コンノさんと冬コミ

一、開場

 開会を告げるアナウンスに応え、まるで潮騒のように会場から湧き上がる拍手の嵐。

 遥か彼方で人の波が動き出すのを背伸びして眺めていると、右隣から「あれ? 開かないなあ。えい、この」などという緊張感のない声が響いてくる。

「椅子、壊れてました? コンノさん」

「いや――」

 耳障りな音を立てながらも、どうにかこうにかパイプ椅子を開くことに成功したその人物は、「大丈夫」と笑ってみせた。



 大晦日。こんな年の瀬に、なぜコンノさんと二人で東京ビッグサイトにいるのか。

 そもそものきっかけは数日前――年内最後の部会での一幕だった。

「悪い! 実家の父親がぎっくり腰になったらしくて、雪かきしに帰って来いって言われちゃってさ」

「ごめん、実家から連絡があってね、親戚が危篤状態らしくて、急遽帰らないといけなくなっちゃったのよ」

 冬コミの売り子に決定していた三人のうち二人がそんなことを言い出して、一番焦ったのは誰であろう、もう一人の売り子にしてコミケはまだ未体験の私――吉川千尋だ。

 漫研三大行事である「コミケ」といえば、毎年夏と冬に開催される国内最大級の同人誌即売会。我が漫研も毎回サークル参加して部誌を頒布しており、今年の夏コミにも勿論参加している。

 本来なら八月の夏コミでコミケデビューだった私は、直前に風邪を引いて急遽他の部員に変わってもらった経緯があり、またどうしてもコミケに行きたい「諸事情」があったので、今回こそは! と意気込んで立候補したのだけど、まさかあとの二人が行けなくなるなんて思いもよらなかった。

「まあ、そういう事情じゃ仕方ないですね。誰かほかに行ける人は――」

 秋に世代交代したばかりの新部長が、集まった部員をぐるりと見渡すが、そもそもこの年内最後の部会に顔を出している面子自体が少ないこともあって、手を挙げる部員はいなかった。

「冬コミはなあ、元々参加できる人間が少ないもんな」

 肩をすくめるのは前部長の神原さん。前回の部会で売り子三名を決めた時にも話してくれたが、そもそも年末年始は実家に帰省する部員が多く、毎年希望者が少ないのだという。

 そもそも、今日の部会に出てきている部員が少ないのも、早々に帰省している人間がいるからだ。

「すいません、もうバイトのシフトがっちり入れちゃって、今から変更はちょっと……」

「新幹線予約しちゃったから、ちょっと無理だなあ」

「大晦日じゃなければなあ。うち、親がそういうのに理解がないから、色々言われそうで……」

 様々な理由で、参加したくともできない部員は多い。

「でもなあ、吉川さん、コミケ初めてだろ? 初心者一人を突っ込めるようなイベントじゃないしなあ」

 困り顔で頬を掻く部長自身も、実家が飲食店をやっていて、年末年始は家の手伝いで忙しいという。

 緊迫した空気が漂う中、ひょいと手を挙げたのは、実に思いがけない人だった。

「途中まででいいなら、俺が行く」

 低いがよく通る声は、普段は部会どころか部室にも顔を出さないことが多い三年生の今野さん。生活費を稼ぐため、授業以外の時間はほぼアルバイトに勤しんでいる彼は、大晦日もみっちりとバイトのシフトを入れていて、真っ先に「参加は無理」と宣言した一人だ。

「あれ? 今野さん、その日はバイトがあるんじゃ?」

「昼からだからな、準備から開場までならいられる。一人で行かせるよりはマシだろ」

 その言葉に目を輝かせたのは、私ばかりではなかった。

「助かる! 正直、ヨッシー一人だと不安しかない」

「ですよね。吉川さん一人だとビッグサイトにも辿り着けない可能性が」

「ひっどい! そこまで方向音痴じゃありませんよ、私!」

 思わず反論しつつ、今野さんに感謝の言葉を紡ごうとした瞬間、今野さんの口から思いもよらない言葉が飛び出てきた。

「ただ、頑張っても十一時までが限界だ。なんで、助っ人を頼んでもいいか?」

「助っ人?」

 私と新部長の声が見事に重なる。

「俺の知り合いで、こっち系の趣味で、しかも大晦日が空いてるヤツがいる。吉川とも顔見知りだから問題ないだろう」

 ぎょっと目を剥く私に、傍若無人なセンパイは何気ない仕草でひょい、と窓の上を指差してみせた。

 グラウンドを臨む窓の上には、かわいいキャラクターの掛け時計。その横には、いつから飾られているのかも不明な白い狐のお面。吊り上がった瞳が、どこか楽しそうに見えるのは気のせいか。

「ほんとですか? それなら安心だけど……。ただ、部外者にチケット渡してもいいですかね、神原さん」

「他に誰も出られないんじゃ仕方ないだろうな。まさかOBに売り子をお願いするわけにもいかないし、今回は特例ってことで」

 ぐっと親指を突き出して見せる神原さんに、安堵の息を吐いた新部長は、助かった~、と今野さんを拝んでみせた。

「ありがとうございます! 忙しいのにすいません、先輩」

「なに、いつも全然顔を出せてないから、こういう時くらいは役に立たないとな。じゃあ、そいつには話つけとくから」

 つけておくも何も、その「知り合い」は今もここで私達の話をバッチリ聞いており――そしてきっと、こう言うことだろう。

『行くいく! わあ、楽しみだなあ、コミケ!』

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