3月23日 正午 70

 こちらが絶句させられると思ってもいなくて、無遠慮に彼を凝視してしまった。空調の音だけがやけに耳についた。このロマンチストめ、と心中で堂々と蹴りを入れたはずなのに、髪を揺すって気持ちをたてなおそうとして、できなかった。そこへ、呟きがおちた。

「ほんと頭くる」

 自分で恥ずかしいこと言ったんじゃない。私のせいにしないでよ。

 そういうこちらの気持ちを察したのか、彼が苦笑して頭をおこした。

「や、まあいいけど、オレも悪いし。聞きたいのはあれでしょ? どうやって付き合い始めてるのか知りたいんでしょ?」

 なんだか気持ちが目まぐるしく変化してついていけなくて、それで頷くことにした。

「むこうがサイン出してきてやれそうだったら言って欲しそうなこと言うだけ」

 目が点ってこういう状態をいうわけ?

 私が理解していないと思ったのか、たたみかけた。

「だからオレ、こうして欲しいんでしょって確認しながら何もかも全部自分が思ってたことだよねって言うだけ。別れる時もそう。オレがほんとは飽きてめんどくさくなっててもオレと別れたかったんだよねって先に言うの。女の人って賢いしプライド高いから捨てられるよりは自分がそう思ってたって納得するとあっさり引くよ」

「そんな、だって、別れたくないって泣かれたりすることもあるでしょ?」

「自分から別れたいなんて言わないよ。オレがそれで得すること一つもないし」

 つまりはなんだ、相手が言い出すまで待ったり誘導するってこと? うわ、ほんとずるいし嫌な男だ。

「でも、じゃあ、結婚したいとか言われたらどうしてたの?」

「オレ、それだけは最初のうちに言っとくし理由いろいろ聞かれてもうざいし、そこでダメならオレはやめればいいだけだから。病気も怖いから絶対ゴムつけるし。それに、女の人の安全日ってオレ、信じないの」

 聞けば聞くほどなんって、最低な! 

「いま、サイテーって思ったでしょ?」

 にやにやして問われていた。うなずくかわりにゆっくりと首をかしげる。よくよく考えれば最低じゃないのか? わからないな。男女のことはいつも想像力が及ばないし判断力が鈍る気がする。

「それに、オレに結婚してってはっきり言うような女って一人しかいなかったよ」

 私が眉をひそめると、肩をひょいと揺らした。

「バツイチだったせいかわりと何でもオープンで、だからオレも、したくないって突っぱねた」

「どうして」

 質問にも、彼はまた肩をすくめただけだ。今度はいくらか自嘲気味に見えた。

 浅倉くんが結婚しなかった理由が自分にあるなどと自惚れてはいなかった。かといってそれ以上問いただすこともできなくて、なんだか胸のあたりがむかむかすると思いながら唇をひきむすぶ。

「怒ってる?」

 浅倉くんが首を傾けていた。

「べつに」

 と、言いかけて自分のその口調がまちがいなく腹立ちまぎれであると気づく。

「でもセンパイも、方向は違うけど似たようなことしてるよね」

 そこへ持っていくか。

 してないよ、と言えなかった。むかつきの理由は、自分が彼と大して変わらないと悟ったせいだ。そういうことに無自覚ではいられないくらいには男と付き合った。年頃の娘なら、好きだ、付き合ってほしい、と身近の異性に言わせるくらいのことは出来て当然だと思っていた。一生好きだとか結婚してだの言い出すような高度なレベルはまた別だ。

 そんなだから、ひとを最低といえるほど自分が相手を大事に想っていたかどうか、あやしい。私はポーカーフェイスが不得手だけど、浅倉くんはそれが得意なうえにひとの顔色を読むのも巧みだ。上手に騙せるならそれ以上のことはない。

「ねえ、なんでオレが怖いの。オレ、なんかした?」

「昨日したじゃない!」

 いきなり直截な質問にはそのまんま返すと、なんでもないような顔で。

「あれくらい、学生の頃からしようと思えばいくらでもできたよ」

 私だってそうは思ってる。でも。

「センパイ堅くて真面目だし、来須がやたらガード張って守ってたから、まあそのせいで他の男がうるさく寄って来なくてよかったけど、オレも臆病で嫌われたくなくて、っていうかバカだったから女なんてたくさんいるって思ってて、自分のプライドばっか大事で、酒井さんとやりあって、あんたに土下座でもなんでもして手に入れればよかったって気がついたのはもうほんとに何年もたってからで、こないだ来須にごめんって謝られたし」

 なんだか意味のつながってるのかつながってないのかわからない言葉が、浅倉くんの口から流れ出ていた。

 男、か。

 四年生になってからも、来須ちゃんには助けてもらった。酒井くんのゼミ友達に誘われて困ったときも、フォローしてくれた。早く言えよ、と彼は怒ったけれど、おれ、実は酒井のこと嫌いなんだよね、と口にして私に言い寄る男のことを、少なくとも上辺は仲良く遊び歩いているらしいカレシに言うのは気が引けた。

 きっかけは、四月にできたばかりのダイニングバーで鉢合わせて個室に押し込まれたときだ。私はほとんどすっぴんでポニーテール、バブルが弾けて以来いささか下火になったもののまだまだミニスカボディコン姿が見受けられた時代に逆らい、襟ぐりと裾に白のストライプの入った紺のプリンセスラインのワンピースを着ていた。そのせいか、そのころCMで話題だった清純派女優に似ているとお追従を言われた。でも、清純派というのは別のことばでは垢抜けなくて野暮ったいという意味で、嬉しくもなんともなかった。

 それに、持ち上げられようと腐されようと、酔っ払った若い男の集団に単独で入り込むのは気分のいいことじゃない。しかも敵はお金持ちのお坊ちゃんで、楽なくせにコネのあるゼミに入って遊び暮らしているタイプ。かといってほんとの馬鹿でもないから捌きづらい。その話題が出た時点で侮られていることに嫌気がさして、やな場所に来ちゃったよ、と心中で嘆息した。

 誰と誰が付き合った、どの講義が単位を取りやすい、バイト先の不満、内輪受けのくだらない話題だけが行き交う宴半ばで酒井くんが席を立つと、三人のうちいちばん押し出しのいい男が、深町さんて処女なの、と聞いてきた。おまえヒンシュクと声があがるなか、私はグラスを片手に黙っていた。セクハラという言葉くらい知っていたけれど、今さら何を言っても無駄だ。一緒に飲もうと誘われたときにゼミ長であるカレシの顔を立てようなどと思った私が間違っていた。相手の期待通りに反応するのもかったるくて、日に焼けた男の顔をただ見返した。

 酒井くんが戻ってくるなりその男が、いつからつきあってるんだよ、もうヤっちゃった? と笑い、私ではなく彼を見たので失敗したと悟った。弱いほうに、しかも彼がダメージを受けるほうに攻撃をしかけるのは戦術として正しい。だが、いけ好かないやり方だ。晃は一瞬表情をこわばらせたものの、こいつほんと酔っ払いすぎ、と相手を軽くいなしてから、時間だろ、駅まで送る、と私の肩に手をおいた。門限には早かったし、そんなふうに私を帰すのは下策だ。そう思いながらも仕方なく席を立った。なんだか嫌な予感がした。こういうのはアタルのだ。


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