんには思いやりに溢れたとしか言いようのない陸兄の優しい言葉も、私にはまるで死刑を宣告する声のように冷たく聞こえた。
体中から力が抜けて、その場に座りこんでしまいそうだった。
――それぐらい、海里は私にとって全てだった。
自分でもとっくにわかっているつもりだったけれど、あいつが私とは違う方向を向いて自分の足で歩き出したこの瞬間、確かに自覚した。
海里を守らなければという思いよりも、何よりも、私はただ、ずっとずっと海里のことが好きだったんだ。
従兄妹というだけではなく、一人の男の子として――。
泣きたいくらいの気持ちで、そう悟った。
あまりと言えば、あまりのタイミングの、初恋の自覚だった。
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