♪19 馬鹿野郎

 『それ』が流れるまでの数秒がとてつもなく長い時間に感じられた。


 ここから彼女の心をかっさらってしまった忌々しい『やつ』の声が聞こえてくるのだと思うと、身体中の血液が沸騰しそうである。目の前のパソコンを殴りたくなるような衝動に駆られ、落ち着け、と何度も自分に言い聞かせた。


 数秒の沈黙の後、がやがやと観客の声らしきものが聞こえて来る。タイムリミットだ。そう思った。


 成る程、ライブの音源なのか。

 とすると、既にデビューしているアーティスト? いや、インディーズで活動しているという線もある、か……。


 次に聞こえて来たのはやけに威勢だけは良いドラムスティックのカウントである。リズムの要であるはずのドラムはそのスタートの時点から明らかにテンポがずれまくっていた。

 そして、せっかくのカウントが何だったのかと思うほど足並みが揃わない状態で、ギターとベースが入ってくる。このイントロはどうやらBILLY THE COWBOYの『call my name』らしい。この腕前からして、既にデビューしているという可能性も、また、さすがにインディーズで、という可能性も限りなく0に近いと思われた。


 ――ということは、全くの素人だろう。例えばそう、中高生が学祭で演奏する、といったような……。


 ――ちょっと待て。

 中高生が、学祭で、だと……?


「――ままま待て待て待て待てぇっ!! ストップ、ストップ!! 止めろ!! 頼む! マジで!」


 章灯しょうとは必死の形相で腰を浮かせた。マウスに乗せられていたあきらの手の上に自分の手を重ね、カーソルを移動させる。


 ――どこだ。どこで停止させるんだ。


 落ち着いて考えればすぐに見つかる位置に『一時停止』はあった。数秒前まで『再生』があった場所。すなわち、さっきまでカーソルが留まっていたところに。


 だからそう、下手にマウスを動かさなければ良かったのに。


 しかし、気付くのが遅かった。

 そのために、その『声』はとうとう解放されてしまった。晶は突然の章灯の様子に目を丸くしている。それでもその『声』が流れると、気まずそうに視線を泳がせた。


 章灯はというと、結局流れてしまったその『声』からまるで身を守るように背を丸め、頭を抱えている。いや、もしかしたら耳を塞いでいるのかもしれない。


「すみません、章灯さん、私はこれを――」

「……もう良い」

「いえ、ちゃんとお話しないと――」

「頼む。良いから止めてくれ」


 弱弱しい章灯の懇願に、晶はわかりましたと一時停止をクリックする。リビングには再び静寂が戻った。


 音が止まっても章灯は顔を上げられないでいた。顔は、全身の血液が集まって来てしまったのかと思うほど熱い。そして鏡で確認するまでも無く、真っ赤になっていることだろう。背中を丸めた状態でぴくりとも動かない章灯を見て、晶は焦り出した。きちんと話さないと、そして、自分の気持ちを伝えなければと、必死に言葉を探す。


「あの、章灯さ」

「何でお前がこれを持ってんだ」


 被せ気味に問い掛けられる。失望したような、怒ったような、そんな声だった。


「コガさんが……良いものをやるって……」

「畜生……コガさんかよ……。で、アキはこいつが誰かって知ってて聞いてたのか」

「いえ、知りません。コガさんが、もういない人だと言ってましたから」

「いない人……。確かにな。あぁもう畜生」

「あの……章灯さん……?」

「……馬鹿野郎。本当に誰だかわかんねぇのかよ」


 その声だけはやけに小さい。


「章灯さん? いま何て……?」

「何でもねぇよ。――それで?」

「それで……その……すごく良い声だと思って……」

「おぅ、そうか……」

「それで……曲を……」

「あぁ……、これな……」

「そうです。私、こんなに……、こんなペースで書くのは、章灯さんにだけだと……。これは……その……浮気、というものに……」


 そこで晶は声を詰まらせた。悔いているのだろうか、これを聞いてしまったことを。曲を作ってしまったことを。


「安心しろ」

「……え?」

「浮気じゃねぇよ、ギリギリ」


 そこで章灯は顔を上げた。赤みはかなり引いたが、何だかどっと疲れたような表情をしていて、彼はそれでも精一杯笑って見せた。しかし眉は困ったように八の字に下がってしまっている。


「何で気付かねぇんだよ、アキの癖に」

「何でって……。え……?」

「あれはなぁ……」


「あれは、俺の声だ。声変わりする前のな」



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