3月23日深更 57

「うん。だって、頭よくなりたいんだもん。そのほうが人生楽しそうだもの。パノフスキーの本を初めて読んだとき、すごく感激したのね。うわ、アッタマいいって、自分の見てるものをこんな風に説明して理解できるってことは世の中がすごくよく見えたり味わったりできるんだろうなあって」

 アーヴィン・パノフスキーか、そりゃあすごいよね。美術史のヴァールブルク学派の泰斗の名前をつぶやいてから、

「ただ、賢明で物事がよく見えることは必ずしも幸福になるための必須条件じゃない」

 私は自分がさほど緊張していないことをいぶかしみながら頷いて、

「たしかにそうね。けど、せっかく生まれてきたのに自分がいろいろ見過ごしてると思うとたまらない気持ちになる」

 それはわかる、と彼は頤に手をあてて同意してくれた。

 これ以上、この話題は続けたくないなと思った瞬間、ミズキさんが声の調子をかえて口にした。

「さっきから思ってたんだけど、君、お化粧落としても変わらないね」

「それ、私の化粧が下手だって言いたいの?」

 思わず凄むと、かるく笑って首をふる。ほら、これのどこが卑屈じゃないのだと不満に思っていると、

「唇が、素顔のほうが紅い」

 だから、淡い色を乗せるにはファンデーションで色を消す。お化粧品を買うときにメークし直してもらい、唇赤いですねえ、と綺麗なお姉さんに感嘆されると、照れるけれど嬉しい。どうして女のひとに褒められるとあんないい気分になるんだろう。

 そんなことを思っていると、ミズキさんの身体がすぐそばにあった。今、のしかかられたらもう絶対、抵抗しないと自分でもわかった。できないじゃなくてシナイだ。自分の防御が下がりまくっている。身体の、いや、頭のなにかが外れている感じだ。

 だいたいほんとに私はなんでミズキさんに対してこんなに無防備なんだろう。

「ミズキさん、私、おかしい……」

「だいじょうぶ。僕もおかしいから」

 それは、なんだか……。

 彼は畳のうえに寝そべって肘をついて私を見おろした。

「キスしていい?」

 私が吹き出すと、彼は気分を害したのか端正な顔をあからさまにしかめてみせた。

「姫香ちゃん」

「ごめんなさい。ミズキさんを笑ったわけじゃなくて、その手の言葉って虚構のものじゃないんだなあっていっつも考えちゃうんだよね」

 彼は首をかたむけた。

「はぐらかしてるわけじゃなくて。マンガとか小説とかで見ることばを、ほんとにみんな、恥ずかしげもなくよく使うなあって。そう思うとすごくおかしいんだよね。なんか、小説とかドラマをみごとに消費してる気分になるっていうのかな。学習機能付きのヴァーチャル体験セットみたいで」

「……モデルが先にあるってこと?」

「そうね」

 こたえながら瞼の重みを感じた。ああ、どうしよう。眠い。急激に眠気が襲ってきた。

「眠い?」

 すぐそばで声がした。目を、閉じていたらしい。こんな間近で見てもミズキさんはとても綺麗だ。眉とか整えてるのかしら? でも、つくってある風のわざとらしさが微塵もないんだよな。訊いてみたいけど、ちょっとそれは恥ずかしい。あ。

「ご、ごめんなさい。私がここで寝ちゃダメだよね」

 身体を起こそうとすると、やんわりと肩に手をおかれた。

「ここで寝てなよ。僕、そっちの部屋のソファで寝るから。毛布だけ借りるね」

 私が布団のうえに座りなおしたときにはもう、彼はすっかり住み慣れた家のように押入れをあけて毛布を抱えていた。

「ミズキさん?」

「自室に戻るのはナシだよ」

「え、でも」

「そういうことされるとかえって気になる。僕を煽りたくないでしょ?」

「……それ、脅迫ってやつじゃないの?」

「僕はおねだりしてるつもりだけど、そうともいうね」

 レッドカーペット上のハリウッド女優のような挑発的な微笑にことばを失くすと、

「姫香ちゃんは僕に安眠して欲しかったんじゃないの?」

 小首をかしげて問うてくるから始末におえない。これはだめだ、かなわない。きっちりとこちらの許容範囲を計られている。どう返答しても、彼のおねだりとやらを覆せる気がしない。なんでか私の周りの美男美女はこのタイプが多いなあ。響子がそういうひとだった。こちらに負担だと思わせない程度に甘えてくる。私はマゾヒストだっただろうか。まあ、いいや。イヤじゃないから。

 あきらめて肩を落としたところで、彼がぽつりと言った。

「そういえば、さっきの話のロリコン男、実は浅倉に似てるっていう落ちはないよね?」

 ウソ、や、だ……。顔は覚えてない。でも。

「黒い服、着てた」

「ほんとに?」

 ミズキさんが、目を丸くして立ち尽くしていた。

 なんだかそう、妙に敏捷で。そうだ、年取った男じゃなくてすごく若かった。あれって、痴漢みたいなのは中年のオジサンだっていう風になんとなく思ってた自分の偏見と浅はかさを思うとバカらしい。それにしても。

「ほんとに似てるの?」

「……顔は、覚えてないけど、黒い服きた細身の、若い男だったのは思い出した」

 ミズキさんがひどく間の悪い、困りきった顔をしていた。

「ごめん」

「ううん。っていうか、べつに、ええと、まあ、たしかに何にもされたわけじゃなかったし、うん」

「そうだけど」

 今のごめんはもしや、浅倉くんに対してのものか?

 眠気も醒めてしまったよ。

 髪をかきあげながら、深く息を吐き出した。すると、ミズキさんが毛布をおいてすぐ横にしゃがみこんだ。

「ごめんね。嫌なこと思い出させて」

 私はミズキさんの顔を見つめた。彼の気持ちを慮れば気にしてないなり何なり否定のことばをくりかえすべきだろうけど、したくない。だいたいそんなのウソっぽい。かといって、今のは酷いよと責めるのも気が引けた。でも彼はいま、許されたがっている。

「……朝ご飯はミズキさんのお当番だからね?」

「リクエストは」

 安堵したのか、ふわりと微笑まれた。さっきみたいなつくり笑顔じゃないほうがやっぱり可愛い。このひとには、いつもこういう顔をしていて欲しい。

「なめこのお味噌汁。あとは玉子焼き。うちはミルクとお砂糖だけど、違うでしょ?」

「いや、僕も自分で作るとそのタイプ。出汁巻きにならないんだよね」

 それはちょっと残念かも。ひとさまに作ってもらうなら違う味が食べたいと思う。その気持ちが顔に出たのか、

「卵料理ならチーズがあれば」

「チーズオムレツならミニトマトいれてくれる? もしよければ、ベランダにちっちゃいバジルあるから使って」

 了解。そうこたえたひとを仰いでオヤスミを口にしようとすると、なんだかとても神妙な表情で問われた。

「掛け布団かけてもいい?」

 いい、というのが了承をとることばだと私は知っている。でも。

「かけたいの?」

「うん。僕ちょっとオママゴトしたいみたい」

 笑えなかった。足の向こうに畳まれている布団に視線をむけるときゅうにそれが重みのある物体として意識された。これは新手のなんとかプレイとかいうものではなかろうかと危ぶみながら、不承不承、うなずいた。

 仰向けでなく、彼のほうに顔を向けて横になると、なんだか途轍もなく恥ずかしいことをしている気分になった。こんなことならさっきキスしておいたほうがよかった。それは欲求不満かと自分につっこみ、持ちあげられた毛布がたてる音や空気の揺れに身をすくませそうになるのをこらえた。

 ミズキさんは無言で、まるで重病人でも扱うような慎重な手つきで毛布と羽毛布団をかぶせてくれた。そのぎこちなさに思わず目を閉じた。母親はもっと適当に、ぱぱっと、それでいてふんわりとお布団をかけていてくれた気がする。

 続いてぽんぽんと肩のうえを優しく撫でるようにたたかれて、おやすみなさいと声が聞こえた。向こうの部屋にあるスタンドの明かりの落とし方を説明しなきゃと思いながら瞼をあげ、どこもかしこも暗くなっていて、だいじょうぶと思ったとたんその闇にくるんと包まれた。魔法のようだった。

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