審判の日 未告知 159

「う、ん」

 ミズキさんからだった。覚醒をうながされるほど危機感のある声じゃない。ということは、まだ会ってないのだろうか。開かない目で時計をつかみ寄せて見る。九時三十七分。

「浅倉、怪我したからすぐ来れる?」

 さすがに、目が冴えた。声をあげる前にミズキさんがさらりと、僕が階段から突き落とした、と口にした。

「え、なに」

「僕が突き落とした。あいつ頑丈で足首の捻挫だけでどこの骨も折ってない。脳波もとったし異常はない……」

 声が途切れたので泣いてるのかと思ったら、もめていた。なに電話してんだよ、という浅倉くんの声が聞こえてきた。電話しなくてどうするつもりだよ、とミズキさん。心配かけんなよ、と怒鳴り声がかぶさって、ああ、あれだけ声が出れば元気だと、ぼんやり思う。

「あ、おはよう。オレが勝手に足滑らせて落ちたの」

 電話をかわって開口いちばん、そう言った。

「……丈夫で、よかったね」

 それだけ、どうにかこうにか口に出せた。

「うん」

 なんだか誇らしげにうなずかれた。

 震えていたのは、今頃になって、すっかり安心しきって寝ていたことに腹が立ったからだ。痛い目をみればいいなんて思った自分が、間違っていたと気がついたからだ。そう理解したと同時に喉が狭まり、急速に指が冷えた。意味内容の混乱に嗚咽が胃へと戻り、無様な咳になって涙とともに吐き出された。

 浅倉くんはじっと黙って私が噎せてしゃくりあげて泣く様を聞いていて、こちらが口を開くタイミングを見計らって囁いた。

「今日はそっちにいて。オレもミズキもこれから仕事だから」

 今日はいいよ、とミズキさんが後ろで言うのを、さすがにもう出勤しないわけいかないだろ、会合もあるし、と浅倉くん。

「アサクラくん?」

「姫香ちゃん、僕だけど、まあそういうことだから、言い出したら聞かないんで連れてくよ。ごめんね。また浅倉から連絡させる。それじゃ」

 ミズキさんの、いつものビジネスライクな声だった。私が泣いていることに気がついていて、でも、ごめんねとしか言わなかった。

 浅倉から連絡させる=僕からはもう連絡しない。

 イコールで結ばれたサヨナラは、あまりにも強引だった。一方的に切られて、甘ったれた自分の啜り泣きのみじめさに向けるべき怒りが噴出した。

 もう、ひとを愕かせないでよ! 

 あんたたち、もうちょっと何とかならなかったのか! 

 己の読みの甘さをひとのせいにして八つ当たりしている自覚はちゃんとある。何もかも任せきってしまった私が悪い。

 けれど、こんなのは許せない……!

 なにがだいじょうぶだ、浅倉悟志。信じたのが間違いだったと思わせるな。いっつもほんとに、ここぞというところで期待を裏切ってくれるよ。どうして安心させてくれないの。うまくやってくれないの。信じてたのに、大丈夫だって思ってたのに。心配じゃなくなるようにするって言ったくせに。どうしてそうしてくれないのっ!

 そしてカツラナオキ、なんでそんなこと仕出かすの。階段って、あの急な階段から落ちたら死ぬよ。ほんとに死んじゃうよ。どうしてそんな堪えられないの。衝動的に過ぎる。いくらなんでもそれはないでしょう。本気でアタマおかしいよ。

 何もかも全部、おかしいよっ!

 全世界へ否定文をつきつけて、何もかも零に戻してしまいたい衝動に息が切れた。純然たる破壊欲求は、胸を圧迫し、そのまま肋骨を軋ませる勢いで呼吸を危うくしたけれど、すぐさま自分の口に手をやって呼気を押さえる。いま、過呼吸の発作を起こしている場合じゃない。

 とにかく立って。

 そう考えたのに、腰からしたが動かない。

 ……立てない、のか。

 膝が、起きない。まるで力がはいらない。

 ふうっふうっ、という獣じみた荒い息継ぎが自分のものだと気がついて、笑いそうになった。こめかみあたりでドクドクいってる。どこか、血管切れたかもしれない。

 もう絶対、金輪際、ひとになんて頼らないから。こんなふうになるなら、その場にいたほうがよかった。自分が殴られたほうがいい。当事者でいたほうが絶対に、いい。

 彼らの問題だなんて言って、ウソ。

 私、見たくないから逃げてただけだ。丸投げして、見えないところでやってってことだ。さいしょから、私ってば、そのやり方で変わってない。

 バカだ。

 浅倉くんに甘えただけだ。それで、彼の失敗を責めるのは間違ってる。

 あんなに約束したのに、ミズキさんの手を離して、自分ひとり気楽なところに守られて逃げただけだ。間違ってる。

 バカだ。大馬鹿だ。

 死にたい……!

 両手で顔を覆っても、さっきまで涙腺が壊れたかのようにあふれ出てきた涙はこぼれなかった。

 ただ、激しく胸が上下するだけ。

 自分のゼイゼイいう呼吸を感じ、心臓の脈動を聞き、背中から横隔膜が引き攣れるような痛みを存分に味わいながら、たぶん今、私はたんに混乱しているふりを装っているだけだと気がついた。事態を甘くみた自分に向き合えていないだけで、問題を先送りにして逃げたいだけだ。

 逃げて、見ないでいたいだけだ。

 それでいい?

 本当に、それでいいの?


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