The Event 3(19××~20××)

3/14 Whiteday side S

「すんません! 俺にチョコをください!」


 ここ最近毎日のようにやって来るその男性客が、派手な見た目にそぐわぬほどきっちりと腰を90度に折り曲げてそう叫んだのがいまから一月半前。2月の頭だったと思う。

 店では一言二言言葉を交わす程度だったから、彼の余りの必死さとその申し出の突飛さに度肝を抜かれ、つい「わかりました」と口を滑らせてしまった。そう言ってしまった以上、あげないわけにもいかず、とりあえず義理とわかるようなものを贈ったのが一月前のこと。


 あげたら当然お返しが来る。

 

 そんなことはその時全く考えていなかった。だって板チョコを2枚重ねてテープで留め、店名入りのビニール袋に入れただけのものに、まさかお返しをしようとする人なんていないと思っていたのだ。

 しかし、もしかしたら彼の方ではむしろそれが狙いだったのではないかと疑ってしまいたくなるほどのかなり気合いの入った『お返し』が、いま自分の手の上に乗せられている。


「これは何ですか?」


 自分が贈ったものよりも明らかに高価とわかるきれいな小箱を持ったまま投げ掛けるその問いは、恐らくかなり間の抜けたものであろう。何故なら――、


「チョコっすけど?」


 当然のようにそう返って来たからだ。

 もちろん自分の方ではそんな答えがほしかったわけではないのだが。


「さすがにそれはわかります。そうではなくて」

「バレンタインのお返しっすよ。ここのすげぇ旨いって勧められて。まぁ俺的には手作りでも良かったんすけど、さすがに引かれちまうかなぁって」


 いやいや、腕には自信あるんすけどね、とおどけて、その湖上こがみという名の常連客は腕を捲って見せた。鍛えているのかきれいな筋肉がついている白い腕である。


「手作りもそうですけど、こんなに高価な『お返し』をいただけるようなものは贈っていないはずですが」

「えぇ~? そっすかぁ? 俺にとってはこれでもまだ足りねぇくらいのものをもらったと思ってますけど」


 彼は至極不思議そうな顔をして首を傾げている。どうやら大真面目らしい。

 受け取ってくれ、いえ受け取れませんの応酬を何度も繰り返し、結局私が根負けする形となった。


「……有り難く頂戴致します。でも――」


 こういうのはこれきりにしてください、と続けようとしたところで、彼は「そうだ!」と叫んだ。閉店間近の店内に人気はなく、他のお客様の迷惑にならなくて良かったと胸を撫で下ろす。


「いきなり何ですか。そんな大きな声で」


 まだ営業時間中なのに、つい『従業員』としての仮面が剥がれそうになる。何だか彼にはペースを乱されっぱなしだった。


「デートしましょう! 飯田さん!」

「……はぁ?」


 止めのようなその提案に、私の営業スマイルは完全に崩れた。愛しい子ども達が揃って悪さをした時にだって見せたことのない、正に『鬼の形相』で彼を睨み付けてしまった、と思う。たぶん。


「うはぁ。そんな顔も素敵だ……」


 しかし、残念なことに彼には全く響かなかったが。


 男性からのアプローチはまぁ多い方だと思う。

 自分で言うのも何だが、顔もスタイルもまぁまぁ悪くない。接客業だから、というわけではないが、コミュニケーション能力もそれなりにある。それに――、


 一応、独身なのだ。子どもはいるけれども。


 離婚したわけではない。死別でもない。相手が既婚だったからとか、ましてや誰が父親かわからないというわけでもない。

 ただ単に、彼を困らせたくなかった。

 だから知らせずに別れ話をした。

 いや、違う。

 きっと私は怖かったのだ。

 自分と子どもの存在が、彼の人生の枷になることを。ほんの一瞬でも数秒でも疎ましく思われることが怖かったのだ。


 ただそれだけのために、子ども達から『父』という存在を奪ってしまった自分は最低の母親だと思う。その結果として、一番甘えたい時に甘えさせてやれないという環境に置いてしまっている。


 生きていくためにはお金を稼がなければならない。そう思ってこの状態を正当化する。だけどふとした時、愛しい子ども達の寂しそうな顔を思い出してしまうのだ。もしかしたら父親だって必要なのかもしれない。そう思う時もある。かといって、自分が恋愛をするのも何か間違っている気がしてしまう。


 私は母親なのだ。

 あの子達を守るためだけに存在しているのだ。


 それに彼は見たところ、自分よりもだいぶ年下のようである。一時の迷いでこんなコブ付きのおばさんに付き合って貴重な時間を消費させるのは可哀相だ。もし本当に好いてくれているのだとしたら気の毒だが、失恋の苦しさなど新しい恋で上書きすれば良い。彼にはその時間がたっぷりあるのだから。


「――わかりました。それでは今夜、ウチで御飯を食べませんか?」

 

 そう言った時、彼はかなり驚いた顔をした。そして肩を竦め探るような視線をこちらに向けて「……良いんすか?」と聞いてきた。正直なところ、意外な反応だと思った。もっとがっついてくるのだとばかり思っていた。


「良いも何も、私から誘ったんですが」

「そっすよね……。あの……」

「何でしょう」

「着替えとか持ってった方が良いすか?」

「着替えが必要なくらい汚しながら食べる癖でもあるんですか?」

「……ねぇっす」


 家で御飯、とは言ったが、2人きりで、とは言っていない。

 近くのコンビニで待ち合わせ、並んでアパートへと向かった。他愛もない話をしたと思う。話を振ってくるのは専ら彼の方だったが。


「電気点いてる」


 ここだと指差した部屋の灯りが点いているのを見て、彼がポツリと言った。


「もしかして旦那さんがいるとか……じゃないすよね」


 頬をひきつらせてそう問い掛けてくる彼に「どうでしょうね」とだけ返し、インターホンを鳴らした。


「お帰りなさぁい!」

「お帰りなさぁい!」

「お帰りなさいませ」


 びっくり箱の中身が飛び出すが如くの勢いで出迎えてくれたのは、愛しい我が子達――かおるあきらである。そしてその後ろにいるのは月に何度かお願いしている家政婦センターの塚本さんだ。

 この熱烈な出迎えに、案の定、彼は目を丸くして絶句している。


「遅くなってごめんね。塚本さん、急に夕食の人数増やしちゃってすみません」

「良いんですよ。それに私もお相伴に預かれるなんて。……本当に良いんですか?」


 塚本さんはどうやら彼が私の恋人ないしはその候補だと勘違いしているようで、かなり恐縮している。郁と晶にまとわりつかれながら誤解を――というか、むしろ諦めてもらうために呼んだのだと言うと、そういうことならお任せください、と頼もしい返事をいただいた。


 彼は意外にも子どもに好かれる質のようで、特に男性に対して人見知りをする傾向にある子ども達もあっという間に打ち解けてしまった。塚本さんと共にテーブルをセッティングしている間、ガハハという豪快な笑い声と子ども達の甲高い笑い声がリビングで混ざり合い、私達は顔を見合わせた。


「郁はまだしも、晶があんなになつくなんて」


 双子と言っても性格は真逆で、郁は社交的で活発、晶は内向的で慎重な子である。だから、晶が彼の隣にちょこんと正座をし、声を上げて笑っているのを見た時、私と塚本さんはほぼ同時に「まさか」と声を上げた。


 コガしゃんといっしょにねんね! と言って聞かない子ども達を何とか引き剥がして塚本さんに託し、アパートのエントランスまで彼を見送る。


「今日は御馳走様でした」

「いいえ」

「あの……飯田さん」

「何でしょうか」

「あの、確認なんすけど」

「はい」

「旦那さんは……」

「いません」

「いないんすか?」

「いた方が良かったですか?」


 冷静になって考えてみれば、私のこの作戦は実に場当たり的で幼稚だった。


「いっ、いえ! まさか! ……あの、そしたら……俺と……」


 私が彼を気になり始めてしまう可能性だって十分にあるのだから。


「お気持ちだけ頂戴致します。私は母親なんです。あの子達の」

「……母親だから、恋愛はしねぇってことっすか?」


 彼は叱られた犬のように背中を丸めて眉を八の字に下げ、こちらを見つめている。自分よりもかなり背が高いはずなのに、そうしている彼は何だかとても小さく見えた。


「そうです」


 その姿がちょっとだけ可愛く見えてしまったなんて、口が裂けても言えない。


「……だったら、待ちます」

「え?」

「飯田さんが母親を卒業するまで待ちますから!」

 

 だから俺と付き合ってください、と何だか矛盾するような台詞を吐いて、彼は深く頭を下げ、右手を差し出した。


 もちろん、私がそれを受けることはなかった。


 どうせ、若気の至りというやつだ。

 放っておけば冷めるだろう。

 

 そう高をくくって、私はちょっと困った顔でただ笑っていた。


 と思う。


 たぶん。


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