スパイの銀髪メイドちゃんのお尻をぺんぺんするミラクルファンタジー

七色春日

プロローグ 

 

 病床に伏した老人は息絶えようとしていた。


 病魔と戦う力など残されておらず、指先ひとつ動かすのも難しい。


 死の霧は濃密に老躯ろうくを包み込み、命を黄泉よみへ誘おうとしていた。


 老人がふいと向けた目線の先には、壁にかけられた自画像がある。


 辺境伯として遠征に赴き、軍馬に乗る懐かしい自分の姿が描かれていたが、その勇ましい雄姿ゆうしとは既に別人となってしまっている。


 頬骨が浮き出るほど痩せ衰え、青白い肌は無機物じみて白みがかり、目を閉じれば既に死人としても通じてしまう。


「旦那様、気をしっかり持ってくださいませ」

「そうです。まだまだ大丈夫ですよ」


 世話役の二人のメイドが、ベッド際で交互に老人を励ました。


 どちらも若く娘だ。

 そして、貴族に仕えるにふさわしい美しさを持っている。


 蜂蜜色の長髪をなびかせたメイドは鉄面皮ながらも、陶器の水差しを老人の口許に運び、労りを感じさせる優しげな所作で世話に集中していた。


 反面、ウェーブを描いた灰銀色の癖毛を肩まで伸ばした小柄なメイドは、表面上は悲哀を演出していたが、ほんのわずかに口の両端が緩ませていた。


 それは老人の世話からの解放を喜ぶようでもあるし、別の思惑を抱えているようでもある。


 その些細な違和感に老人は気付いていたが、あえて呑みこんだ。


 二人とも――主従を越えて我が娘のように育ててきた使用人である。

 共に家族のように想っているのは変わりない。


「……二人とも、わ、わたしが死んだら……ごほっ、ごほっ」


「旦那様。お薬をお飲みください」

「そうです。さぁ」


「いや……もう、どうやら……だめのようだ。わかるんだ」


 人生に悔いはない。

 病床の老人――スルード・ファンバードは領主として着任してからというもの、清貧堅実を信条としてきた。領地で暮らす人々のことを第一に考え、心ある采配を揮ってきた。


 洪水や台風などの災害が発生したときは、先祖代々の家財道具を売り払い、復興費に充てた。

 天候不順による不作のときは、租税の徴収を大幅に軽減した。


 名声などはいらない。

 富も栄誉も必要ではない。

 ただひたすら、他人の幸福こそが自らの幸福だった。

 唯一の心残りがひとつだけ。


「アクネロを……わしの放蕩息子だが……伝えて欲しいことが」


「父上ぇええええええええええええーーーーーーーーッ! ようやく、くたばるみたいじゃねえーかぁ!」


 突然――寝室の戸口が乱暴に蹴り破られ、若い男の大声が部屋中に轟いた。


 ドアが外れて転がり、真鍮製のドアノブは床と激突してひしゃげる。


 現れたのは流行の貴族礼装をまとった青年だった。


 最上質の黒絹を惜し気もなく使われた丈長のジャケットを優雅に着こなし、馬革のベルトで締めたズボンからはすらりとした足が伸びている。


 燃え上がったような金髪を後ろに流し、人を食ったような笑みを浮かべ、ギラギラとした碧眼はケダモノのような眼光を放っていた。


 現れた男は首を鳴らして室内を見回すと、老人に視線を固定してのしのしと歩いていく。

 二人のメイドは分を弁えたのか、道を譲った。


 ぴたりと、男は天蓋付きベッドの前で立ち止まる。


「あ、アクネロ……よっ、よいか……お前に……任せるが、その、領主としての」

「知らねえよ。俺のキョーミは父上の財産と権力だけだ。面白おかしく、有効活用してやるよ」


 老人は声を震わせ、骨と皮しかない手を伸ばしたが――アクネロは見下ろしたまま両手をポケットに突っ込んでいた。


 死に際の父親へ対して、冷血すぎる態度だった。

 けれど、予期していたのか老人の顔には失望の色はなかった。慣れきったことを受け入れるように、乾いた笑みをたたえるだけだ。


「だが、言ってやる。じゃなあ父上。また会おうぜ」


 老人の眼球は微動し、口の端が更に上向いた。

 なんらかの表情を浮かべようとしたが、寸前で彼は死神にさらわれた。


 もう二度と、瞳に意思の光が宿ることはない。


 残忍な死が主人を奪い去ったことを確認すると、腰元まである蜂蜜色の髪をなびかせたメイドがアクネロに向けてピンと背筋を立て、姿勢を正した。


 フリルで装飾された前掛けの両端をちょんとつかみ、儀礼的な礼をする。


「ご挨拶が遅れました。お坊ちゃま、おかえりなさいませ」


「領主様だ。二度と言い間違いはするなルルシー。名誉に関わることであり、ひどく重要なことだぞ」


「これは大変、失礼致しました。お坊ちゃま」


 直立しての澄ました顔は悪びれない。

 アクネロは片眉を吊り上げ、腰に手を当てた。わざと背を斜めに曲げ、視線の高さを合わせ、精巧な人形のようなメイドの顔を無遠慮に眺め回す。


 威圧のためか、唇が触れそうなほど接近して睨むが、ルルシーの眉は一ミリも動くことはなかった。


「まっ……いいだろう。俺は反抗的な女はとても好きだ。ガキの頃からの付き合いだが、お前のことが改めて好きになったよ。これから死ぬほど可愛がってやる。楽しみだろ?」


「光栄でございます」

「っで、そこの無礼な白髪メイドはなんだ? 俺に挨拶ひとつしない」


 びくっと灰銀色の髪のメイドは動揺で震え、泡を食って背筋を伸ばし、黒地のスカートを粗雑に握りしめて頭を下げる。


「あ、わっ、私は……ご挨拶が遅れました。三年前からご厄介になっておりますミスリルと申します」


「そうか。初対面だな。俺はアクネロ・ファンバード子爵だ。後継の手続きが終われば、正式に地方伯となる。まあ、そんなことはいいんだ。それよりも後ろを向け。そうだ。ううん、いや、その位置はまずいな……一歩、前に出ろ。一歩でいい」


「こ、こうですか?」

「いいぞ、その位置だ」


 初対面でいて、新たな主人に対して後ろを見せることを慮ったのか、チラチラとミスリルは背後を気にしていると、アクネロはためらいなくスカートをむんずとつかみ、大きくめくった。


 丸い小ぶりの尻がスカートという分厚いベールから現れた。


 尻肉が食い込んだ白いショーツと、細足ながらもむっちりとした太ももが外気にさらされ、ミスリルは驚きで口を半開きにし、両肩をぶるっと震わせた。


 ひゅっ、と喉奥か音がする。

 声の〝溜め〟だ。羞恥で叫び出す一歩手前の兆候。


 アクネロは素早く腰ベルトから馬上鞭を外し、ヒステリーを起こす寸前だったミスリルの臀部を打った。


 バシィンッッッ、と乙女の尻から奏でられたとは思えない衝撃音が響き渡る。


「ひゃああああああっ!?」


 驚きで大口を開いたミスリルは物悲しげに絶叫し、両手で尻を抑えながら絨毯の上に前のめりにべちゃりと倒れる。


 顎から落ちたことで顔面からの衝突こそ免れたものの、尻に走る激痛は耐えきれない。恥も外聞もなく、しきりに腫れた患部をさすっている。


「ふぁあああ……いたっ、痛いですぅ……なっ、何をなさるんですかッ!」


「ルルシー、葬式パーティーをするぞ。領民を集めろ。父上の死体でキャンプファイヤーしながら一杯やりたい」


 痛む尻を押さえるミスリルを無視して、アクネロは短い鞭を手もとでもてあそびつつ、口許に杯を傾ける酒を飲む所作をしてみせる。


 ルルシーは首を横に振った。


「不可能です。現在、使用人がわたしとミスリルさんのみですので、パーティーの準備は小規模になります」


「それは少しみじめだな……パーティーは俺たちのみにするか。とりあえず、祝い酒を飲むぞ。酒を用意しろ。今日は浴びるほど飲みたい」


「わかりました。できればですが、わたしもご相伴に預かってもよろしいでしょうか? お坊ちゃまのご帰還には心が浮き立つものがございますので」


「そうだな……明日から、お前たちには死ぬほど働いてもらう。許可しよう。おい、無礼者。お前もさっさと来い」


 ミスリルの怒りを素通したアクネロは新顔のメイドを迎え、攻撃的な微笑を与えた。


 ただひたすらに人を恐怖させる顔である。


「いいか、俺は父上のように甘くはないぞ。毎日便所で祈りを捧げたくなかったらきっちり奉仕の精神を学ぶんだな。さもなきゃ、ずっとケツを叩かれる屈辱に遭うだけだ。俺はそれでもいいんだぜ。楽しいからなっ!」


 羞恥心で頬から耳まで真っ赤にさせながらも、ミスリルは奥歯をぎりっと噛みしめ、反抗心をむき出しにしたが、意に介さないアクネロはルルシーと共に永眠した男の寝室から去った。


 ミスリルも慌てて、その背中を追った。


 世代交代は終わり。


 がらんどうになった部屋には臨終の辛気臭い空気などなく、残された老人はこの世のすべての苦しみから解き放たれ、安らかな顔をしていた。










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