あいをたべる。
朝倉千冬
女王アーデルハイトの呪い
彼女の長い髪を
癖も強ければ量も多い赤髪は、香油をたっぷりと付けた上で何遍も
国中を探し回っても同じ赤い髪をした者が他にいないのは、彼女がよそから来た人間であるからだ。
女王アーデルハイト。
椅子に腰掛け、ユージンのその作業が終わるのをただ待つだけの女王は、十七の娘であった。
ようやっと落ち着いた赤髪を次は丁寧に編み込んでゆく。手慣れているのはユージンが幼い時分に三人の姉たちに髪いじりをされていたからだ。
六人兄弟の末の子であるユージンは、他の兄弟とは誰とも似ず、うつくしい顔をして生まれた。
兄たちはユージンに構うことをしなかったが、歳の離れた姉たちは弟をことさら可愛がり、ある時など唇に紅をさしたりしたものだった。それを母に見つかりこっぴどく叱られたにもかかわらず、姉たちの可愛がりはユージンが姉たちの背丈を越すまでつづいた。あれは、
それをどうして今になって思い出したのか。
しばらく手が止まっていたのだろう。普段は、膝の上に拳を乗せたまま身動ぎすらしないアーデルハイトがひとつ咳払いをした。
女王はこと多忙な身であり、少しでも予定の時間が狂えば後へと影響しかねない。ただし、ユージンの主は注意を促しはするものの、表立っての叱責はしなかった。
ユージンは編み上げた女王の頭に冠を乗せる。アーデルハイトの頭に合っていない冠は、少しでも頭を傾けると落下しかねないため、ヘアピンで固定してゆく。手早くそれを済ませれば、今度は正面へと回り、ユージンは腰を屈めた。
しっかりと保湿をしてから頬に白粉をはたき、唇には薄いオレンジの色を乗せる。ペリドットを連想させる女王の双眸はたしかにユージンを映してはいたが、されどその動きを追うわけでもなく、ユージンは目が合わぬようにと気をつける。それがさぞ滑稽に見えるのかもしれない。表情のないはずのアーデルハイトの口元に、ユージンは笑みを見た気がした。
両の耳朶には瞳と同じ色をした宝玉を、痩せた胸元を隠すようにダイヤモンドの首飾りを付ければおわりだ。
女王は立ち上がり、言葉を発しないまま、部屋を後にした。その細い背に向けてユージンはいつもの声を落とす。
「いってらっしゃいませ」
主人のいなくなった部屋には再び沈黙が訪れたが、ユージンの仕事がこれですべて終わったわけではなかった。
まず、窓を開けて新鮮な空気へと入れ換える。夏が終わってようやく秋の過ごしやすい季節となり、気持ちの良い風が入ってくるというのに、アーデルハイトは風を嫌うために不在の時でなければこうした換気は行えない。床を掃き、窓や家具、装飾品に至るまですべてを塵一つ残さぬくらいに磨き上げ、その度に水汲み場へと何往復をする。清潔なシーツへと取り替えて、庭師から今朝咲いたばかりの花を受け取り花瓶へと移せば部屋は一段と明るくはなったもの、時刻は昼をとうに過ぎていた。
一息つく間もなく、ユージンは次に調理場へと向かう。女王が席に着くより前に取れたて野菜のサラダと焼きたてパンを、それから空豆のスープを並べておくのがいつもの日常だ。
食が細い上に食べるのが遅いアーデルハイトはゆっくりゆっくりと食事を進め、そのタイミング見計らってメインディッシュを出さなければならない。港で今朝上がったばかりの白身魚のソテーは調理長の自慢の一品だが、女王は三口ほどで食べるのを止めてしまう。それでも今日はよく食べた方だ。いつもはパンのお代わりすらしないアーデルハイトが、胡桃パンとブリオッシュを追加したのだから、朝の会議がよほど疲れたのだろうと、ユージンは女王の心中を察した。
女王が食後のお茶を飲む間もユージンは傍らにいたが、やはり表情の詮索はしても目が合わぬようにと気を付けていた。それが、茶器を下げる時に視線がかち合ってしまう。しかし、今度はアーデルハイトに笑みはなかった。
調理場の隅でユージンはアンチョビペーストを塗ったバケットをかじる。それが二切れと、果物がひとつ、最後に冷ました野菜スープで流し込むのがユージンの昼食だ。
ユージンの長身に似合わぬ
午後からの女王の予定はいっぱいだ。
女王への
長い時間結わえていただけにアーデルハイトの赤髪は癖が付き、それをまた丁寧に櫛ずってゆく。冠を乗せ、手早く化粧直しをするのは朝と同じ作業で、そうしてユージンは主を送り出した。
ここでやっと少しの休める時間ができるのだが、ユージンはまた水汲み場へと向かう。今日の来賓客は二名。そのうちの一人はお喋り好きな老侯爵、戻ってくるまでに二時間はかかるだろうと、ユージンは計算をする。もとより、几帳面で潔癖な性格ではないというのに、これはもう習慣に基づいたものなのだろう。怠惰をする気にはなれないのだ。
こうしたユージンの姿は赤毛の女王以上に宮廷で目立っていた。
とうに成人をした男がまるで下女のようだと、いやいやあれの中身は本当は娘でないのかなどと、噂話の格好の的である。今となっては腹が立つこともない。何しろ、アーデルハイト付きの侍女は一人もいないのだから、ユージンだけが女王の身の回りの世話をする他はなかった。
王族に侍女が一人も付かないというのは異常なことであり、しかし侍女だけではなく宮廷の者たちはとにかく女王に関わるのを拒んでいる。それは、アーデルハイトにまつわるある呪いを恐れているがためであった。
時計の針が三時を少し過ぎた頃、幼い足音がまず響いてくる。
女王の自室であるというのに、ノックの音もなければ了承も得ずに入室をしてきたのは一人の少女だった。
「まあ! 今日もおいしそう!」
女王に挨拶するよりも先に、少女はテーブルに並べられた午後のデザートに夢中だ。侍女頭がこの場にいれば、はしたないとすぐに叱責が飛ぶところ、けれどこの場にはこの無垢な笑みを見せる少女にそれを促す者はいなかった。
「チェリーパイもすきだけれど、それは昨日たべたわ。バナナのタルトもおいしそう。でも、今日はフォンダンショコラのきぶんよ。ねえ、アリーチェはどれがすき?」
叶うことならばケーキを独り占めしたいのだろう。ただし、一日にひとつだけと決められているものだから仕方がなく、少女はアーデルハイトの顔をのぞき込む。
「陛下、と。わたくしのことはそう呼びなさい」
しかし、返ってきたのは冷たい言葉だけだった。少女はやや眉尻を下げながらも食いさがる。
「でも、アリーチェはアリーチェだわ」
「マルグリット」
二度はないと、女王はまだ幼い少女に忠告をする。
「はい……。陛下」
うなだれた少女、マルグリットにユージンは少女のために冷ましたお茶を注ぐ。ミルクと砂糖をたっぷりと入れてやり、少女がこれ以上落ち込まないようにと声をつづける。
「殿下。調理長の本日のおすすめはフォンダンショコラでございますよ。まだ中が熱いので、フォークで割ってごらんなさい。中からとろりとチョコレートが出てきますよ」
「まあ、すてき! じゃあ、あたしはこれにするわ。……陛下は?」
今度はおそるおそるマルグリットはアーデルハイトに問いかける。子どもに機嫌取りをさせているようで、さすがに居心地が悪くなったらしく、アーデルハイトは溜息交じりに応えた。
「では、わたくしはこちらを頂きましょう」
「はい。陛下」
ユージンはチェリーパイを皿に乗せる。アーデルハイトはバナナをあまり好まなかったので、選択肢はもう残っていなかったのだ。それは一見、幼い少女への思いやりにも見えるが、そうではない。食に興味がないアーデルハイトにしてみれば、マルグリットが何をどう選ぼうが、自身に何を出されようとも構わないのだ。いや、あるとすれば同情だろう。ユージンは横目でマルグリットを見る。
マルグリットは前王の遺児だ。まだ六つの少女には父もなければ母もいない上に近親者が他にはいないため、血の繋がらないアーデルハイトだけがマルグリットの家族だった。
マルグリットの母親は生まれてきた娘を胸に抱くことないままに亡くなったので、マルグリットには母親の記憶がひとつもない。父親のフリードリヒにしても長い人生の中でたった五年だけだ。このかわいそうな王女を周囲はことさら可愛がるが、ユージンから見れば憐れなのは、一年も経たぬうちに夫に先立たれたアーデルハイトの方だ。
マルグリットの父でありアーデルハイトの夫であったフリードリヒは若く力のある王だった。しかし、才覚のある賢王であっても病には勝てなかったのだ。はじめは奇妙な痣が胸に現れ、そうして三日後には全身が紫の色へと変わる。悪寒と激しい下痢と嘔吐を繰り返し、五日目には帰らぬ人となるこの奇病に対しての特効薬となるものがない。ゆえに、人はこれを魔術や呪いの類であると恐れ、それは他国から嫁いできたアーデルハイトがもたらした災いであると言う。
根拠のない話であっても、瞬く間に噂は広がっていったのにはわけがある。
アーデルハイトが王位を受け継いだのはフリードリヒの遺言であったために、されど宰相をはじめとする側近たちは声を大にして反対したのは言うまでもなかった。ところが、アーデルハイトに糾弾した者は次々と命を落としてゆく。ある者は階段から足を踏み外し、ある者は馬車に轢かれ、またある者は酔って口論となった挙句に刺し殺されたという。その他にも謎の死を遂げた者が五人つづけば、もう女王に楯つく愚か者はいなかった。
女王の敵となる者はいなくなったのはいいが、同時に味方となる者もいなくなった。それまでアーデルハイトの世話をしていた侍女たちがみな逃げ出してしまったのである。男であり、上流貴族の出であるにもかかわらず、ユージンが女王の身の回りの世話をする理由がそれだ。
マルグリットを見ていたつもりが、いつの間にかアーデルハイトを見つめていたのだろう。女王のペリドットの眸が一段と冷えていた。
アーデルハイトは憐情を嫌う。前の国ではアリーチェと呼ばれて国民から慕われていた娘が、こちらの国へ来て女王アーデルハイトとなり、そして畏怖の対象となったとしても。
ユージンはチョコレートで汚れたマルグリットの口元を拭いてやる。マルグリットは少しばかりくすぐったそうにして、それからもおしゃべりはつづいた。アーデルハイトは相槌を打つことも笑みを見せることもせず、代わりにユージンが一言二言を落とす。喋り疲れたマルグリットはやがてユージンにおはなしを聞かせるようにとせがみ、その途中で眠ってしまうのがいつもの流れだ。
この日も同じ、ユージンは小さな身体を抱き上げてそのまま起こさないようにと女王の部屋を後にする。
扉を閉める前に一度だけ振り返りアーデルハイトを見たが、うつむき加減のその表情からは何も読み取れなかった。大人はアーデルハイトの呪いを恐れて彼女に近づかない。好奇心と寂しさを同時に持った幼い少女を、女王はどう見ているのだろうか。
ユージンがその部屋を訪れた時、それはもうひどい有様だった。
そこここに投げ散らされた絵本に、脱いでそのままの衣服たちは皺くちゃに、お気に入りのぬいぐるみさえもそこらに転がっている始末である。
マルグリットが癇癪を起こすのはそうめずらしくはなく、されどここ最近大人しかったのは女王アーデルハイトが幼い王女の話し相手となっているからだった。それが、なぜ急にここまで暴れることとなったのか。
侍女頭に泣きつかれたユージンは試しに扉をたたいてみたものの、やはり返事は返らず、それは肯定の意味合いだと受け取ってその一歩を踏み入れた。まだ幼くとも淑女は淑女である。遠慮がちに入ったユージンだったが、返ってきたのは幼い嗚咽だけだった。
声は寝台の隅っこから聞こえてくるもので、ユージンは一声掛けてからそこへと近づく。返事はやはりなかった。
「殿下。そのようになされては、皆が心配していますよ」
朝からずっと泣き通しだったのかもしれない。マルグリットの目が赤く腫れている。ユージンはハンカチーフで拭ってやるが、それでも次から次へと涙は溢れるばかりだ。父親譲りの蜂蜜色の髪に、いつも結わえている赤いリボンもすっかり解けてしまっている。
「だって、アリーチェはうそつきだもの」
すん、と。まだ鼻声のままにマルグリットは言う。
「陛下がうそつき?」
ユージンはやや眉尻を下げながらも、声はそのままにした。
アーデルハイトとマルグリットの間でそのようなやり取りがあっただろうか。ユージンは記憶を総動員させてはみたものの、どうにも思い出せなかった。それとも、ユージンがいない間に、女同士で秘密の会話でも交わしたのか。
「アリーチェはパパのものなのよ。それなのに……」
頼りない声音のままにマルグリットはひとつひとつをユージンに聞かせてくれる。ユージンは聞き落とさないよう、耳をもう少し
「アリーチェは、おひげのこうしゃくさまのものになるんだって。さいこん、するんでしょう?」
ユージンは激しく瞬いた。そのような一件は寝耳に水だったからだ。
「殿下。そのような話は誰が、」
「みんなよ。みんな、言ってるわ。あたしはそんなのいや。アリーチェはずっとパパのおよめさんなのだから」
ユージンは腕の中で泣くマルグリットをあやしながらも、胸中ではため息を落としていた。マルグリットは幼くとも賢い子どもだ。侍女たちの立ち話も家臣たちの密談も、ちゃんと耳に届いているし理解しているのだろう。
だが、いつの間にかそんな話が出ていたのか。たしかに貴人の伺候はこのところつづいていたが、相手は初老の侯爵だ。アーデルハイトとは父と娘、いや孫ほどの年の差がある。それとも、政治的な動きがあればそのようなことはさして問題がないのか。
ユージンはことさらやさしい笑みをする。見上げてくるマルグリットの眸が不安そうにしていた。
「だいじょうぶですよ、殿下」
嘘ごとのように聞こえない声色だったのは、ユージンがまだそれを信じていなかったからで、ユージンはもう一度涙に濡れたマルグリットの目元を拭ってやった。
「さあ、夜になる前に片付けてしまいましょう」
気休めの言葉などマルグリットは求めてはいない。だからユージンは今すべきことだけを言う。
「……てつだってくれる?」
「もちろんです。殿下」
マルグリットの部屋から出たユージンを一番に迎えたのが侍女頭だった。
長年、王家に仕えている最年長の侍女はそれなりの貫録があるもの、しかし幼い王女の扱いには難儀しているようだ。いつ見ても疲れた顔をしている。
「殿下は眠ってしまいました。夜までお目覚めにならないかと、」
「ええ。それで充分です」
声にはいたわりの色はなかった。マルグリットが自分の手に負えなくなるとすぐにユージンを頼るくせに、この侍女頭はいつだってそうだ。
礼の一つも口にしないのは、矜持が邪魔をするからか、それにしては要件が終わっても侍女頭はユージンを離そうとはしない。他に吐き出せる場所がないからか、小一時間ほど愚痴に付き合わされるのには、正直なところユージンはうんざりしていた。
だが、そればかりではないと、ユージンが気がついたのはこの日の話題が女王陛下に関することだったからだ。あまりにユージンが退屈そうな目をするものだから、侍女頭はわざとこれを選んだのだ。
「あの噂は、本当のようですよ」
ユージンは素知らぬふりをするほどに人間ができてなかった。眉間に作られた皺は不快の証だと、知っていながらも侍女頭は薄く笑う。
ユージンは内心でため息を吐いた。年嵩のいった侍女頭であっても見目麗しい男の前では乙女のようにありたいのか。蔑視するわけではなくとも、あまり気持ちの良いものではない。それも、その話題の先にある人のことを持ち出されては。
「事実はどうであれ、陛下が決められることです。私には申し立てるような権限はございません」
ユージンはことさら良い笑みをして、会話をそこで終わらせた。
午後の時間はマルグリットに掛かりきりな上に、その次には侍女頭に捕まってしまったせいで、夕食の時間も湯の時間も遅れてしまった。謝罪はするものの、ユージンは仔細をアーデルハイトには打ち明けなかった。皆まで言わずとも女王はすべてを知っているはずだ。けれども、その些細なユージンの変化をアーデルハイトは見逃さない。
「お前は、隠し事が下手ね。ユージン」
動揺が指先にまで現れないようにと気をつけてはいても、表情までは隠しきれなかったようだ。ユージンを見据える女王のペリドットの双眸は冷え冷えとしていた。
ユージンはアーデルハイトを真正面から見る。乾ききった唇からは何の音も出てきそうにはなかったが、応えるまで女王は逃してくれそうもなかった。
「再婚のお話を、伺いました
言葉を選んだつもりが、どうにもそのまま出てきてしまった。アーデルハイトの目が少しばかり大きくなる。笑って、いるようにユージンには見えた。
「お前はどう思うの?」
心にもないことを言う。これまで、一度でもユージンに意見を求めたことの女王が、私的な意見を求めるというのならば、たとえその権限がなくとも、応えなければならない。
「……今は、受けるべきでないかと」
「なぜ?」
アーデルハイトの問いは、何の他意も含まないままに落とされた。どう言葉を作り変えるべきか。ユージンは口の中で探すものの、女王はそこまでの時間を与えてはくれないようで、目顔で圧を掛けてくる。
「フリードリヒ様が亡くなられて一年と余り、さすがに早過ぎます。民は歓迎しないと思われますし、何より陛下のお気持ちの整理が、」
「わたくしの心はあの日から変わることはないわ」
ありきたりな声をしたところで女王はもうユージンを見もせず、その横を通り過ぎてドレスを脱ぎ捨てれば、湯船の中へと姿を消した。ふた呼吸ほど時を置いてから、ユージンはドレスを拾い、そうして女王のために次の準備をする。調理場へと急ぎよく冷えた果実酒を用意すれば、頃合いを見て女王の元へと戻らなければならない。
部屋中に漂うローズの香りはいつになっても慣れない。このところの疲れによる頭痛が伴って、胃の底が熱くなる。
いや、理由はそれだけではないと、ユージンは思う。
あの目は、見ているのだろう。ユージンの心の中を。
呼ぶ声にユージンは我に返った。急いで女王のところへと駆け寄り、水滴を残らず拭き取ってゆく。女王の痩せた背中に濡れた赤髪が降りる。濃い赤の、太陽を思わせる色。いつもならば魅了されることのないそれを、ユージンはただぼんやりと見てしまっていた。
「ユージン」
名を呼ばれ、それがどんなに愚かしいことかと。
「つづけなさい」
気がついたところで、もう遅い。
アーデルハイトにはすべてを見透かされているのだ。
年頃の娘だというのに肉付きに乏しい身体、この国の人間は誰もが象牙色の肌を持っていたが女王の肌はまるで違う。頬は
どこまでを、と。ユージンは時々おそろしくなる。たぶん、それはすべてだろう。
こうして、己の肌に触れる男は、その痩せっぽちの身体を見て欲情していることも。若さゆえの身体の渇きを満たすために
「お前は、この痣のことを案じているのでしょう?」
アーデルハイトは己の胸にユージンの手を導く。
「へ、陛下……」
思わず目を逸らしてしまったユージンだが、そこにはたしかに痣があった。黒い薔薇の呪い。それは、フリードリヒの胸元にあったと同じ痣だ。
「この痣を見れば、かの侯爵もさぞ驚くことでしょうね」
アーデルハイトはユージンから寝巻きを奪い取り、次に立ち尽くしたままのユージンに目でそれを促した。ユージンは慌てて香油を手に取り、女王の髪の手入れに取り掛かる。椅子に腰掛けたアーデルハイトはいつものように果実酒を楽しんでいたが、ふとその手を止めた。それは独り言のように落とされた。
「これは呪いよ、ユージン。知られてしまえば、わたくしに待つのは処刑台かしらね?」
ユージンは口内を噛む。応えるべきではないと、思った。
「フリードリヒは愚かな男だったわ。先に亡くした王妃をいつまでも忘れられずにいた。だから、わたくしのことは愛せないと」
他国の王女を迎えるのは、政略婚ではよくあることだ。そこに愛が育めなくとも誰も責められない。けれど、アーデルハイトはこうつづける。
「わたくしはフリードリヒを呪い殺したのよ。それが、あの人の望みだったから」
どこまでが真実であるのかをユージンは知らない。ただ、ユージンだけが、女王の胸にある痣の存在を知る。
国中を騒がせた前王フリードリヒの死を、あの黒い薔薇の呪いを、ユージンが目にしたのは偶然ではなかった。他にアーデルハイトの肌に触れる者はいないのだから、それは必然だろう。試されているのではなく、道連れにしようとしているのか。ユージンにはわからないままだ。
「死ねないのよ、わたくしは。それが、あの人の呪いでもあるのだから」
呪いを与えた者は、いずれ呪いを貰い受け、そうして同じ運命を辿る。誰もがおそれているのはそのためで、しかしアーデルハイトは一年が過ぎようとも変化がない。
「ふふふ。ひどい顔。お前のうつくしい顔が台無しよ」
穢れのないような少女の顔をして笑いながら、アーデルハイトはユージンへと手を伸ばす。求められれば拒む理由がない。愛のない交合は愚かで醜い行為なのだろうかと、ユージンは思う。
良く晴れた日の午後、三時のおやつの時間になってもマルグリットの癇癪は収まらず、またしても侍女頭に泣きつかれたユージンだったが、この日は幼い王女の機嫌は一向に直らなかった。
「ユージンのうそつき!」
投げつけられた枕を受け取ったはいいものの、ユージンはどういった顔をするのが正解かわからずに、とりあえず苦笑いをするしかなかった。
「ユージンも、お嫁にいってはだめなの」
正確にいえば婿入りなのだが、事細かく説明していられるような状況ではない。それに、前とは違って単なるうわさではなく、本当のことだったから余計にユージンは困ってしまっていた。
上流階級の貴族であっても末子であるユージンならば、他家に婿養子に入るのは当然で、しかしながらユージンは女王陛下に仕える身である。実家に呼び出された挙句に父親からこの話を聞いた時、ユージンは目を剥いた。アーデルハイトとの関係が父親に伝え渡ったのだと胆が冷える中で、冷静を努めつつもユージンは父親に問う。すると、これを持ち出したのは他でもない女王だというのだから、ユージンは激しく動揺した。
アーデルハイトは三日前より隣国への視察へと出かけているために、仔細を確認できないままだった。
その女王に本来ならばユージンは同行すべきであったところを人選から外されたのも、このためだったのかもしれない。根回しの良いことだ。ユージンは拳を作る。そして今、ユージンの代わりに女王の傍仕えをしている娘こそ、ユージンの妻女となる人らしい。つまり女王は品定めをしているのだ。
なんとかマルグリットをなだめて寝かせたものの、次の相手の顔を見るなりユージンはあからさまに嫌な顔をした。大方、幼い王女にいらぬ話を聞かせたのもこの侍女頭だろう。
「我が麗しの女王陛下のご命令に背くおつもりで?」
まるで、ユージンの心中を読み取ったかのような台詞を吐く侍女頭に、ユージンは怒りさえ抱かなかった。ただ、愚かであると、思う。
「私は、陛下の意のままに従うつもりですよ」
それは自分へと言い聞かせる声でもあった。
五日ぶりに宮殿に戻ったアーデルハイトだったが、いつまでたっても呼ばれる気配はなかったので、ユージンはこの日のために調理長が用意していた初物の果実酒を持って女王の部屋を訪れることにした。
ちょうど侍女が出ていくところだったようで、入れ違ったユージンを見るなりすぐに目を背けた。心なしか頬が赤く見えたのだが、その顔に覚えはないもので、だからあれが自身の妻になる娘であると、気が付くのに少し遅れた。特別美しくはなくとも気立ての良さは伝わってくる。良家で大事に育てられつつも、王族に仕えるために躾けられてきたのだろう。他の侍女たちが女王を畏怖の対象としていても、この娘からはそうしたものが見えない――と、ユージンは短い間だけでもそう評価する。
良き妻となるに違いない。
ユージンは唇に笑みを乗せ、しかし扉をたたく時にはいつもの表情へと変えた。
アーデルハイトの着替えも、化粧や髪の毛の直しにしてもすでに終わっている。やはり、あの娘はなかなかできる侍女のようだ。
女王はユージンに不在の間のことを一つ二つを訊き、ユージンは応えつつも空になったグラスへと果実酒を注いでゆく。調理長が用意した自慢の果実酒はアーデルハイトの口に合ったようで、されど今宵は要人たちを招いた夜会が開かれるので二杯で留めておいた。
この日、まだ一度も合っていない視線は、沈黙が訪れたと同時に絡んでいた。
「わたくしに何か言いたいことがあるようね、ユージン」
どちらで応えようとも機嫌を損ねかねない。ともすれば逆鱗に触れかねない中で、ユージンは瞬きの回数が増えないように気をつける。挑戦的な笑みをアーデルハイトは時々する。挑発、しているのかもしれない。それに腹は立たなかったのは、己の心がもう決まっていたからだ。
「いいえ、陛下。私はこれをお受け致します。この私の妻となる娘を陛下の傍に置いてくださるのでしたら、憂事に思うことなど何一つございません」
偽りなど、どこにもないというのにこれほどまでに嘘事のように聞こえるのは、アーデルハイトのペリドットの眸が冷えていたせいだ。気圧される前にユージンはつづける。
「しかしながら、私は陛下のお傍に仕えることを望みます。父と、義理の父にも話は通してきました。今度は、騎士として。私の命はそのまま貴女に捧げましょう」
この年から騎士を目指すことは決して容易ではなかった。ユージンの上の兄たちが努力をして騎士となったのを、ユージンはずっと見てきているし、同じ家から何人も騎士となれるわけでもない。心はそこへと縛り付けるくせに、己の身を引き離そうとするならば、ユージンはただそれを選ぶだけだ。
次の空白はそれほど長い時間でなかった。興味も関心もそこでなくなったのか、女王は目を逸らした。
「呪いよ。わたくしを、呪うといいわ。ユージン」
十八にもならぬような娘がする声ではない。艶やかでありながらもどこか気味の悪いような、不快感の残ったその物言いは。
「わたくしをあいしているのなら、憎みなさい。呪うがいいわ」
呪詛のように絡みつき、ユージンを離さない。
呪いなさいと、アーデルハイトは言う。そうすることで、ユージンの胸にも同じ黒い薔薇が咲く。
愛されたことがない彼女は愛し方を知らない。だから、ユージンはその声に従う。
「貴女の、心のままに」
けれど、ユージンはこうも思う。
たしかにフリードリヒは呪いによって非業の死を遂げたのかもしれないが、アーデルハイトがそうはならなかったのは、なぜだろうか。ユージンが女王の声のままに黒い薔薇の呪いを貰い受けたとしても、同じ運命を辿らないと、どこかで信じているのも。
だから、あの日のふたりの思いも言葉も、今のアーデルハイトとユージンもまた同じようにあれは呪いではなく、希望や祈りにも似た、救済であったのではないか、と。
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