追記としてのメモ

 明日出発することになった。


 故意に書き洩らしたことがいくつかある。

 はじめから書かなかった。

 書いてしまえばラファエルに読まれるから。

 もう書いてもいいだろうと思うことをメモっておく。


 ・夜の地球について話した。

 明かりのないこの惑星がどうやって見えるのかを。私達はこのほしを俯瞰する視点を得てから生まれた世代た。平らだったと思われていた地球もあったのだから。水をたたえた青い惑星の夜の部分、人間がいなくなって都市の体裁をたもてなくなった地球の闇の部分のはなしをした。闇、ではない。闇の部分。見る場所を変えたら変わってしまう球状の物体の当然を。


 ・雨が一日あがった日もあった。

 私はその日、絵をかいていない。それから黒い雨でなくだんだんと色が淡くなってきたように思える。そのうち透明の、ふつうの雨になったのかもしれない。わからない。そこまで記憶がない。ただ、いつか雨は上がるのだろうと思ったことは記しておく。


 ・植物は枯れていなかった。

 あれだけ奇妙な雨が降り続いて日光が足りているとは思えなかったのに見えるところの木々はふつうだった。気温の上昇は感じられた。私はそれをメモにとっていた。天気、というより雨量についても。絵はもちろんその手助けになった。それから自分たちの行動についてはミズキさんと浅倉くん双方がメモってたのはわかったのでしなかった。けれどそれは天使たちに奪われた。手許にない。返却の要請は叶えられるとラファエルに言われたけれどしなかった。べつに、それを見て私がなんらかの結論を導き出せると思わなかった。彼らの書いたものを読みたいという気持ちはないではなかったけれど、断りなく覗き見するようで気が引けた。潔癖だっただけでなく、怖気づいていた。私のために残されたわけではないものを収奪する者になれるほど何かを引き受けるだけの気力もなかった。もっというと、余分なものを抱え込んでこれ以上苦しい目にあいたくなかった。

 ああ、こんなことを書くのではなく。

 ミズキさんの家に植えた草木は無事だとラファエルが教えてくれた。尋ねたわけじゃない。でも、あるときふと、それだけなんでもないような顔で告げた。

 ラファエルを憎んでいると書いたのはウソじゃない。でも感謝もしている。ありがとう。凄く、ホントは物凄くうれしかった。あのときちゃんと御礼を言えなかったから書いておく。

 連れ出したときだってオリーヴの枝をもってきたわけじゃないしねと私が厭味を言ったときのことだ。ラファエルは、わたしは鳩じゃないのでとこたえたあと横を向いて口にしたのだ。貴女の庭は花盛りですと。ベランダにあったときよりずっと元気ですと。

 それはきっと私に対して開示されてはならない情報だったと思う。ほんとうにどうもありがとう。


 ・ミズキさんの言葉をいくつも書き洩らした。

 浅倉くんはとうとう自分の家族についてやその鬱屈の正体をあかさずにいたけれど、ミズキさんは断片的に、たぶん私のために語って聞かせてくれようとしていた。それは敢えて書かないでおく。彼もまた、どこかの〈繭〉に籠って自伝を書かされているのではないかと期待して。

 その可能性をラファエルは否定しなかった。私にはそれでもう十分だった。


 ・獏はたぶん、もういないかもしれない。

 浅倉くんとミズキさんの行方以上に私が食い下がったのが獏についてだった。ラファエルいわく、あの金色の雨がこのほしの「保存」のためのフィルタなのだとしたら、獏はそこに含まれない。この世界にいないから。貴女のご友人には協力を仰ぎましたとラファエルは言った。「選別」から「保存」方法に至るまで何もかもと。私が特別待遇なのはそのせいか尋ねた。何を根拠に特別待遇と、とラファエルは涼しい顔で問い返した。私は馬鹿らしくなって座りこんだ。気力がないとラファエルと会話が続かなかった。ラファエルは私の顔を凝視した。日を改めますかと口にされることもあったけれど、その日はそういう気分ではなかった。

 ラファエルは、その中高の顔をふいと斜めに俯けた。

 絵のようだった。

 だから私は知らないわけではなかった。彼らがなにをしているのかを。

 私の視線を受けとめてラファエルは顔をあげた。

 貴女のご友人の行方については御想像の通りではないのですか。浅倉悟志という人物が貴女に最後に言って聞かせたとおり。

 なるほど、書かなくても知らないわけではないのかと。いや、浅倉くんが「書いた」のかもしれない。ラファエルは彼の行方についてもこたえなかった。人類すべての記録はとっていますとこともなげに口にした。〈雨〉に触れたものなら例外なく、と。ミズキさんの判断は正しかったらしい。それならば大丈夫なはずだ。浅倉くんの遺骸を外に出したと言ったのだから。

 浅倉くんは、時任獏を殺したと言い放った。ゆるさなくていいよと彼はわらった。オレもあんたを許さないからと。

 私は息を止めて彼を見ただけで、何も言えなかった。何故もなにもどうしてもなく、その言葉を疑わなかった。落ち窪んだ眼窩に埋め込まれていた両眼が暗がりにひかるのをただ眺めた。瞳のうえに水が張ってあることの不思議を思うように。呆然としているだけの私に、浅倉くんが獰猛な笑みを向けたはずだ。怒れよと煽られた記憶はある。怒れなかった、そのときは。

 たぶん今も、怒ってはいない。呆れてもいない。

 だって、そんなことをしたくせにけっきょく彼はいま私のそばにいないのだから。獏を殺せたのなら他に出来ることがあってもいい。だから私は怒ってもいたし憎んでもいたし恨んでもいたのだろうと正直に書くけれど。でも、今はもう、それすらほんとうにもうどうでもいい。私を守ると言いながら私に傷をつけていきたかっただろう男の我儘に付き合うことはない。私は変わったのだ。死者が変われるものかどうか、まだ死んでいないのでわからない。

 恩義は感じている。でも、それだけだ。我ながら酷く薄情だと思う。でも、もうよくわからない。生き残ったことを負い目にするにはもう、私は疲れきってしまっていた。

 それに、浅倉くんはけっきょく私には何も話さなかった。男だから、そういう言い訳があるのかもしれないけれどそうじゃないように思う。私を許さないと言ったのがその証拠だ。見限られていたに違いない。ミズキさんとも寝たし。たぶん、そういう私を許せなかったのもあるんだと思う。ごめんね。それはここでひっそりと謝っておく。許さなくていいよ。私は反省してないから。悪いと思ってない。じぶんの狡さと弱さを厭う気持ちはあるけれど、浅倉くんにそれで見限られるのは仕方ない。だから。

 私は浅倉くんをゆるすもゆるさないもなくて。

 恩義を感じているとだけ言いたい。ありがとう。

 でも、私はもう、浅倉くんを待たない。

 誰も、何も、待たない。


 ・私が負ったものは私の命だけでしかない。未来ではない。断じて。

 徴用(engagement)されるにあたって、だから私は自分の命をしか捧げるつもりはなかったし、この地球のことというか人類のことはどうでもいいと最後まで言いきっておく。ラファエルはこういう私の頑なな態度にいたく感動していたけれど、あんたたちの不始末を私がなんでしてやらないといけないのかという問い自体に返答はしなかった。そうですね、でもとても困っているのですとはこたえたけれど。

 私がラファエルと再会して言った言葉は「絶対に許さない」だったということも書いておく。

 それを聞いたラファエルは微笑んだ。


 天使ではなく、悪魔みたいなかおだった。


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