3月25日 148
自動販売機の前で迷っていると後ろから来て、なに悩んでんだよ、トロトロしないで早く選べと焦らせるので素直にどくと、彼と同じ甘い果物ジュースを押しつけられた。首をふって断ったのに、机のうえに置かれていた。ジュース一本、クラスの男友達ならもっと気持ちよくおごってくれる。しかも、そういうときに限ってレファレンスやカウンターに彼の姿がなかった。帰り際に見つけて声をかけると、温くなったのなんていらないよ、と眉をあげた。家で冷やして飲めばいいじゃないと顔をあげると、持ち歩くの邪魔と笑って、家で冷やして飲めば、と背中をむけた。お礼を言いそこなった私は次の日に、同じものを彼の目の前のカウンターに置いてなにも言わずに通りすぎた。
いつの間にか餌付けもされた。あるとき、綺麗にラッピングされた手作りのマドレーヌを渡された。やるよ、と言われてあまりに美味しそうで、ほとんど無意識に受け取っていた。すると、すぐそばに座っていた女性がひそかに笑いをかみ殺した。深緑のスーツの襟にエルメスのスカーフを巻いた彼女が作ってきて、司書仲間やアルバイトのみんなに配っているのだと気がついた。こっそりと「マダム」と呼んで憧れていた五十絡みの美女で、閉架図書室に入る許可をゼミの先生にもらったときに館内を案内してくれたひとだ。本人の前で受け取ってもいいのだろうかと思ったのも一瞬で、ありがとうございます、と彼女に頭をさげて、カウンターの後ろへと入った。
彼は台車を押しながら近づいてきて、助かったよ、おれ、ああいう菓子苦手でさ、と苦笑した。くださった本人の前で悪かったんじゃない? と問うと首をふった。まあ、彼女も気にしている様子ではなかった。というより、いつも私と彼のやりとりを面白がっていたようだ。
台車に乗った返却本を値踏みしていると、本、好きだよな、と彼がつぶやくように言った。いっつも図書館にいるし、と笑ってつけたされた。
いつからバイトしてるの、と聞くと、去年の冬から、とこたえられた。全然知らなかったとおどろくと彼は横をむいた。
おれは知ってたよ、やらしい本ばっか借りてるから。
言われてみると、三年次にはサドやバタイユやその他エロティシズム満載な本ばかり読んでいた。あの読書遍歴を知られていたなら欲求不満と思われてもしょうがない。
実をいえば、いったいぜんたい世の中のひとがほんとは何をどうしているのか熱烈に知りたかったのだ。
友人たちや知り合いにリサーチすればするほどその違いに翻弄され謎めいて、かといって巷に溢れる恋愛マニュアル本は鵜呑みにできず、一度だけ女友達と鑑賞会をしたアダルトビデオというやつは脈絡のなさに頤が落ちそうになり、トレンディドラマには肝腎なところは出てこない。キスくらい、高校の頃に何度もした。その先を、みんなどうやって遂行しかつ継続しているのか教えて欲しい。
少女漫画を信じるのは危険すぎる。少年誌や青年誌も願望充足ファンタジー度合いでは似たようなものだろう。あと他に頼れるのは文学しかないと取りすがったはずが、よく言われるように仏文の恋愛はたいてい不倫だった。カトリック、恐るべし。
トリスタンとイズーの悲恋をさきがけに、エンマもマノンもジュリアン・ソレルもヴァルモン子爵もアドルフも、並べ渡すとみな堕落しているようだ。『三銃士』を大人になって読み返すまで、ミレディにばかり気をとられダルタニャンの恋人に夫がいたことを忘れているような自身の体たらくにがっくりした。
とにもかくにも自分自身の参考になる、ボーイミーツガール型またはガールミーツボーイ型の、ポルノでもないけどそういうことがきちんと書いてある、甘酸っぱくも初々しくもない、幸福なラブストーリーというのはこの世の一体どこにあるのだ――
そのときの私は、きっと、すごく困った顔をしていたのだろう。彼があわてて言った。
嘘だって、そんなの覚えてられるかよ、一日何人貸し出ししてると思う?
ほっと肩を落とすと、でもなんか、目立つ子だなあと思ってた、と評された。
ふと顔をあげると目が合った。一重かと思っていたら奥二重なのだ。澄んだ白目と水晶体の丸みに濡れた膜がかかっているのが、暗い蛍光灯のしたで妙にはっきりと見て取れた。ボートネックの襟にすうっと伸びた鎖骨のラインが影をつくっていた。
彼が、それ何、と私が胸前に抱えたゴンブリッチの『シンボリック・イメージ』を取り上げた。本の表紙を見るはずが、こちらを見おろしていた。黴臭い本が詰まった書架にもたれて目を閉じたのは、私のほうだ。
フルーツミックスジュースの味がした。
晃は喫煙者だったのでいつの間にかそれは苦いものだと思っていた。あの長い指にタバコをはさんで吸う仕種はたしかに様になっていたけれど、私はにおいが苦手だった。とても、身体に悪そうな気がした。
遠くで台車の音がして、何もなかったように離れた。そうでなければいつまでも続けていたかもしれない。足が震えたりしなかった。さらには罪悪感というのもなかった。しいて言えば、図書館でそういうことをするのはどうなんだろうと、本に対して申し訳ないような気がしただけだ。
意外と簡単にできるんだ。折り畳み傘をたたんで駅のホームで電車を待つ間、ぼんやり考えた。そう、ぼんやりしていた。卒論の資料のひとつだというのに、私は本を取り返すのを忘れていた。
それから、講堂では声をかけられなくなった。閉架図書室ですれ違うたびに腕をとられて唇をあわせた。本を探している背中から耳にキスされたこともある。
前のようにカウンター横では雑談しなくなった。でも、いるかいないかを確かめるように目で探していた。ひとに見つかるかもしれないというスリルを楽しんでいるのだと、ゲームをしているふうに自分では思っていた。図書館という、隔絶された別世界に潜り込んで遊んでいるような気分でいた。
その間も、酒井晃と付き合っていた。キスもした。もちろんそれ以上も。
でも図書館にいるときは晃のことは思い出さなかった。もともと本を読んだりレポートを書いたり文献を訳したりしている間は彼のことなど忘れていた。いや、サンドロ・ボッティチェルリ以外、誰のことも私の頭を占めなかった。ただ、視界のはしにその男がレファレンスカウンターで本を整理する姿は目に入った。
しばらくして、晃が彼の元カノを寝取ったという話を友達から聞いた。時期はどうやら私と付き合う直前のようだった。わかりやすい図式に肩をすくめた。
閉架図書室の稀覯本のある三階へ続く階段下で、左腕だけで抱きしめられそうになって振り払った。聞いた話をくりかえして、そんな理由でつきまとわないでよ、と見あげると、そんな理由じゃなきゃいいんだ、と嘲笑された。なるほど私は失敗した。唇を噛んで、まるでフェルメールの絵に出てくるような黒と白の市松模様の床を見つめていると、彼が手に持っていた本を台車のうえに音をたてないように置いた。一歩近寄られて、私は後ろへ下がった。
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