3月24日 昼間 108

 途中でいちど、ミズキさんから短い電話がはいった。なんのことはない。夜、なに食べたいと聞いてきた。着たきり雀なんだからフレンチとか予約したりしないでね、と釘をさした。服くらい買えばいいよと言い出しかねないのであわてて、うちでゆっくりしたいと正直に話した。疲れていた。

 彼はわかったとこたえ、じゃあ僕はこっちでご飯食べて行くから、と断りもいれずに口にした。すこし遅くなる、という声が甘く耳朶を揺らした。強引に聞こえないところが、それが当然だと思えるのがうれしかった。彼に理解されていると感じることも快かった。

 八時ちょうどに、浅倉くんからメールがあった。お疲れさまです。なにかありましたか。

 私はすでに打ち終わっていた連絡事項を送った。定型句ではじまり、決まりきった文句でしめた。なにも、つけたすことはないと感じていた。

 看板をあげるときだけ、わずかにどこかが痛いような気持ちがした。錯覚だ。彼と再会し、柳の木を見あげ、大きな枝垂れの花火が見たいと思ってから、すでにひと月たつ。

 あのとき、どうしようもなく貧弱だと感じたこの木が未だに頼りないながら緑の濃さをましていた。ちゃんと季節は巡っている。

 異常気象だけど。

 鍵をしめて鍛冶橋通りに出て歩き、かたつむりの触覚のようにクレーンを伸ばす建築中の高層ビルを見上げた。それから信号を渡りながら巨大な恐竜の化石じみた東京フォーラムを振り返り頭を戻す。このあたりでは高かったはずの大丸デパートが小さく見えることに気がついた。

 ビル横の小さな庭に、ライトアップされた桜の木が立っていた。だいぶ、咲いている。

 ソメイヨシノはどこででも同じ顔を見せるクローン美女みたいでちょっと、そう口にするとみんな驚く。樹形もそろっているし、花の時季に葉のないことがそれを強調する。

 それでも、その同じ顔なのに見るひとによって違う思い出があるから、あれはきっと美しいのだろう。けれど、この樹の寿命は短そうな気がする。あと百年後、あと千年後も生きてくれる樹木のほうがいとおしいと感じるのはヘンだろうか。

 一重なら断然、山桜と思うのは西行好きのせい。八重桜の普賢象なんて、蕊の朽ち葉色のせいでくしゃっとした顔でも、あの頼りなげに波打つ花弁の重なり具合は上品で愛らしくてサイコウだと思う。

 駅から大学へつづく裏道に、八重桜の並木道が続いていた。団地にはさまれた狭い小道は日が当たらず昼でも薄ら暗い。その両脇には純白から濃紅まで、まさにニュアンスという濃淡で咲き誇る八重桜が並んでいた。

 帰り道、アサクラ君はわざわざ遠回りして駅まで私の荷物を自転車のカゴに乗せて送ってくれた。駅の向こうで買い物して帰るんで、そういつも言っていたけれど、違うと知っていた。

 嵩のある濃い桜色の絨毯を踏みしめて歩いた。ソメイヨシノではこうはいかない、なんともいえない量感が靴裏をなめる。日が当たらないからこそ四月の雨でできたアスファルトの湿った翳に花が落ち、それがふきだまって立ちのぼる香りと、うえから降るような樹花の香気に陶然とした。

 桜の花にこんな匂いがあるって、オレ、知らなかったです。

 唐突によみがえる声に、なんて返事をしたか忘れていた私は、ひとりでうつむいて笑った。あるに決まってるよ。

 バカだな。

 私、あのときまだ、フリーだった。自然消滅寸前のカレシはよその大学にいたけど。

 すっかり忘れていたはずの出来事を今さら思い出すというのはあまり賢明な行為じゃないと、肝に銘じよう。

 ビル風に乱れる髪を押さえようとしてやめた。吹き抜けるものに身を委ねるわけにはいかないけれど、背中を押してくれるのは気持ちがいい。

 私は鞄を肩に背負いなおすようにして、長距離バスを待つ乗客の横をすりぬけた。このひとたちはいったい、何処に出かけるのか、それとも帰るのかと考えながら。

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