3月24日 夜間 110

あわてて問いただすと、頭をふって否定した。ウソはないと思う。でも、瞳をのぞきこむとまるでごまかすように、あれが消えちゃうのはもったいないね、と口にした。ただの落書きだよ、とこたえると、そうかな、あれにはものすごく気が入ってるよ、と返ってきた。

 部屋に入りソファに座らせると、彼は足下のボストンから綺麗にリボンのかかったお菓子の箱とシャンパンを取り出した。贈り物尽くしだとお礼を言ったとたん腕のなかにくるまれたけど、お花、というとキスひとつですぐに手を離してくれた。

 クリスタルの花瓶を引っ張り出して投げ入れ、ローテーブルに置いた。一本は、青磁の鶴首に活けて自室へ。玄関のガーベラとアイビーを替えようと思ったけれど、それはやめた。お茶をいれないと。

 この場合、シャンパンを開けるべきかと考えてこの家にはちゃんとしたフルートグラスがないと思い出す。飲みたい、と問うと、僕はどっちでも、と首をかたむけたので予定通りに温かいミルクティーをいれることにした。それから、両手でマグをくるんで嘆息する姿を上から眺めると、なんだかその絹糸のように艶のある髪に触れて、形のいい頭を撫でまわしたくなった。

「そわそわして僕を待ってるとは思ってなかったけど、あれはびっくりした」

 嫌味にも皮肉にも聞こえないところが、ミズキさんらしさに思えて肩をおとす。

「昨日、画廊でドローイングみたら、大きいとこでかきたくなって」

 ロール紙にかいた街の風景があった。線路と電車と車とビル、それから人物。線路はぐるっと一周ゆるやかに引かれていた。その伸びやかさを支える感覚の冴えが、やたら心地よかったのだ。あんな風にすなおに楽しくかきたいと思った。

「姫香ちゃんて、線にこだわるよね」

「私には、線以上のものはないの。自然に輪郭線はないって言い切ったレオナルドに大反撥したくなるくらい」

「ヴェルフリンの云う、線的ってこと?」

「うん。けっきょく私、色彩を上手に扱えないの。リューベンスの絵なんか真似すると、肌の色とか複雑すぎて気が狂いそうになる」

 やけに面白そうに声をあげて笑われた。そのまま膝のうえに乗せようとするので、私のお茶はないの、と文句をつけた。するとすぐに立ちあがってローテーブルに並べておろし、ぽんぽんと自分の横を叩く。そこに座れとうながされ、くっつき虫だなあと心中で苦笑したものの、たしかに触れ合っているのは心地よい。お互いの身体に腕をまわしながら唇を合わせていると、ふっと言葉がもれた。

「ただ一本の、喩えようもなく美しい線が引ければ、ほんとはそれだけで満足なのかもしれない」

「ああ、だから君が好きなのは、ボッティチェルリなんだ」

 彼が、壁にかけてある《春》の絵に瞳をむけた。

「その通り。サンドロは線の詩人だから。アンリ・フォションのいう、線だけで空間をまことしやかにつくりだす名人。線は何かを分け、区別し、別れさせ」

「でも、つなぐものでもあるよね」

 私の意識が完全に絵のほうにむいたことに気がついて、ミズキさんは口の端をあげてから続けた。

「異なるものと相接するところ。これ以上ない究極のマージナル。形を立ちのぼらせる根源だ」

 彼のアプローチは絵そのものに立ち会うよりはずっと観念的だった。描くひとと見るひとの違いを感じながら話しをきいて、良い批評というのがないとならない理由をぼんやりとつかんだ気がした。フィレンツェの天才彫刻家ドナテッロがよその都市では自分がだめになると、悪口と批判ばかりの故郷に戻ってきてしまったのは、こういうひとのいるせいなのだとおぼろげに理解した。

 先日、ミズキさんはわたしのスケッチ帳を三冊、持っていった。そのときに、借用書を書こうかといわれてびっくりして首をふると、売れたら交換会で売ってくるから、と説明された。美術品コレクター同士が集まり、飽きてしまったものを売ったり、または買ったり、情報交換しあったりするそうだ。そうして予約がついたりしたのだけど、いまだに自分の絵が売れるという事実に慣れないでいる。

 そのときのスケッチブックを開きながら、ミズキさんがつぶやいた。

「でも姫香ちゃんは古典主義者ってわけでもないような……」

「私、ルネサンス美術大好きだし素描みるのも大好きだけど、いちばん好きな画家がサンドロ・ボッティチェルリってことはたしかに線的なんだけど、彼はゴシック画家ともマニエリストともいえるからなあ。サンドロの絵ってあのルネサンス的なものからの逸脱振りが現代人にも受け入れられる要素なんじゃないかって思うんだよね。ぱっと見ただけで、どっかオカシイし崩れてるし変、でしょ? マンガっぽいしね。わざと崩してるところもあるけど、あの曲線好きは彼の生理なんだと思うのね。《ヴィーナスの誕生》の女神の傾ぎ方なんて到底まねできなくて、しかもあれ、まっすぐ立たせるとなんだか魅力がなくなるのよ。あの不安定な感じが、あの喩えようもない表情とあいまって見るひとに揺すぶりをかけるんだなあって。それに彼のかく女性がね、なんていうか、あの時代の前にも後にもないくらい特殊で、肖像画じゃないのにちゃんと、『顔のある女のひと』になってて」

 いいながら、ミズキさんの質問のこたえからどんどんずれていっていることは理解していて、彼が猫のように瞳を細めて見おろしてくるその視線に口をつぐむと、

「それで?」

 と、笑いをかみ殺したような声で続きを促された。

「え……と、私ね、サンドロの話し、一週間でも一月でもずっとできそうなの」

 ミズキさんがにこにこして頷いた。じいっと見あげると、彼が、

「古代以来はじめての、等身大の女性のヌードをかいたひとだものね」

「そう、そうなの! ウェヌス・ユマニタス! それにね、私、サンドロのかく女のひとって理想化されてるはずなのに、でも、なんだか見てて気持ち悪くないのね。どれも彼のモデルっていわれたシモネッタ・ヴェスプッチの面影があるせいかもしれないけど、『顔』があるように思える。ティッツィアーノの美女とか、あの理想化された美人画ってただ見てるぶんには綺麗でいいんだけど、たまに首を傾げたくなるんだよね。そういうモノとして注文されたってことは勿論わかってるんだけどね。不思議に、サンドロの聖母や女神の顔にはそういう違和感をおぼえないですむの」

 そうして話しつづけ、夢中になる楽しさが何かを忘れたがる気持ちに似ていると気がついたのは、冷たいものが飲みたくて、なんの気なしに頑丈なデュラレックスを重ねたまま戸棚から出したときだった。一昨日はお客様と興がってボヘミアグラスを用意して、今日はもう、色気も何もない日用品を手にする。その変化に、自分らしくない急ぐ気持ちがあると感じた。

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