審判の日 悔悛 180

 自分の声が細くて、あまりにも弱々しくて、愕然とした。頭では冷静なつもりでも、身体がいうことを聞かない。力の限り引き剥がそうと振りあげた両手をひとつ手に握りこまれ、そのまま重なった胸の間におかれた。頬に頬を寄せられて、恐怖に竦みあがりパニクって荒く頼りない息遣いに上半身を震わせている私を彼が感じているのだとわかった。頭をふり、何かを堪えるように恍惚として睫を合わせている顔を見あげると、泣きたくなった。目の前を塞ぐのは紛れもないあの芳香、プラチナム・エゴイストをおしのけて薫る体温の証。

 私が怯えている姿を見て、この男は興奮している。

 その事実に、喉奥に冷たく長いものを挿し込まれたように頭が冷えた。吐き気に似た悪寒は、現状認識という、過酷な最後通牒だ。抵抗を押さえつけ、ないものにする、その「力」をこそ嫌うのだと知っていて、私はいつも屈してきた。ただ相手の気がすむように、目を閉じて、早く終わればいいと、耳許に流し込まれる言葉と裏腹の感覚を無視し、自分の殻に閉じこもってやりすごした。それさえも気づかないオトコを嘲笑し、無理やり抉じ開けようとするオトコに辟易し、忌み嫌いながら、必要としてきた。

 必要と、してきたのだ。

 けど……。

 それが、そんなくだらないものがオトコなのだとしたら、私は、そんなものはいらない。

 狭まった呼吸はそのままに、目を閉じることで自分の呼気をはかり、背中のテーブルの硬い感触を思い起こし、後頭部でバレッタの留め金が軋み皮膚に食い込むのを感じ、もう一度ゆっくりと目をあけた。

 私は、私の恐怖や嫌悪感、そして息遣いや震えまでも自身の快感として汲みあげた男を見つめようとした。そして、その男は身体のしたで喘いでいる生き物の気持ちの変化をきちんと受けとめて身体をはなし、私の手首を開放し、つづいて用心深いようすで頭の横に手をついた。それから、私の顔を見ながら掠れ声で告げた。

「君に、嫌われたくないのは本当だ。君にだけは見捨てられたくないし、僕を受け入れてほしい……」

 白旗をあげているのは彼のほうで、私ではない。私は他者に寛容ではないのだと、教えられた。だからこそ、これだけこちらの間合いを計られては、その言葉が嘘だとは言いづらい。私は震えながらも苦笑でそれを認めた。認めざるを得なかった。

 何故ならば。

 彼は、絵に描いたようなドメスティック・ヴァイオレンスを演じながら、自分のオルガスムスを私に押し付けようとしなかった唯一のオトコだ。それだけじゃなく、私を無理やりそこへと導こうともしなかった、これまたただ一人のひとでもある。

 どちらを信用したらいいのかは、明らかだと思う。口惜しいことに、私は彼にほとんどすべてを見抜かれているのだろう。力で押し伏せたこの今でさえ私の肌に唇を寄せず指を這わせずにいる事実を、認めさせようとするのだから。

「ねえ姫香ちゃん、僕たちが初めて会ったとき、あの築地の家で、君は浅倉に酷くつれなかったよね」

 そう、だっただろうか。たしかに、浅倉くんにもミズキさんとばかり話して盛り上がってと言われた。でもそれは、絵のこともあったし、私はふたりが住む家の「お客さま」で、さらには浅倉くんと私は旧知の仲だと思っていたからだ。

「もちろん君は彼を除け者にするような不躾な真似はしなかったよ。でも君は初対面の僕のほうに気を遣ってくれていた。彼もそれは十二分にわかってたと思うけれど、僕は浅倉の嫉妬心に眩暈がするくらい興奮した。それと同時に、自分に気がある男の焦燥に気づいていながらそれを平然と無視できる君の冷淡さにも魅かれたよ」

「私そんな」

「酷い女じゃない?」

 かろやかに嘲笑されて、ムッとした。

「僕は、そういうサディスティックな君が好きだよ」

「なに、言って……」

 怒り声をあげようとしたはずなのに、私の声は弱かった。それに気づいて次に何を言うべきか考えた隙に言い継がれる。

「浅倉がバクになったとき、君は築地の駅から走ってきたよね」

「それが」

「君は、あの異変に自分が関係してると僕が思ったせいで呼び出されたと思ってたみたいだけど、違う。浅倉が今にも死にそうに見えたから、僕は仕方なく、君を呼んだ」

 声が、出なかった。私も、かすかにそう感じたことを思い出した。

「僕はバクになった浅倉とふたりだけであの家で一生を終えてもいいかと思ったけれど、それはあんまりだよね。君は僕に、浅倉が何か飲み食いしたかって訊いたけど、あいつは僕がなにをすすめても食べる気がなかったんだよ」

 彼はそこで、小さく笑った。何かを思い出すように細めた両目は、その瞬間、私を遠くへ追いやるように透明にした。

「それなのに、僕が君に電話するって言ったとき、やめろってすぐには言わなかったんだよね。あいつ、しばらくずっと黙り込んで動かないんだよ。僕はもう、あの時点で君には敵わないって確信したし、君を呼ぶこと以外で浅倉は助からないって思った」

 否、それは単なる「過去」への視線か。異物として遠ざけられたわけではなく、私という存在が彼らの間にいなかった時への、あるいはアルカディアを遥か彼方に望む郷愁だったかもしれない。

 アルカディア――失われた理想郷のまたとなく美しい名前。

 それは、わからないではない。

 そう感じていたからこそ、私自身も気を配っていたはずなのだ。いつ何処で、私のその緊張が解け、均衡が崩れたのかは、今ならわかる。でも、それさえももう、「過去」のことだ。

 そうして、ほとんど吐息のような声で、彼が続けた。

「しかも君はバクに変身した浅倉を見てもさして驚いたふうでもなくて、とりあえずお茶でも淹れるからって言って、僕が声をあげる前に、私が来たからもうだいじょうぶって言うんだ……」

 泣き笑いのような声だった。

「それは、だって……」

 なにを言っていいかわからなかった。困りきった私に、彼は微笑んだ。

「それから僕の肩をやさしく撫でてくれた」

「だって、泣いてたから」

 彼は深くうなずいてうつむいたまま訊いた。

「あの日、ほんとは婚約者とのデートだったんじゃないの?」

「え……う、ん」

 ウソをついてもしょうがない。首をかしげると、彼は顔をあげた。

「服と化粧と香水があってないなって思ったんだよね」

 うわ、このひと、あの状況でそれを見て取るか。

「王妃の水、だった? 今日もそうだよね」

「サンタ・マリア・ノベッラの。あれがいちばん気合が入るの」

 たしかに、黒いセーターにジーンズというラフな服には合わなかったかもしれない。なんだか緊急事態だと察したので汚れてもいい服装を選んだのだ。その直前までは、同じ黒でもヴェルヴェットジャケットを着ていた。

「あのとき……隣の部屋でバクになった浅倉が独りで蹲ってるっていうのに、僕は君を抱きしめながら、君からしたらすごくおぞましいことを思い描いていたんだよ」

 それはさっきの、バクになった浅倉くんを閉じ込めてふたりだけ、否、秘密を知った私もろとも拘束し、三人で暮らすという考えか。

 逃げるような真似はさせないとまで言い切られた。彼の言い分はもっともで、たしかにどこの誰に見せればいいのかわからないのだから当然の処置だとも思った。私を逃してしまえば、彼らのシェルターは守られない。我が身の自由と尊厳を思えば理不尽な要求だとは感じたけれど、そうする理由はわからなくはなかった。

「君は、あの異様な状況に堪えてきた僕が浅倉のいない場所で君の救いの手に縋りついたと思ってたんだろうね」

「違うの?」

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