5/6 子どもの日 遼お迎え編

章灯しょうとさん、あきら君、ありがとうねぇ~」


 珍しくバリッとしたスーツに身を固めた千尋が土産を片手に山海やまみ家を訪れたのは、午後7時を少し過ぎた頃だった。


 早めの夕食を終えたはるかは、結局泊まりになった湖上こがみと一日中騒ぎ倒したために少々うとうとしている。


「遼、帰るわよ」


 目をごしごしとこすり、鈍い反応しか示さない遼をかおるはひょいと抱き上げた。章灯でもそれなりに重いと感じる5歳児をあんな細い腕で軽々と持ち上げられるなんて、とひたすら感心する。


 自分の知っている郁という女性は、例えば汗をかくだとか、せかせかと慌ただしく動き回ったりだとか、とにかくそういった身体を動かすことに無縁で、だから、こういう風に重たいものを持つなんてこともイメージになかった。


 双子の片割れである晶の方はというと、ステージの上ではもちろん汗だくだし、縦横無尽に走り回ることもある(ぶっちゃけ遅いが、演奏しながらなのでバレてはいないようだ)し、重い機材も運んだりもするのだが。まぁ、それが母親というものなのだろう。


「山海さん、お世話になりました。晶も、迷惑かけたわね」


 郁は遼を抱いたまま章灯と晶に頭を下げた。遼は千尋へと手を伸ばしている。千尋は郁から遼を受け取り、ぎゅっと抱き締めた。遼は一瞬だけ嫌そうに顔をしかめたが、父の抱擁もまんざらでもないようで、満足げに目を細めた。


「いやいや、困った時はお互い様ですから」

「遼のピーマン嫌い、何とかしとけ」


 顔の前で手を振り、爽やかに返答する章灯とは対照的に、晶は眉間に深い深い皺を刻んで不機嫌顔である。


 郁と――というより、小林夫妻と対峙する時、晶は大体こういう表情になる。それはただシンプルにこの二人に苦手意識を持っているからなのだが、今回は少しばかり違うのではないかと章灯は思っている。


 ――即ち、寂しいという感情を無理矢理に押し込めた弊害、という。


 これで案外晶も遼を可愛がっているのだ。

 だから必ず食卓には遼の好物が並ぶし、先々のことを考えてどうにかピーマン嫌いを克服させようと尽力する。


 滞在中はおもちゃ売り場や絵本売り場にも連れていって、『常識の範囲内』で買い与えていたようだし、遼の話では膝の上で読み聞かせなんかもしていたようだ。あの声で。低く、落ち着いたあの声で、だ。相手は親戚の子どもだとわかっていても、つい嫉妬してしまう。


 だって、俺の耳元でなんてあまりささやいてくれたりしねぇんだもんな。


 良く口の回る小憎たらしい女の子ではあるが、そんなところも可愛い。それは章灯も同意見だ。その上遼は郁にそっくりなのである。ということは、少なからず双子の妹である晶にも似ているということで、それが尚更可愛さに拍車をかけている。……と言うと晶はきっと照れながら怒るだろうが。


 本格的にうとうとし始めた遼を「シートに乗せてくるね」と言って千尋は玄関を出た。郁はその背中に「そろそろお暇するから」と声をかけてから、再び晶に向き直る。


「結局、遼はピーマンを食べなかったの?」

「……昨日からやっと食べた」

「へぇ。晶のことだから毎日ピーマン尽くしにしたんでしょう?」

「尽くしってほどでもない。毎食一品ずつだけだ」

「それでもあの子にしたら『尽くし』なのよ。私は晶ほどのレパートリーはないから、良いとこ三日に一品ですもの。遼が食べた料理のレシピ、後で教えてちょうだい、一応」

「何だよ、一応って」


 郁の言葉に晶はかなり気分を害したようだった。右手を強く握りしめ身体を気持ち前に傾けている。まさか殴るつもりではあるまいが。


「だって私の料理は何でも必ず食べるもの」


 勝ち誇ったように、ではなく、それが当然とでもいうように、幾分か不思議そうな顔をして郁は言い切った。

 晶はそれを聞いて――、ぎりりと歯軋りをした。

 そりゃあ唯一無二の存在である母親にはさすがに勝てないだろう。章灯はそう思うのだが、晶は違うらしい。


 料理の分野では負けたくなかった。

 だって、自分にはそれしかないのだ。

 ここで音楽を出すのはフェアじゃない。それはわかってる。そんなの丸腰の相手と散弾銃でやり合うようなものだ。

 それに昨夜遼が食べたのだって自分の力だけではない。これも結局音楽の力によるものなのである。


「そんなに怖い顔しないで。仕方ないじゃない」


 いまにも殴り掛からんと郁に顔を近付ける晶を制しつつ、章灯が尋ねる。


「仕方ないって?」


 その時、「郁ちゃん、まだ~? はるるん寝ちゃったよぉ~ん」と呑気な声と共に千尋が顔を出した。


「ん? 何で晶君怒ってるの?」

「遼が晶の料理を拒否したのを怒ってるのよ」


 さらりと放たれたその言葉に、章灯と晶の時が止まった。晶を押さえる腕の力は一時的に0になったが、彼女の方でもすとんと力が抜けたらしく、その場に呆然と立ち尽くしている。


「あぁ~、そうなんだよねぇ。本当にはるるんには困ったもんだよね。発想が小学生男子っていうかさ」


 郁と千尋は開いたままの玄関ドアから助手席ですやすやと眠る我が子を見つめ、揃ってため息をついた。


「ちょっ、ちょっと待って。わざとって、どういう……?」


 先に時間が流れ始めたのは章灯だった。彼はいまだに呆然としている晶にもしものことが無いように、背中と胸を挟むようにして支えている。


「えぇ~? 章灯さんわかんないのぉ~? 相変わらず鈍ッ感なんだからぁ~!」

「千尋君、『男』の時にその口調は止めようか」

「そうよ、千尋」

「もぉ~郁ちゃんまでぇ~。わかったよぅ。……これで良いんだろ」


 キンキンとした女声を止め、低めの男声でしゃべる。郁はそれで良しと言わんばかりに頷いた。


「で? さっきの続きだけど」

「あぁそうそう、あれね。つまりね、ウチのはるる――遼は晶君のことが大好きってことなんだな」

「――は? そりゃ大好きだろうさ」

「違うの! そうじゃなくて! 親戚とか友達とかの『LIKE』じゃないの! ガチな方!」

「ガチな方?」

「そ。さすが晶君だよね、ウチの愛娘のハートも奪って行くんだから。ま、ピーマン嫌いなのはガチだけど、困らせて、独占したいんだよ、晶君のこと。」


 それが止めとなったらしく、晶はその場にぺたりと座り込んだ。


「おおい晶君、起きてる?」


 千尋は必死に晶の顔の前で手を振ってみるのだが、反応はなかった。


「――つまり、『好きな子はいじめたい派』っていうタイプってわけだな、遼は」


 小林夫妻から事情を聞いた章灯は、いまだにぼんやりとしている晶に冷たい飲み物を勧めつつ、背中をさすった。


「だからってあんなになぁ」

「そうだったんですか……。でも遼はいつも男の子みたいな恰好をしていますし……。それにまだ5歳じゃないですか」

「いやいや、俺だって確か初恋は幼稚園の先生だったし。前に言ったろ? 佐竹先生って」

「そういえば」

「それに、男みたいな恰好してるからって女の子が好きってわけでもないだろ。現に――」


 いつも男の振りをしているお前だって、中身はがっつり女だろ。


 とは言わなかったが。それに、遼の父親である千尋にしたって女装が趣味だが、郁を娶っているのだ。


「まぁ……そうですよね」


 皆まで言わずともさすがに気付いたらしい。そういえば自分もそうだったと。


「可愛いもんじゃねぇか。初恋がお前なんてよ」

「でも、私、女なんですけど……」

「ま、まぁ――……それはおいおい、だな」


 そう、問題はまだある。いつかは話さなくてはならないだろう。

 しかし、とにかく嵐は去ったのだった。

 2人の土手っ腹に大きな風穴をあけて通りすぎていった小さなその嵐の不在に、ずしりとした疲労感よりも寂寞の情を噛みしめる章灯と晶であった。


「また遊びに来ねぇかな、遼」

「次は容赦しません」


 次回からは二品にしてやります、と意気込む晶の頭を撫で、章灯は笑った。


「手加減してやれよ、少しは」



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